なり損ねた雷   作:白鳴

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重ねる毒、重なる蝶と花

最初に来たのは、冷気だった。

 

廊下の角をひとつ曲がっただけで、空気の質が変わる。肌を撫でるというより、体温の輪郭だけを薄く削っていくような冷たさだった。吐いた息が白くなる。床板に落ちた血が、まだ乾ききる前に鈍く冷えている。

 

胡蝶しのぶは立ち止まらない。

 

甘い匂いがした。

花の蜜を水で薄めたみたいに、やけに軽い匂いだ。軽いくせに肺の奥へ残る。人を喰っている者の匂いなのに、執着や飢えの濁りがない。ただ、口当たりの良いものを選ぶみたいに命を扱ってきた者の匂いだった。

 

そのことが、何より腹立たしい。

 

鬼は嫌いだ。

だが、ここにいる鬼は嫌いというだけでは少し足りない。喰い、奪い、泣かせ、壊してきたはずなのに、その一つ一つが骨へ沈んでいない。傷つけたことすら、綺麗に忘れたまま笑うのだろうと分かる軽さがあった。

 

廊下の先で、氷が小さく鳴る。

 

怒りはある。

今も確かにある。

けれど、もう前へは出さない。前へ出せば、あれはきっと嬉しそうに覗き込んでくる。

 

それが、たまらなく不愉快だった。

 

「……本当に」

 

しのぶは、ほとんど音にならない声で呟いた。

 

「虫唾が走りますね」

 

壊れた襖の向こうに、白い冷気が流れていた。

 

「あれ」

 

男の声だった。

軽い。拍子抜けするほど軽い。まるで道端で知人でも見つけたみたいな、何の含みもない声。

 

「女の子だ」

 

その言い方に、しのぶは目を細めたくなるのをこらえた。

剣士でも、鬼殺隊でもなく、最初にそこなのかと思う。そこから入ってくる軽さが、もう駄目だった。

 

氷の向こうに立つ鬼は、柔らかく笑っていた。

 

整った顔立ち。親しみやすい声音。扇を持つ手つきまで穏やかだ。穏やかだからこそ、ここまでの道に残る死の気配とまったく釣り合わない。

 

「こんばんは」

 

しのぶは微笑んだ。

 

いつもの隊服。いつもの笑み。

それを崩さないまま、割れた襖の前へ立つ。

 

「随分と涼しげですね。過ごしやすくて助かります」

 

童磨はぱちりと目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。

 

「そう? それはよかった。君、感じがいいね」

 

感じがいい。

 

その言葉が、胸の奥を薄く引っかく。

 

「それで、君は何しに来たの?」

 

「ええ。用事があります」

 

「へえ」

 

「あなたを殺しに来ました」

 

言い切っても、声は穏やかなままだった。

 

童磨は一瞬だけ目を丸くし、それから鈴みたいに笑った。

 

「あはは、物騒だなあ。可愛い顔して、怖いこと言うね」

 

しのぶは笑みを崩さない。

 

「あなた、ずいぶんと気楽にお喋りなさるんですね」

 

「だって、楽しい方がいいじゃない」

 

童磨は本気で不思議そうだった。

 

「せっかく会えたんだし。綺麗な子と戦うのに、しかめっ面ばっかりでもつまらないでしょ?」

 

その瞬間、しのぶは確信した。

 

この鬼には重さがない。

 

命の重さでも、罪の重さでもない。

もっと単純に、人を傷つけたことが自分の中へ沈む感覚そのものが決定的に欠けている。

 

怒りを見ても、悲しみを見ても、きっと同じだ。

理解したふうには笑えるのだろう。けれど、そのどれも内側へは落ちていかない。ただ珍しいものを見つけたみたいに眺めるだけだ。

 

そこが耐えがたかった。

 

しのぶは微笑みを深くした。

 

「そうですか」

 

声はやわらかい。

やわらかいまま、刃だけを含ませる。

 

「では、せめて最期くらいは、少し重くして差し上げます」

 

童磨の笑みが、ほんのわずかに揺れた。

 

それを見て、しのぶはようやく間合いへ入った。

 

しのぶは勝負を急いでいなかった。

 

急げば勝てる相手ではない。

欲しいのは一度の深手ではなく、珠世と積み上げたものがこの鬼の内側へ沈むだけの回数と深さだ。

 

吸い込みすぎない。

 

童磨の氷は、刃そのものより冷気の方が厄介だった。細かな氷の混じった空気を肺へ入れれば、内側から鈍る。だから呼吸は浅く刻む。必要な分だけ吸い、すぐに吐く。

 

