なり損ねた雷   作:白鳴

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燃える夜の、その手前で

蝶屋敷の廊下は、昼を過ぎてもひんやりしていた。

 

磨かれた板の上に光が落ち、障子越しの白が細長く伸びている。薬草を煎じた匂いと、布を干した匂いが混ざる。傷を癒やすための場所の匂いだ。けれど、胡蝶しのぶの部屋の前だけは、回復の気配よりも、もっと薄くて硬い何かが沈んでいた。

 

「入りなさい」

 

その声に促されて、栗花落カナヲは部屋へ入った。

 

しのぶは机の前に座っていた。紙の上には細い文字が並び、脇には薬瓶と、乾かした藤の花を包んだ紙袋がある。いつものように微笑んではいたが、机の上のものの置き方が少しだけ隙がない。気を抜いている人間の置き方ではなかった。

 

カナヲは黙って座る。昔なら、呼ばれたから来た、それだけだった。けれど今は少し違う。呼ばれた理由を量るように、視線だけが机の上をなぞった。

 

しのぶはその視線に気づいていたが、すぐには本題へ入らなかった。

 

「柱稽古はどうでしたか」

 

「……前より、見えるものが増えました」

 

「何が」

 

「自分が、どこで遅れるか」

 

しのぶの目が、ほんの少しだけ和らぐ。

 

「良いことです」

 

「良い、ですか」

 

「ええ。見えないまま遅れるのと、見えた上で遅れるのでは違いますから」

 

しのぶはそう言って、机の上の紙を一枚だけ裏返した。何が書いてあったのかは見せない。ただ、隠す必要があるものを机の上に置いていた、という事実だけが残る。

 

「何か、ありますか」

 

カナヲはまっすぐに聞いた。

 

しのぶは答えるまでに少しだけ間を置いた。

 

「ありますよ」

 

「ただ、まだ全部をあなたに渡す段階ではありません」

 

「……そうですか」

 

「不満ですか」

 

「いいえ」

 

カナヲは短く答えた。

それでも、目だけは机の上から離れない。

 

しのぶはそんな変化ごと見透かしているようだった。

 

「あなた、前よりよく見るようになりましたね」

 

カナヲは何も答えない。

答えなくても、否定にはならなかった。

 

「それでいいんです」

 

しのぶは微笑んだまま、指先で机を軽く叩いた。

 

「見た上で選びなさい。誰かの指示だけで動くのではなく、自分の目で見て、自分で選ぶ。そういう場面は必ず来ます」

 

カナヲの指先が、膝の上でわずかに強く組まれる。

 

「師範は……」

 

口にしてから、続きを一瞬迷う。

 

「……どこまで、決めているんですか」

 

しのぶの笑みは崩れない。崩れないまま、その奥だけが少し冷える。

 

「決めていることと、まだ決めきれていないことがあります」

 

「決めていることは」

 

「秘密です」

 

口元に人差し指を当てる。軽い調子だった。けれど、それで軽くなる話ではなかった。

 

しのぶは机の端の小瓶へ目をやった。

 

「服薬量も、まだ調整しています」

 

カナヲの目が、わずかに動く。

 

「……前に仰っていた量よりも、ですか」

 

「ええ」

 

しのぶはあっさりと認めた。

 

「予定していたままではありません。少なくとも、今はまだ」

 

その言い方だけで、まだ閉じていないものがあると分かった。

 

しのぶは立ち上がり、窓際へ寄る。襖越しの日差しが蝶の髪飾りに引っかかり、ほんの一瞬だけ明るく見えた。

 

「人は、全部を準備してから戦いへ行けるわけではありません」

 

背を向けたまま、しのぶは言う。

 

「足りないまま行くこともあります。間に合わないまま決めることもあります。だからせめて、何を持っていて、何をまだ持っていないかくらいは見えていた方がいい」

 

カナヲはその背中を見る。小さく見えるのに、何かがもう決まりすぎている背中だった。

 

「あなたは、前よりずっと大丈夫です」

 

「……何がですか」

 

「選ぶことが」

 

しのぶはそこで振り返った。

 

「だから、その時が来たら、ちゃんと自分で選びなさい」

 

部屋の中は静かだった。薬の匂い、藤の匂い、紙の擦れる匂い。その全部の中で、「その時」という言葉だけが少しだけ大きく残った。

 

そして、しのぶは最後にもう一つだけ足した。

 

「間に合うなら、迷わないことです」

 

カナヲの瞳が、そこで初めてはっきり揺れる。

 

「……何に、ですか」

 

しのぶは微笑んだ。

 

「それはカナヲが判断するのですよ」

 

問い返させない微笑みだった。

けれど、もう十分だった。

 

何を明かされたわけでもない。

それでも、しのぶがもう自分を選ぶ側へ立たせようとしていることだけは、はっきり分かった。

 

