なり損ねた雷 作:白鳴
障子が、内側から派手に弾け飛んだ。
砕けた木片が空中に散る。
その破片を押しのけるようにして、猗窩座が現れる。足音を隠さない。気配も消さない。強者がそこにいると知らせるためだけみたいな立ち方だった。
背筋が冷たくなる。
刀鍛冶の里で嗅いだ匂いだ。
血の匂いの奥に、磨き抜かれた刃みたいな硬さがある。真正面から踏み潰しに来る鬼の匂い。思い出したくなくても、身体の方が先に思い出す。
猗窩座は俺を見るなり、口元を歪めた。
「また貴様か、竈門炭治郎」
声には、はっきりとした嘲りがあった。
「まだ生きていたか。弱さを抱えたままここまで来るとは、ずいぶんと見苦しい」
喉の奥で熱いものが動く。
けれど言い返さない。言葉にした瞬間、そこへ引っ張られる気がした。代わりに足を半歩だけ置き直す。猗窩座の視線が動く前、その肩と腰の入り方を見ようとする。前より少しだけ、相手の“来る前”へ目が行く。
その横で、義勇が静かに前へ出た。
一歩ぶんだけ、俺を後ろへ外す位置。庇うというより、二人で斬るための線を引き直すような動きだった。
猗窩座の視線が義勇へ移る。
「水柱」
楽しげですらある声だった。
「その顔だ。先刻よりはましになった。ようやく死にに来たか」
義勇は答えない。
ただ、刀を持つ指の置き方だけがわずかに変わる。
凪に入る前の、あの静かな前兆だ。
けれど前に見たそれより、切り替わりがずっと小さい。肩も腰も沈みきる前に、もう次の形へ入っている。止まるための静けさじゃない。動きながら継ぎ目を消している。
次の瞬間、猗窩座が踏み込んだ。
速い。
拳が真正面から叩き込まれる。
目で追えば遅れる。そう思ったのに、前より少しだけ見えた。義勇の刀が動くより先に、義勇の重心が沈んでいる。受けるんじゃない。流れごと切る位置へ、もう身体が入っている。
凪。
拳圧が裂けた。
飛び散る破片みたいな衝撃だけが横へ流れる。
義勇はそのまま一歩踏み込んだ。返しの一太刀。浅い。けれど浅いまま終わらない。猗窩座が身を捻った先へ、俺も入る。
ヒノカミ神楽。
刃が猗窩座の脇腹を掠める。
深くはない。致命には遠い。それでも、猗窩座の眼がわずかに細まった。
「ほう」
さっきまでの嘲りとは違う声だった。
「ようやく並ぶつもりか。だが、柱の横に立っただけで強くなった気になるなよ」
息を整えながら、義勇の横へ立つ。
前と違う。凪が、前より深く、速い。止める技じゃない。切り替わる隙を消した受けになっている。あの時、綻びとして見えたものを、今はもう埋めてきている。
その背を見て、思う。
鱗滝さんの教えが、別々の形でここまで来てる。
水の静けさ。
呼吸を繋いで前へ出る執念。
同じ場所から始まったものが、今は違う形で並んでいた。
猗窩座が笑った。
「面白い」
次の瞬間、空気が弾けた。
乱式。
重い拳圧が、通路ごと潰す勢いで押し寄せる。義勇が前へ出る。凪の円が広がる。俺はその縁に沿って踏み込む。前なら、守られて終わっていた。今は違う。守られた一拍のあとへ、自分から入る。
猗窩座の拳が、義勇の刀へ絡んだ。
白刃取り。
金属が軋む。火花が散る。
心臓が一瞬だけ冷たくなる。
折られる、と思った。前の記憶が身体の方で先に叫ぶ。
でも、折れない。
猗窩座の掌の中で、義勇の刀身がわずかに撓む。
撓んだまま、折れずに耐えている。義勇の手元は沈み込み、同時に切っ先の角度だけが生きていた。受け切ったんじゃない。折れる方向をずらしている。
猗窩座の目が、そこで初めてはっきり変わった。
「……折れんか」
義勇は答えない。
刀を掴まれたまま、一歩だけ足を切り替える。その小さな切り替えが、猗窩座の握りにわずかなズレを生む。
そこへ入る。
義勇の刀がまだ折れていない、その僅かな綻びへ身体ごと差し込む。肩を沈め、足裏で床を掴む。速く、ではない。遅れないように、だけを選ぶ。
だが、猗窩座の反応はそれより先にあった。
拳が来る。
視線に捉えられた、と思うより早く、入りへ噛み合っている。刃を返す。受け切れない。流しながら半歩ずらす。それでも拳圧が頬を掠め、皮膚が熱を持つ。
猗窩座は義勇の刀を払って距離を取る。
「いい」
低く、嬉しそうだった。
「それでこそだ。折れぬなら折れぬなりに、潰し甲斐がある」
次の踏み込みが来る前に、もうこっちの中へ何かが入り込んでいる。
踏み込むと決めた、その手前。
斬ると定まる、その瞬間。
そこへ向こうが噛んでくる。
猗窩座の拳を義勇が受ける。
俺も入る。
入ったつもりのところへ、もう猗窩座の拳がある。
「遅い」
違う。
遅いんじゃない。
こっちが前へ出るより先に、向こうが“そこ”を待っている。
羅針。
頭の奥で、あの夜の感触が戻る。
ただ速いんじゃない。ただ勘がいいんじゃない。こちらが攻めると決めた、その決めたものごと捉えられている。
「どうした、竈門炭治郎」
猗窩座が笑う。
「また揺らいだか。貴様はそういう顔をする。来ると見せて、来ない。燃えると見せて、すぐに鈍る」
悔しさが胸を刺す。
でも、その刺さり方まで向こうに見られている気がした。
「乗るな」
義勇の声が短く落ちる。
それだけで呼吸が戻る。
俺は猗窩座を見る。
拳じゃない。肩でもない。もっと前だ。こいつが攻めると決めた時、こっちが斬ると決めた時、その決めたものに反応している。
闘気。
言葉はまだ薄い。
でもそこに触れかけている感触がある。
猗窩座がまた踏み込む。
義勇が受ける。
俺も入る。
通路が裂ける。
床板が砕ける。
拳圧の余波で障子が吹き飛び、木片が雪みたいに舞う。
その木片が、二人のあいだに降った。
一枚。
薄い破片が、猗窩座の拳圧に触れた瞬間、粉みたいに砕けた。
その砕け方だけが、やけに遅く見えた。
拳そのものじゃない。
拳が届く前に、もう周りの空気が潰れている。
その潰れ方に、こっちの“出る気”が噛まれている。
見えたわけじゃない。
まだ足りない。
それでも、何を見ればいいのかだけは、さっきより近い。
猗窩座の眼もまた、わずかに変わっていた。
水柱の受けが折れない。
小僧の踏み込みが、前より鈍らない。
その違いを、向こうももう見ている。
それでも圧は少しも軽くならない。
木片が舞う。
床が裂ける。
拳圧が通路を抉る。
その真ん中で、俺たちはまだ立っていた。