そのぶん、速さは少し落ちる。

指先の返りも鈍くなる。

けれど今欲しいのは、一度の鋭さではない。

 

珠世と作った毒を、少しでも多く。

少しでも深く。

二段に積んだものを、この鬼の血へ、筋へ、臓腑へ沈めるための時間だ。

 

童磨が扇をひらく。

 

冷気が散る。

氷の花弁が畳の上を白く撫で、しのぶの袖と頬を浅く裂いた。傷そのものは軽い。けれど、数が多い。数が多い傷は、それだけで体温を奪う。しのぶは後ろへ流し、足裏で止まる。息を整える。まだ、前へ出せる。

 

「どうしたの?」

 

童磨は楽しそうだった。

 

「さっきより慎重だねえ。もっと怒って刺しに来るのかと思った」

 

慎重。

 

そう見えるのなら、むしろ好都合だった。

童磨はまだ、しのぶを本気で締め切るべき相手と見ていない。速い、小さい、毒を使う。鬱陶しくはあっても、まだ遊べる相手。その程度にしか置いていない。

 

その軽視が、しのぶに数手ぶんの時間を残している。

 

「ええ。慎重ですよ」

 

しのぶは笑う。

 

「あなたを殺すには、その方が都合がいいので」

 

童磨が、少しだけ目を丸くする。

けれど次にはもう、いつもの軽い笑みに戻っていた。

 

「ふうん。やっぱり君、面白いなあ」

 

面白い。

 

その言葉が、またしのぶの胸を冷やした。

人を殺すことも、殺されることも、この鬼の中では“面白い”の棚へ入るのだろう。重みを持たず、痛みを残さず、ただその場の温度で口にされる。

 

だからこそ、しのぶは急がない。

 

怒りをそのまま前へ出せば、この鬼はきっと、嬉しそうに覗き込んでくる。

それでは足りない。

この鬼には、もっと長く、もっと深く、自分の内側で何が起きているか分からないまま崩れてもらわなければ困る。

 

一歩、踏み込む。

 

蟲の呼吸、蝶ノ舞 戯れ。

 

細い突きが喉元へ走る。童磨の扇がそれを払う。払われる。流される。だが、しのぶはそこで止まらない。止まらずに次へ移る。

 

蟲の呼吸、蜻蛉ノ舞 複眼六角。

 

六つに散るような連撃が、胸、肩、脇腹、首筋へと細かく刻みに行く。

一つでも深く通ればいい。

いや、正確には違う。

一つでも、では足りない。

多く、深く、重ねる。今夜必要なのはそのための手数だった。

 

だが、童磨は笑ったままそれを捌いた。扇が開く。閉じる。そのたびに冷気が薄く走り、しのぶの刃先をわずかにずらす。

 

「へえ。速いなあ」

 

楽しそうな声だった。

 

「小さいのに、ちゃんと速い」

 

その褒め方が気に入らない。

 

しのぶは床を蹴り直し、さらに深く入る。

 

蟲の呼吸、蜂牙ノ舞 真靡き。

 

一本の線へ絞った突きが、童磨の眼を狙う。

目なら通る。脳へ近い。そこへ毒を叩き込める。

 

「危ない危ない」

 

次の瞬間、冷気が弾けた。

 

扇が一振りされただけで、空気の密度が変わる。氷の粒が一斉に生まれ、頬と腕へ細く食い込んだ。深手ではない。だが浅い傷の数が多い。数が多い傷は、それだけで体温を奪う。

 

しのぶは畳を滑って止まり、すぐに立て直す。

 

童磨はその場からほとんど動いていなかった。

 

「いやあ、いいねえ」

 

嬉しそうに言う。

 

「怒ってるのに、顔にあんまり出さないんだ。そういうの、僕けっこう好きだよ」

 

好き。

 

またその言葉だ。

 

この鬼は、何も背負っていない。

そういう軽さのまま、強い。

 

けれど今は、それでいい。

童磨がまだしのぶを本気で締め切るべき相手と見ていないなら、そのぶんだけ手が増える。軽く流し、軽く受け、まだ遊べると思っているあいだに、こちらは置いていける。珠世と作った毒を、少しでも多く。少しでも深く。

 

「どうしたの?」

 

童磨が首を傾げる。

 

「さっきまで、もっと楽しそうに刺しに来てくれたのに」

 

しのぶは笑う。

 

