なり損ねた雷 作:白鳴
戦音の中、狭き道を選ぶ
落ちる、と思った時には、もう足場が足の下に無かった。
悲鳴嶼行冥は鎖を引いた。鉄球の重みが一拍遅れて腕に返り、身体の向きを無理やり正す。瓦礫と炎の残光が上へ流れ、次の瞬間には障子と梁と畳のような床板が、あり得ぬ角度で視界を横切っていた。
上下が定まらぬ。
落ちているのか、滑っているのか、それとも空間そのものが組み替わっているのか。判断より先に、耳と皮膚が異様を拾う。遠くで琵琶が鳴り、その一音ごとに壁と床の位置がずれる。柱が天井へ立ち、階が横へ重なり、廊下が縦に伸びる。人の住む家の理から、明らかに外れていた。
行冥は着地と同時に膝を沈めた。床板が悲鳴のように軋む。近くに二つ、三つ、隊士の落ちる音。ひとつは浅く、ひとつは軽い。軽い方は柱だ。
「動ける者は声を出せ」
低く落とした声は、城の歪みの中でもよく通った。
右手前で返事。若い隊士が一人。息は乱れているが骨は折れていない。少し遅れて、左奥から無一郎の声。
「いるよ」
短い。
だが、落下直後とは思えぬほど乱れがない。
その確認が済むより早く、鬼が来た。
壁だったものの隙間から、二体。さらに梁の上から一体。無限城に棲む雑魚らしく、形だけは人に似せているが、気配は軽い。行冥は数えない。鉄球を振るう。最初の一体の肩口から胸骨までをまとめて砕き、返した鎖で二体目の頸を引き千切る。三体目は、着地したばかりの無一郎が、霞のように間へ入って断った。血が散る。散った血が床へ落ちる前に、空間の向きがまた微かにずれた。
無一郎が、斬った鬼の向こうを見たまま言う。
「また変わる。真っ直ぐ進める場所じゃない」
行冥は短く頷いた。
「総員、持ち場の再編はすでに始まっている。輝利哉様が指揮を執っておられる」
その一言で、場の空気がわずかに締まる。お館様亡き今、誰の声に従うべきかは明らかでなければならない。
「我らは無惨を追う。道中の鬼は斬り捨て、足を止めぬこと。散った者らも、いずれ指揮のもとに寄る」
琵琶がまた鳴る。
城が応じるように軋み、遠くで誰かの戦う音がした。近くではない。だが、生きている音だ。
行冥は鉄球を握り直した。
無惨はこの城のどこかにいる。
落ちたのではない。誘い込まれたのだとしても、追うべき相手は変わらない。
「進むぞ」
無一郎はすでに半歩先で、次に開く通路を見ていた。
行冥が踏み出すと、無限城もまた、それに応じるように軋んだ。
真っ直ぐな廊下だったものが、三歩先で折れる。折れた先にまた障子があり、その向こうに階段が見える。だが階段は上へ伸びているはずなのに、途中から壁へ変わり、壁だった場所には別の床がせり出している。見たままを信じれば迷う。迷えば、城の方が先に組み替わる。
「右」
無一郎が言う。
行冥は問わない。鉄球を軽く鳴らし、そのまま右へ入る。後ろの隊士も迷いながら続く。さっきまで通路だった場所が背後で閉じる音がした。木が擦れるような音なのに、家が息をしているようでもあった。
壁際から鬼が出る。
最初の一体は細い。次は大きい。三体目は天井を這っていた。行冥は足を止めず、鉄球を前へ放る。最初の鬼の胸を潰し、そのまま返した鎖で二体目の顎を砕く。三体目は無一郎が斬った。霞が薄く流れたようにしか見えず、次の瞬間には鬼の胴と頸がずれている。
若い隊士が一人、息を呑んだ。
「す、すみません」
「構わぬ」
行冥の声は低い。
「立っているだけで良い時は、もう過ぎた。見て、付いて来い」
隊士は歯を食いしばり、頷いた。
その頷きが終わるより早く、また遠くで大きな音がした。
