なり損ねた雷 作:白鳴
産屋敷の屋敷は、静かだった。
誰もが声を潜めているわけではない。襖の向こうでは足音がし、薬と湯の匂いも薄く流れている。それでも屋敷全体に、以前より深い静けさが沈んでいた。病が、もう隠しきれないところまで進んでいるのだと、言葉にしなくても分かる静けさだった。
座敷には柱たちが揃っていた。
空いた上座に、以前は床に伏せつつも同席していたお館様の姿はない。
代わりに座していたのは、あまねだった。
背筋を乱さず、袖を膝の上に整えたまま、一同を静かに見渡している。顔色にも声にも揺れはない。だが、お館様自身がここにいないという事実だけで、この会議がこれまでと同じではないことは十分に伝わった。
「皆様、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。本日は柱稽古の振り返りと、今後に備えた相談のために場を設けました」
あまねの声は穏やかだった。
穏やかなまま、労いはあれど余分な慰めを混ぜない。
「また、会議の後には、必要であれば柱同士で確認の鍛錬を行う時間も取ります。まだ詰められるものがあるなら、この機を使ってください」
行冥が短く応じる。
「こちらこそ、お館様のご体調が優れぬ中、こうして場を設けていただき、ありがたく存じます」
実弥が鼻を鳴らす。
伊黒は目を伏せたまま黙っている。
蜜璃は膝の上で指先を重ね、無一郎は天井のあたりへぼんやり目を向けていた。行冥だけが、ゆっくりと数珠を繰っている。
あまねはそのまま話を進めた。
「まずは、柱稽古全体の所感からお聞かせください。全体として見えた変化と、その中でも特に印象に残ったことがあれば、合わせてお話しください」
最初に口を開いたのは宇髄だった。
「全体で見りゃ、底上げはできた。踏み込みの雑さは減ったし、耳や足で拾うべきもんを拾える隊士も増えた。前より“考えて動く”やつが増えたのは確かだな」
そこで一度言葉を切り、わずかに目を細める。
「ただ、伸び方が極端なやつもいる。善逸の小僧なんかがそうだ。早ぇ。だが、ただ早ぇんじゃねぇ。拍の外へ出ようとしすぎる。合ってる時は派手に通るが、外した時に自分を削る」
短い言葉だった。
だが、場には十分な重さを持って落ちた。
あまねが静かに頷く。
「甘露寺さんは」
蜜璃は少し考えてから答えた。
「全体に、前より身体が柔らかく使えるようになったと思います。力で押すんじゃなくて、ちゃんと沈んで入れる子が増えました」
それから、少しだけ表情を曇らせる。
「善逸くんも、前よりずっと深く沈めるようになってました。前は速さで前へ出る感じが強かったんですけど、今は沈んでから入るんです。すごく、無理のない形に近づいてるようにも見えるんですけど……」
そこで言葉が迷う。
「……でも、無理をしていないわけじゃない気もしました。勢いで押してるんじゃなくて、もっと別のところを削って通してるみたいで」
伊黒が、その続きへ薄く言葉を差し込んだ。
「切れ目を探す足になっていた」
誰に聞かせるでもなく、事実だけを置く声だった。
「面で塞いでも、正面から噛みに来ない。入口を変える。入りの角度を捨てないまま、次の通り道だけをずらしてくる。手癖として完成すれば厄介だ」
そこで伊黒は一度だけ息を止める。
「だが、人間の反応より手順の方が前へ出すぎている」
実弥が低く笑った。
「気味の悪ィ進み方だなァ」
それは嘲りに近い音だったが、軽んじているわけではない。
むしろ、実弥なりに正しい場所を嗅ぎ当てた響きだった。
無一郎がぽつりと言う。
「速いんじゃない。消える場所を探すのが上手い。前よりずっと」
相変わらず抑揚の薄い声だった。
それでも、そこに引っかかりだけは残る。
「でも、そういう人って、戻るのが少し遅くなることがある」
誰もすぐには言葉を継がなかった。
あまねが次に視線を向ける前に、行冥が静かに口を開く。
「我妻は、重さや苦行では止まらなくなっていた」
数珠の音が小さく鳴る。
「止まらぬことは強さでもある。だが、止まらぬために人の側まで置いていけば危うい」
そこで一度、会議の空気が固まった。
誰も反論はしない。
褒めているわけでもない。
否定しているわけでもない。
ただ全員が、善逸という一人の隊士について、同じ場所ではないにせよ似た種類の違和感を抱いていることだけが、静かに揃っていた。
あまねはその空気ごと受け止めるように、ゆるやかに頷いた。
「皆様、ありがとうございます」
声色は変わらない。
けれど、そこにはすでに次へ進む気配があった。
「では、続けましょう」
その時、襖の外で足音が止まった。静かな間が落ちる。