その事実が、胸の奥で静かに重かった。

 

 

 

桑島慈悟郎の家には、夕方の色が落ちていた。

 

障子の向こうで光が薄まり、板の間の影が少しずつ濃くなる。古い家だ。柱も床も、長く使われた木の匂いがする。そこに、わずかに汗と土の匂いが混ざっていた。

 

善逸は縁側の前に立っていた。木刀を持っている。肩で息はしていないが、身体の奥の熱だけは抜けきっていない。

 

桑島は座したまま、その立ち方を見ていた。

 

「もう一度やるかい、善逸」

 

善逸は短く頷く。

返事はない。

声にするより先に、身体が答えていた。

 

桑島も木刀を取る。

 

構えた瞬間、善逸の重心はすでに少し沈んでいる。前へ出るためではない。次に通る場所を先に決める沈みだ。昔のように、ただ一つの速さへ自分を投げる立ち方ではない。今はもっと、速さを通す入口を選んでいる。

 

踏み込む。

 

速い。

だが、昔の壱ノ型とは違う。前へ一直線に抜けるのではなく、沈んでから出る。腰の深さに、別の型で覚えたものが混ざっている。面をずらす感覚、切れ目を探す足、身体の柔らかい沈み。それらが全部、壱へ押し込まれている。

 

桑島は受ける。

受けながら知る。

継いではいる。

だが、綺麗な継ぎ方ではない。

 

善逸はまた踏み込む。今度は角度が違う。次は浅い。次は正面に見せて半歩だけずれる。型を増やしたのではない。増えたものを全部、壱へ押し込んでいる。だから速い。その代わり、何かを後ろへ置いてきている音がする。

 

桑島は打ち止めた。

善逸の木刀が止まり、熱だけが少し遅れて抜けていく。

 

「……継いではいるな」

 

善逸は何も言わない。

 

「じゃが、綺麗な継ぎ方ではない」

 

その言葉にも反論しない。

反論しないということは、善逸自身もどこかで分かっているのだろう。

 

「ずいぶん削ったのう」

 

桑島は木刀を膝へ置いた。

 

「抜けた分まで、ひとつへ押し込んでおる。そういう音がする」

 

善逸は、そこでようやく少しだけ顔を上げた。

泣きもせず、怒りもせず、ただ事実として受ける顔だった。

 

「行けるところまでは、行きたいです」

 

願望を飾る声ではなかった。

言い訳でもなかった。

ただ、選んだ負荷をそのまま引き受ける声だった。

 

桑島は目を細める。

それが嬉しいのか、痛いのか、自分でもすぐには分からなかった。

 

「そうかい、善逸」

 

善逸は木刀を握り直した。

 

「まだ足りないのは分かってます」

 

桑島の指が、わずかに止まる。

 

「怖いのも痛いのも、あります」

 

そこで一度、言葉が切れた。

 

「……でも、前より先に出てこない感じがします」

 

自覚している。

そこまで来ているのか、と桑島は思う。

 

「それでも、行くんじゃな」

 

「はい」

 

「戻れんかもしれんぞ」

 

善逸は少しだけ目を伏せ、それから答えた。

 

「戻れなくても、届かないよりはましです」

 

その返しを聞いて、桑島は深く息を吐いた。

もう止める段階ではない。

止めるならもっと前だった。

ここまで来た善逸に必要なのは、諭しではなく見届けだ。

 

「なら、よう見ておきなさい、善逸」

 

善逸が顔を上げる。

 

「自分が何を削って、何を残しているかを。届いたあとで、それが分からぬのがいちばん危うい」

 

善逸は短く頷いた。

以前なら、この重さの言葉の前で何かしら取り乱しただろう。

今は、受ける。受けたまま立っている。

 

桑島はそこで、はっきり知った。

少なくとも、今の善逸は今の善逸として、一度は届いた。

 

だがそれは、晴れやかな到達ではなかった。削り、押し込み、歪ませた末の到達だ。継承ではある。だが、そのまま渡せる形ではない。

 

それでも、届いてしまった。

 

「先生」

 

善逸がふいに言った。

 

「まだ何かやることがあるんですか」

 

桑島は少しだけ笑った。

見透かされているわけではない。

だが、善逸の耳はそういう気配を拾うようになっている。

 

「古い縁じゃよ」

 

善逸は黙って聞いている。

 

「歳を取っても、呼ばれる時は呼ばれる」

 

それで十分だった。

どこへ行くのかは言わない。

言わなくても、今の善逸には“まだ立つつもりだ”という気配だけで足りる。

 

「善逸は、お前さんの行く先を見なさい」

 

「はい」

 

「儂も残りを使うだけじゃ」

 

縁側の外で、風が木を鳴らした。

夕方の気温が少しずつ落ちていく。

夜が来る。

その夜が、いつもと同じ夜ではないことくらい、二人とも分かっていた。

 