金属が打ち合う音ではない。
何か大きなものが壁ごと潰れるような鈍い衝撃。少し遅れて、床板を滑るような連撃の気配。さらに別方向からは、ひどく細い、耳へ刺さるような高速の斬撃音が連なっていた。
城のあちこちで、もう戦いが始まっている。
行冥は足を止めない。
止める理由がない。
輝利哉が指揮を執っている以上、それぞれの戦線はそれぞれの位置で噛み合うはずだった。今ここで必要なのは、すべてを見に行くことではない。自分の一群が、無惨へ至る線を絶やさぬことだけだ。
「上から来る」
無一郎の声が落ちる。
同時に、梁の影から鬼が二体降った。さらに奥の襖が内側から裂け、別の三体が雪崩れ込む。行冥は一歩前へ出る。鉄球が畳のような床板を削りながら円を描き、最初の二体をまとめて吹き飛ばした。無一郎がその隙間へ入り、二閃で二体。残る一体は隊士が震える手で刃を合わせ、行冥が返した斧で頸ごと落とす。
血が飛ぶ。
血の落ちる先が、途中で横に変わる。床だった場所が壁へ回り、壁が天井へ移る。無限城の理は最後まで人を揺さぶることしか考えていない。
隊士が一人、低く言った。
「……どこまで続くんだ」
行冥は前を向いたまま答える。
「敵の城に果てを求めるな」
短い答えだった。
だが、その言葉で隊士の呼吸が少しだけ揃う。
再び、別の戦闘音。
今度は、水が奔るような気配がした。
直後に、何かが鋭く砕ける音。そこへ、風が裂けるような連続音が重なる。近くではない。だが遠すぎもしない。柱たちが散ってなお、城のどこかで互いの存在だけは戦う音として届いてくる。
無一郎が、ほとんど独り言のように呟いた。
「全員、生きてるね。少なくとも、今は」
行冥は頷いた。
「ならば十分だ」
十分。
それは安心ではない。
生きているなら、次へ進ませる理由になるというだけだ。
通路がまた折れる。
障子の向こうに広間。広間の下に逆さまの階。階の下に、さらに別の廊下。人を迷わせるためだけに重ねたような城だ。
無一郎がわずかに目を細めた。
「……真ん中じゃない。少し左に寄る。大きい気配が流れてる」
無惨ではない。
だが、雑魚でもない。
行冥はその読みを受ける。
「避けるか」
「今はまだ」
それで足並みが決まる。
隊士たちはその短いやり取りの意味までは分からなくても、二人の進路がぶれないことだけで付いて来られる。
行冥は鉄球を肩の高さで一度だけ鳴らした。
鎖の音が、無限城の歪んだ空間をまっすぐ切る。
無惨はこの先にいる。
他の戦闘音は、その道中に散った火だ。
拾うべきではない。今はまだ。
「進むぞ」
今度は誰も返事を遅らせなかった。
城のどこかで、また別の鬼が断たれる音がした。
その音を背に受けながら、行冥の一群は、無惨へ届くための道だけを狭く選んで進んだ。
その頃、竈門炭治郎は、落ちるというより放り込まれていた。
背中から来るはずの衝撃が、途中で横へずれた。床だと思った場所が壁へ回り、壁だった場所が斜め下へ滑っていく。無限城の中では、身体の覚えている上下が何の役にも立たない。息を整えようとするたびに、景色の方が先に位置を変えた。
炭治郎は着地の直前で床板を蹴った。
半歩ぶんだけ勢いを殺し、膝を落とす。足裏に返ってきた感触は畳に似ていたが、柔らかくはない。木のしなりと、どこか湿った冷たさが混ざっている。
すぐ近くに、もう一つ軽い着地音。
冨岡義勇だった。
義勇は何も言わない。
言わないまま、落ちた場所からもう視線を動かしている。壁の継ぎ目、障子の隙間、梁の上。どこから鬼が来てもおかしくない角度を、最初から数えるような目だった。