入ってきたのは義勇だった。
誰も最初の一言を発さない。
遅れてきたことそれ自体より、その頬にある細い傷が、場の視線を先に集めたからだ。
浅い。
だが新しい。
血はもう止まっているが、今しがた刻まれたと分かる程度には生々しい。
義勇は言い訳をしない。
ただ座につき、短く頭を下げた。
実弥が最初に口を開いた。
「……遅ぇ上に、何だァその傷は」
義勇は視線を向ける。
「少し手間取った」
「手間取った、で頬が切れるかよ」
実弥の声には露骨な棘がある。
だがその棘の向きは、義勇の遅参そのものではなく、柱として見せた綻びへ向いていた。
伊黒もまた、細く刺す。
「柱稽古にも顔を出さず、その傷か。尚更不用意だな。誰に綻びを見せた」
義勇は、少しだけ間を置いた。
「……我妻」
その名が落ちた瞬間、場の空気がわずかに張る。
ここまでの所感が、そこでひとつの輪郭を持った。
実弥が鼻で笑った。
「あの小僧かァ。で、何をしに行った」
義勇は短く答える。
「来たから受けた」
一拍遅れて、実弥の眉が吊り上がった。
「はァ?」
あまりに短い返答だった。
律儀なのか、考えが足りないのか、どちらとも取れる長さだ。
伊黒の視線も、細いままわずかに鋭くなる。
「それで頬に傷か。随分と律儀なものだな、水柱」
義勇はそれ以上言い返さない。
必要なところだけを置く。
「木片だ」
「木片で血ィ取られたのか」
「凪の継ぎ目に入られた」
その一言で、座敷の空気が張り直された。
宇髄が初めて面白がるのではなく、納得したように息を抜く。
蜜璃は小さく口元を引き結び、無一郎はまばたきひとつせず義勇の頬を見ていた。行冥の指先だけが、数珠の上で一瞬止まる。
お館様の代わりに座を預かるあまねが、静かに問う。
「それは、善逸さんの変化をどう示していると思われますか」
義勇は即答しなかった。
頬の浅い熱へ一度だけ意識が触れる。
「速いだけではない。止まったものの継ぎ目を見てくる。前より深い。前より近い」
そこで、これまで黙っていたしのぶが、ようやく口を開いた。
「強くなった、というより……先に出るものの順番が変わっているのでしょうね」
実弥が眉を寄せる。
「何だそりゃ」
しのぶは穏やかなまま、言葉を継ぐ。
「速さや踏み込みの話ではありません。驚きや痛みや怖れのような、人として先に表へ出るはずのものより、手順や型の方が前へ出ているように見えます」
その場の何人かが、言葉にはしないまま同じ違和感へ触れたように黙った。
宇髄が低く言う。
「拍の外に出ようとする、ってのはそういうことか」
伊黒は腕を組んだまま、視線だけを落とす。
「人の反応より、手順の方が前へ出ている……厄介だな」
行冥の声は静かだった。
「止まらぬことは強さでもある。だが、止まらぬために置いていくものが増えれば危うい」
義勇は、その言葉に否も応も返さない。
ただ、自分の頬に残る浅い傷が、その危うさを現実として示していることだけは知っていた。
あまねは一同を見渡した。
「皆様、ありがとうございます」
声は穏やかだ。
だが、言葉はもう先を見ている。
「柱稽古で得たものは、皆それぞれ違うのでしょう。違うままで構いません。その違いを持ち寄り、各々の不足を埋めてください」
誰も異を唱えない。
「会議の後には、お伝えした様に時間を取りましょう。確認したいことがある者は、遠慮なく刀を交えてください。今のうちに詰められるものは、今のうちに詰めておくべきです」
柱たちが静かに応じる。
会議は終わりへ向かいながら、むしろひとつ深くなっていた。
善逸本人はこの場にいない。
それでも、その変化だけはもう、この場に確かにいた。
柱合会議が始まっている頃、炭治郎は屋敷の外れで一人、身体を動かしていた。
木刀ではない。
手にあるのは、刃の無い長さだけを写した棒だった。振るというより、流れをなぞるためのものだ。地を踏み、腰を落とし、息を通し、肩を開く。そうして、一つずつ、ヒノカミ神楽の舞を確かめていく。
舞はまだ完全には馴染みきらない。
繋がるところもあれば、どこかで身体が引っ掛かるところもある。踏み換えの瞬間に呼吸が浅くなり、斬り結ぶ想定のない舞のはずなのに、実戦の癖が混ざって肩が急く。父の舞のように淀みなく続けるには、まだ身体の方が足りていない。
だから炭治郎は、前よりずっと丁寧に見ていた。
何ができないかではない。どこで切り替わるのか。どこで息が浮くのか。どこで次の型へ移るための拍がずれるのか。舞そのものではなく、舞が変わる瞬間を拾う。
一つ舞う。
戻す。
もう一度、今度は踏み換えの位置だけを少し詰める。
