なり損ねた雷 作:白鳴
産屋敷耀哉は、咳をしなかった。
咳をすれば喉が裂ける。肺が焼ける。血の匂いが部屋に広がる。
けれど今は、それすら少し遠いことのように思えた。痛みが消えたわけではない。むしろ身体の奥では、骨も臓腑も、もう長くは保たないと知っているような鈍い重さが続いている。
それでも、この夜に限っては、苦痛より先に静けさがあった。
部屋の中は整っている。
余計なものは置いていない。灯りも強くない。障子の向こうでは、夜気が少しずつ冷えていく気配だけがある。
傍らには、あまねがいた。
いつも通りに座している。背筋を正し、膝の上に両手を重ねている。その姿は穏やかで、何ひとつ乱れていない。けれど、長く連れ添った者にしか分からない硬さが、今夜のあまねにはあった。
耀哉は、少しだけ笑った。
「静かだね」
あまねは頷く。
「はい」
「皆、離れたかい」
「ええ。予定通りに」
輝利哉たちの名は出さない。
出せば情が前へ出る。情は間違いではない。だが今夜は、それを手順の前に置いてはならなかった。
耀哉は、布団の上で微かに姿勢を正した。痛みが走る。皮膚が裂けるような痛みだ。けれど、今さらその程度で顔を歪める理由もない。
「寂しいかい」
あまねは少しだけ目を伏せる。
「寂しくないと言えば、嘘になります」
「そうだろうね」
「ですが」
あまねは耀哉を見た。
「今夜に限っては、寂しさより先に、届くかどうかを考えております」
耀哉は、ほんのわずかに目を細めた。
「届くと思うかい」
「届かせるために、ここまで参りました」
言い切りだった。
励ましでも、祈りでもない。
もう決め終えている者の声だった。
耀哉は深く息を吐いた。病に侵された肺には重い呼吸だったが、それでも今は苦しくなかった。
「君がいてくれて、本当に良かった」
あまねは微笑む。
「その言葉は、明朝に取っておいてくださいませ」
「明朝は来ないね」
耀哉はあっさりと言った。
あまねは顔色一つ変えない。
「それでもです」
沈黙が落ちた。
言うべきことは、もう多くない。多くないところまで、すでに話し終えてきた者同士の静かな間だった。
障子の向こうで、風が木を鳴らす。
その音の間に、ほんのわずかに、空気が変わる兆しが混じった。
あまねの視線が外へ向く。
「来ます」
耀哉は目を開けた。
「うん」
それ以上の言葉はなかった。
待っていた相手が、ようやく辿り着く。ただそれだけだ。
「最後に」
耀哉が言う。
「君と同じ刻を歩めて良かった」
あまねは膝の上の手を少しだけ重ね直した。
「私もでございます」
その答えが終わるのと、夜気がさらに一段冷えたのは、ほとんど同時だった。
鬼舞辻無惨は、夜の道を歩いていた。
地に足をつけて進んでいる。だが、その動きに人の重みはない。土を踏んでいるのに、踏んだ痕跡だけが遅れて認識されるような歩き方だった。
月は薄い。
その薄い光の下で、無惨の輪郭だけが妙に鮮明だった。
産屋敷の屋敷へ向かう道は、静かすぎた。
人気はない。
気配も薄い。
普通なら罠の臭いがする。だが無惨は、罠を恐れない。恐れる必要がないと思っている。毒も刃も火も、己を決定的には傷つけられない。その確信が長すぎる年月をかけて骨の中まで沁み込んでいる。
それでも、今夜の静けさは少しだけ気に障った。
整いすぎている。
産屋敷耀哉という男は、いつもそうだ。
弱く、脆く、病に侵され、呼吸するだけでも命を削るような身体のくせに、場の整え方だけは不快なほど正確だ。こちらが嫌がる順番を知っているように、わずかに先回りしてくる。
無惨は、そのことを思い出すだけで胸の奥がざらついた。
屋敷の敷地へ入る。
風が少しだけ止んだ。
草の匂い、木の匂い、古い家の匂い。そこに、香が細く混ざっている。
生きた人間の匂いもある。
弱い。薄い。
もう長く保たない身体の匂いだ。
襖の前で足を止める。
中には二人。
耀哉と、妻。
子どもたちの気配はない。
遠ざけたのだろう。そこだけは理性的だ。
襖が開く。
香の匂いが少しだけ濃くなる。
その向こうに、産屋敷耀哉がいた。想像していた以上に壊れている。皮膚は爛れ、顔の大半はもう人の形を保っていない。それでも目だけは、妙に澄んでいた。
その隣に、あまねが座している。
妻の方も、怯えてはいない。
「ようやく会えたね」
耀哉が先に言った。
声は弱い。
弱いのに、言葉だけが妙にはっきりしている。
無惨は部屋へ足を踏み入れる。
「ずいぶんと待たせたようだな」
「ええ。長かったよ」
耀哉は微笑んでいた。
その微笑みが、無惨の苛立ちをほんの少しだけ増やす。
「貴様のようなものが、私を待つなどと口にするな」
「では」
耀哉の声は静かだった。
「終わりを待っていた、と言い換えようか」
無惨の目が細くなる。
「終わるのは貴様の方だ、産屋敷」