炭治郎は短く息を吸う。
血の匂い。焦げた木の匂い。古い畳の匂い。
それに混ざって、城そのものが動く匂いがする。家なのに生き物みたいで、ひどく気味が悪い。
遠くで戦う音がした。
重い衝撃がひとつ。そのあと、何かを細かく裂く連続音。さらに別方向では、水が走るような鋭い流れがあり、そのすぐ奥で風が軋む。誰がどこにいるのかまでは分からない。けれど、柱たちも隊士たちも、それぞれの位置で動き始めていると音だけで分かった。
「立てるか」
義勇が短く言う。
「はい」
炭治郎は頷いた。
声に出した瞬間、自分の呼吸が少し浅いと分かる。落下の衝撃だけではない。空気そのものが息を整えにくい。一定に吸っているつもりでも、城の歪みにつられて拍が狂う。
義勇はそのことを言葉にしない。
言わないまま、一歩だけ前へ出た。
鬼が来る。
障子の向こうからではない。
床板の陰、梁の上、通路の折れた先。人を迷わせるために作られた城は、鬼を紛れ込ませるのにも都合が良すぎた。
最初の一体は炭治郎が斬る。
踏み込みは浅く。深く入れば、次の足場がずれる。首を落とし切る前に身体を返し、二体目へ行こうとした瞬間、横から入ろうとしていた鬼の頸を義勇が断った。水の形は小さい。だが、無駄がない。落下のあとだというのに、すでに剣の重心がまったくぶれていなかった。
「進むぞ」
義勇の声は低い。
炭治郎は頷き、並ぶ。
並んだ瞬間、少しだけ分かった。義勇は周囲を広く見ている。鬼を斬るためだけではなく、この城の“変わる前”を拾っている。壁がずれる気配、次に通路が閉じる位置、鬼の出てくる継ぎ目。その全部へ、前よりずっと早く気づいている。
凪の時と同じだ、と炭治郎は思った。
完成した形を受けるのではなく、形が切り替わる前を見ている。
その時だった。
奥の方で、何かが砕けた。
乾いた一撃ではない。
柱がへし折れ、床板が割れ、壁ごと抉られるような、派手で遠慮のない破砕音だった。ひとつで終わらない。二つ、三つと続き、城そのものがその進路に押し広げられていくみたいに響く。
炭治郎の足が止まる。
匂いが来るより先に、床を伝う震えが来た。
強い鬼が、隠れもせず、壊しながら真っ直ぐこちらへ近づいてくる。
次に匂いが届く。
重い。
研がれている。
血の奥に、磨き抜かれた硬さがある。刀鍛冶の里で嗅いだ、あの時の残り火が一気に肺の奥へ戻ってきた。
義勇が、足を止めずに言った。
「来るか」
炭治郎は声にする前に頷いた。
頷いたあとで、ようやく言葉が追いつく。
「……はい」
破砕音がまたひとつ、近くなる。
障子が揺れる。
梁の上の埃が落ちる。
静かに迫るのではない。
ここにいると知らせながら、壊して踏み潰して来る音だった。
炭治郎は刀を握り直す。
怖い。
けれど、それだけではない。
あの時よりも、見えるものがある。義勇の呼吸も、自分の足の置き方も、相手が踏み込む前の拍も。
義勇は前を見たまま、わずかに腰を落とした。
「崩れるな」
短い言葉だった。
炭治郎はそれに応じるように息を通す。
次の瞬間、通路の奥の障子が、内側から派手に弾け飛んだ。
猗窩座だ。
名を口にしなくても分かった。
砕きながら来る音も、正面から踏み潰しに来る圧も、何ひとつ隠す気のない近づき方も、全部があの鬼だった。
炭治郎は足を半歩だけ引き、義勇の横へ位置を合わせる。
引いたのではない。前へ出るための置き直しだ。自分でもそれが分かった。
砕けた木片が、ようやく床へ落ちる。
その音の中で、猗窩座の気配だけがさらに近く、濃くなった。