その次は、腕ではなく腰の回りを意識して繋げる。
とうとう、柱稽古で善逸に会うことは叶わなかった。
会うことはなかったのに、その不在だけは妙に濃く残っていた。
行く先々で、柱たちの言葉の端々や見せる動作の僅かな差、そこに残る匂いから、善逸の異質さだけが炭治郎の前へ積み上がっていく。
炭治郎は舞を止め、息を整える。
善逸本人を見ていない。
見ていないのに、善逸の変化だけが輪郭を持ち始めている。
怖いわけではない。
けれど、少しだけ落ち着かない。
前の善逸なら、どこへ行っても善逸自身の声や匂いが先にあった。今は違う。本人の代わりに、柱たちの見立てや傷跡の方が先に届く。そのこと自体が、もう変質の証みたいだった。
炭治郎は再び構える。
ヒノカミ神楽は、舞の形だけをなぞっても身につかない。
型そのものではなく、型が変わる瞬間を身体へ通さなければならない。善逸が動きの継ぎ目を見に行ったのだとしたら、自分もまた、見なければならないのはそこなのだと思った。
完成した形ではなく、移り変わる一瞬。
繋がって見えるものの、その奥でわずかに揺れる拍。
炭治郎は一歩踏み出し、今度は舞を途切れさせずに繋げようとした。
足の裏が土を掴み、腰が回る。肩が開き、棒の先が円を描く。その流れの中で、次へ移るほんのひと呼吸ぶんだけ、世界が薄く見えた気がした。
そこだ、と炭治郎は思う。
刃そのものではない。振り切った結果でもない。
動きが変わる、その前の拍だ。
善逸がどこまで行ったのか、炭治郎にはまだ分からない。
だが少なくとも、自分もただ見送っているわけにはいかない。
見て、拾って、次へ繋ぐ。そうしなければ、この先で取りこぼすものが出る。
もう一度、舞う。
前より少しだけ、切り替わりが見えた気がした。
同じ頃、玄弥もまた別の場所で、自分に残されたもので前へ出るために身体を動かしていた。
やることは決まっている。
鍛える。
少しでも拾う。
少しでも前へ出る。
玄弥が握っているのは木刀ではなく、重心を確かめるための銃の張り型だった。振るためではない。突っ込むための感覚を確かめるためのものだ。踏み込みと銃は違う。だが、間合いを詰めることと、通る線を選ぶことは思ったより近い。
兄の動き。
柱たちの動き。
そして善逸の変化。
実弥の柱稽古で善逸を見た時、最初に覚えたのは違和感だけだった。
強くなった。だが、それだけでは済まない何かがあった。あいつは前へ出ていたが、前へ出るために削っているものの方が気にかかった。
今なら少し分かる。
柱たちが何を見ていたのかも、想像できる。
前より強くなっている。
だが、強くなり方が妙だ。
玄弥は一度、深く息を吐いた。
自分は全集中の呼吸を使えない。
そこは今さら変わらない。
変わらないなら、そのまま行くしかない。
ふと、上弦のことは刀鍛冶の里で遭遇した半天狗くらいしか知らないまま、それでも思う。
強い鬼ほど、自分の得意を押し付けてくる。間合いも、場も、呼吸も、全部まとめてこちらの気勢を削ぐように動く。
なら、もし相手がこちらの得意ごと削ぐように動くのだとしても、自分はそこを土俵にしなくていい。
整わないものごと押し潰されるなら、最初からそこへ依存しなければいい。
残るものだけで通す。
喰らった鬼の力を使える特異体質。
刀鍛冶に無理を言い作らせた南蛮銃。
呼吸なしに大岩を一町先に動かす膂力。
そういう、自分の中にまだ残っているものだけで前へ出る。
玄弥は、手の中の銃の張り型を握り直した。
善逸はたぶん、自分の中の何かを削って進んでいる。
兄貴は兄貴で、稀血を活かすために傷だらけになってでも前へ出る。
なら、自分はないものねだりはやめて、残っているものだけで行くしかない。
呼吸が乱されても関係ない。
怖くても関係ない。
残るものだけで通す。
その考えは、妙に真っ直ぐ落ちた。
ようやく、自分の中で噛み合った感覚が得られた気がした。
屋敷の奥では会議が進んでいる。
そこでどんな言葉が交わされているかは分からない。
それでも、同じ時に別の場所で、炭治郎は見るべき瞬間を掴み、玄弥は乱されるものに頼らない前進を掴んでいた。
そして二人とも、まだ善逸本人の今を知らない。
知らないまま、影だけを追っている。
だからこそ、その再会は後になってもっと重くなる。
会議を終えた柱たちの足音が、やがて静かに広がっていく。
各々がまた、それぞれの不足を詰めるために散っていく。
その空気の中で、善逸という名だけが細く残った。
速くなった、ではない。
変わりすぎている、という形で。
見た者にも、見ていない者にも、それぞれの中に気付きという変容が静かに芽生えていた。