「そうかもしれないね」
あっさりと認める。
認めること自体が、反抗みたいで腹立たしい。
耀哉は続ける。
「僕は今夜で終わるだろう。だけど、僕が終わることと、君が終わらないことは同義じゃない」
その一言で、部屋の空気がわずかに変わった。
無惨はそれを感じ取り、眉を寄せる。
耀哉は、なおも無惨を見ていた。
「君は長く生きた。誰よりも強く、人を恐れさせ、踏み潰し、喰らい続けた。だけど、そのどれを積み上げても、君は一度も終わりを引き受けていない」
無惨の指先が、わずかに動く。
「死を遠ざけることしかしてこなかった者が、死を含んだ生を見下すのは、少し滑稽だね」
その言葉が終わるより早く、無惨の気配が膨れた。
畳が軋む。
空気が重くなる。
殺意が、もはや形を持つほど濃い。
だが、あまねは動かない。
耀哉もまた、逃げようとしない。
そこで無惨はようやく気づく。
逃げないのではない。
逃げる段階をもう終えている。
「貴様……」
耀哉の目が、ほんのわずかに細まる。
「ようこそ」
その一言が、合図だった。
爆音は、言葉より先に世界を裂いた。
光が弾ける。
熱が膨張する。
屋敷そのものが内側から引き裂かれ、木片と炎と衝撃が一気に夜へ吹き上がる。
無惨は咄嗟に腕を上げる。
皮膚が焼ける。肉が裂ける。骨が軋む。
致命ではない。致命ではないが、無傷でもない。
爆風の中で、産屋敷の匂いが消える。
妻の匂いも、部屋の匂いも、香も、全部まとめて炎へ変わる。
その直後だった。
鎖の音。
悲鳴嶼行冥の鉄球が、焼けた煙を引き裂いて無惨へ叩き込まれる。
続けて不死川実弥の刃が走る。伊黒小芭内の斬撃が蛇のように絡み、時透無一郎の刃が霞のように入り、甘露寺蜜璃の鞭のような刀身がしなって襲う。冨岡義勇の水が低く沈み、胡蝶しのぶの突きが一点へ集まる。
一斉攻撃。
誰一人、間に合わなかったのではない。
間に合わせないために、ここへ立っている。
無惨の身体が、初めて押し返される。
押し返された、という事実そのものが異様だった。
肉が裂ける。
腕が飛ぶ。
頸が半ばまで削がれる。
だが次の瞬間には再生が始まる。
その再生へ、鋭い痛みが割り込んだ。
針。
爆風と斬撃の隙間を縫って、無惨の皮膚へ何本もの細い刺突が沈んでいる。
刃ではない。
縫い留めるような、覚えのある嫌な感触。
浅草。
記憶が一瞬、逆流する。
人間を鬼に変え、失敗作としてしか扱わなかったはずの一件。
あの夜、偶然に過ぎぬと思っていた小さな棘。
その棘が、今、別の執念に研がれて戻ってきていた。
無惨の傷口の内側で、何かがずれる。
再生の拍がわずかに遅れる。
肉が盛り上がる順番が狂う。
「……珠世」
無惨の声が、初めて明確に歪んだ。
単なる憤怒ではない。
長く触れられなかったものへ、ようやく触れられた時の不快。
しのぶの突きが、そこへさらに重なる。
藤の匂いが一拍遅れて立ち、珠世の調えた毒が無惨の血へ沈んでいく。
一つではない。
浅草で刺さった棘の因縁。
珠世が積み上げた薬の層。
しのぶが身体ごと運び込んだ執念。
それらが今夜、同じ一点で噛み合っていた。
無惨の肉が膨らみ、裂け、再生し、またわずかに鈍る。
初めてではない。
だが、ここまで同時に噛みつかれたことはない。
「下らん」
無惨が唸る。
声には怒りが滲んでいた。
静かな絶対者の声ではない。明確に不快を乗せた声だ。
「この程度で」
鉄球がもう一度来る。
水の刃が重なり、風が肉を裂き、蛇のような太刀筋が逃がさない。
柱たちは誰一人、言葉を交わさない。
この一瞬のために、何を飲み込んできたかを互いに知っているような呼吸だけがある。
それでも無惨は止まらない。
止まるはずがない。
だが、鈍った。
ほんのわずか。
それだけで、行冥の鎖が一拍深く入る。実弥の風が一枚多く肉を裂き、義勇の水が再生へかかる拍をずらし、しのぶの突きがさらに毒を押し込む。
その時、畳の下、焼けた柱の下、崩れた家の残骸のもっと奥から、低い音が響いた。
空間が軋む。
屋敷の地面そのものが、ずれていく。
柱たちの足場が崩れ、景色が歪み、夜の空が裂ける。
鳴女。
無惨の口元が、そこで初めてわずかに吊り上がった。
余裕ではない。
押し返された側が、ようやく手札を切る時の歪んだ笑みだった。
「そうだ」
崩れる足場の中で、無惨が低く言う。
「貴様らは、地の利を得たと思っただろう」
床が消える。
屋敷が裂ける。
炎の上に、別の闇が口を開ける。
「ならば、そのまま落ちろ」
柱たちの姿が、炎と瓦礫ごと闇へ呑まれていく。
手を伸ばしても届かない速度で、世界の底が開く。
重力が向きを変える。
音が縦に落ちる。
夜空はもう空ではなく、遠ざかる出口になる。
無限城。
鳴るはずのない琵琶の音だけが、底のない闇に薄く響いた。