善逸は木刀を置き、深く礼をした。

深くなりすぎない礼だった。

崩れないまま、今の自分にできる長さだけ頭を下げる。

 

桑島はその背を見ながら、心の中でだけ言った。

 

継いだな。

歪でも、削れていても、もう継いだ。

 

その事実だけが、ひどく重く、少しだけ誇らしかった。

 

 

 

座敷には、重い沈黙があった。

 

柱稽古の所感を一通り終えたあとも、誰もすぐには立たなかった。善逸という一人の隊士について交わされた言葉が、まだ場に残っていたからだ。速い、では足りない。強い、でも足りない。あれはもう、進み方そのものが変わり始めている。そうとしか言いようのない違和感が、各々の胸に澱のように沈んでいた。

 

宇髄の座だけが空いている。

あの男がこの場にいない理由を、ここにいる者は皆知っていた。爆ぜるための手順は、もう別の場所で進み始めている。

 

あまねが一同を見渡した。

 

「皆様に、お伝えしておくことがあります」

 

誰も口を挟まない。

その声色だけで、これが柱稽古の延長ではないと分かったからだ。

 

「主人は、鬼舞辻無惨をこの屋敷へ招き入れます」

 

蜜璃の指先が、膝の上で強く組まれた。

伊黒の視線が細まり、義勇は目を伏せる。行冥の数珠だけが、ゆっくりと鳴っていた。

 

実弥が、低く問う。

 

「……それは、どういう意味ですか」

 

荒さを呑み込んだ声だった。

向け先を違えないための、ぎりぎりの抑えがあった。

 

あまねは視線を逸らさない。

 

「この場で主人と私が残ります。子どもたちはすでに遠ざけました。無惨が踏み込んだ瞬間をもって、ここを起点に仕掛けます」

 

沈黙が落ちる。

それは理解できない沈黙ではなく、理解したくないものを理解してしまった沈黙だった。

 

しのぶが静かに口を開いた。

 

「……意表を突くために、必要だとご判断なさったのですね」

 

「はい」

 

あまねは短く答える。

 

「正面から積み上げて届く相手であれば、皆様はすでに届いているはずです」

 

その一言のあと、わずかな静けさが広がった。

先ほどまで話していた善逸の気配が、誰の中にもよぎる。

 

蜜璃が、俯いたまま言った。

 

「嫌です」

 

小さい声だった。

けれど、はっきりしていた。

 

「嫌ですけれど……それでしか届かないなら、止められません」

 

伊黒は目を閉じることもせずに言う。

 

「受け入れたいのではない。ただ、否定しきれないだけです」

 

義勇は短い。

 

「拝受します」

 

行冥の声は低く、静かだった。

 

「苦しい決断です。ですが、苦しいだけでは届かぬのでしょう」

 

実弥だけが、すぐには言葉を置けなかった。

やがて、喉の奥で噛み潰すように言う。

 

「……奥方様」

 

その呼びかけには、敬意と、行き場のない苛立ちが両方あった。

 

「そこまでして、届かせるおつもりですか」

 

あまねは、まっすぐ頷いた。

 

「はい」

 

それだけだった。

言い訳も、慰めもない。

だからこそ、実弥もそれ以上荒げられなかった。

 

その時、耀哉がわずかに息を継いだ。

 

「相談では、ないんだ」

 

声は弱かった。

けれど、その弱さの中に揺らぎはない。

 

「私達を、使ってくれるね」

 

柱たちの視線が集まる。

 

「無惨へ届くための、一手として」

 

誰も、はいとは言わなかった。

言える話ではない。

 

けれど、その場にいた全員が、もう立つ位置だけは決めさせられていた。

 

 

 

夜になる前に、桑島は家を出た。

 

大きな荷は持たない。必要なものだけを身につけている。古い羽織、履き慣れた草履、握ればまだ重さを返す手。老いた身体だ。もう若い頃のようには動かない。それでも、立つべき場所があるなら立つ。そういう人間が、ここまで生き延びてきた。

 

家を出る前、桑島は一度だけ振り返った。

 

善逸の気配はもう奥にある。こちらを見送ってはいない。見送らせなかったのは、別れの形にしたくなかったからかもしれないし、ただ余計なことを言えば自分の方が鈍ると思ったからかもしれない。

 

どちらでもよかった。

 

「さて」

 

小さく呟く。返事をする者はいない。

 

古い縁に呼ばれた。ならば、残ったものを持って行くだけだ。

 

産屋敷の屋敷へ向かう道は、まだ暗くなりきっていない。空は沈みきる前の色をしている。終わりへ向かうには、ひどく静かな色だった。

 

静かなまま、すべてが少しずつ整っていく。託す者も、見届ける者も、もう前夜の位置に立っている。

 

その夜が、燃えるための夜であることを、まだ誰も口にはしなかった。

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