「安心してください」

 

その声だけは、少し冷えていた。

 

「あなたを殺す気は、少しも鈍っていませんから」

 

もう一度踏み込もうとした、その直前。

 

廊下のずっと向こうで、かすかな音がした。

 

足音。

速い。

けれど、ただ速いだけではない。迷いながら、それでも止まらずに近づいてくる音だった。

 

しのぶは一瞬だけ、その方向へ意識を割いた。

 

来た。

 

その一瞬を、童磨は見逃さない。

扇が開く。氷の花弁みたいな刃が宙へ散る。

 

しのぶは前へ出たまま、それを迎えた。

 

 

廊下は冷たかった。

 

角を曲がるたびに、空気が薄く白む。

栗花落カナヲは走る。床を蹴る。呼吸は乱れていない。けれど胸の奥だけが、妙に硬かった。

 

師範の匂いがする。

 

血と藤の匂い。

その奥に、甘く軽い、知らない匂いが混ざっている。

嫌な匂いだと、カナヲは思った。軽いのに残る。人の気配みたいに近いのに、何も通っていない感じがする。

 

しのぶの言葉が、遅れて胸の中へ浮かぶ。

 

間に合うなら、迷わないことです。

 

迷っている暇は、もうない。

 

冷気が濃くなる。

壁に薄く張った氷。割れた襖。床へ散る白い粒。戦いの跡があるのに、どこか綺麗すぎる。綺麗なまま命だけを奪っていくものの気配だった。

 

広間の入口が見えた。

 

中では氷が鳴っている。

細い金属音。扇の開閉。畳を蹴る小さな音。その全部のあいだに、師範の足運びが混ざっている。

 

まだ、いる。

 

その事実だけで、カナヲの足は止まらなかった。

 

広間の端へ踏み込んだ瞬間、冷気が頬を打つ。

 

視界の向こうで、胡蝶しのぶが舞うように踏み替えていた。

白い冷気と氷の花弁のあいだを、細い刃が何度も差し込まれている。速い。けれど、その速さを、中心に立つ鬼は笑ったまま受け流していた。

 

上弦の弐。

 

その姿を認めた瞬間、カナヲの喉がわずかに鳴る。

 

そして次の瞬間、しのぶがほんのわずか、こちらへ視線を向けた。

 

一瞬だった。

一瞬なのに、それで十分だった。

 

ただ、その目だけが、もう選ぶ側へ立てと言っていた。

 

間に合うなら、迷わないことです。

 

その言葉が、今度は胸の奥ではなく足の裏へ落ちる。

 

一歩。

 

広間の冷気の中へ、カナヲは踏み込んだ。

 

「……師範」

 

声は小さかった。

小さかったけれど、しのぶには届いたらしい。

 

笑みは崩れないまま、わずかに目元だけが和らいだ。

 

それが合図だった。

 

カナヲは一気に間合いを詰めた。

 

花の呼吸、弐ノ型 御影梅。

 

細く、鋭く、ぶれのない突きが氷の花弁の隙間を縫う。

しのぶの剣が毒を沈める速さなら、カナヲの剣は余分を削いだまま真っ直ぐ届く速さだった。しなやかで、静かで、けれど迷いがない。

 

童磨の眉が、初めてわずかに動いた。

 

扇が開き、カナヲの突きを受け流す。

だが受け流し切る前に、カナヲはもう半歩内へ入っている。しのぶのように散らして刺すのではない。細く、深く、一本の線を通そうとする剣筋だった。

 

「へえ」

 

童磨の声色が少しだけ変わる。

 

「今度はまた、違う感じだね」

 

カナヲは答えない。

答えないまま、次の一閃を重ねる。

 

花の呼吸、肆ノ型 紅花衣。

 

翻るような太刀筋が、童磨の視線を外から塞ぐ。そこへしのぶが差し込む。

 

蟲の呼吸、蜻蛉ノ舞 複眼六角。

 

細かな突きが、今度はさっきよりも一段深く童磨の間合いを刻む。

 

しのぶはその手応えで知った。

 

もう一人来た、ではない。

もう一つ、別の質が来た。

 

自分の剣は毒を置くための剣だ。

速く、細く、残すための剣。

けれどカナヲの剣は違う。余分を削いで、通すための剣だ。細さは似ていても、狙っている深さが違う。

 

なら、組み直せる。

 

しのぶは童磨の扇を見ながら、足の運びを半拍だけ変えた。

自分が前へ出て散らし、カナヲに一本通させる。毒を広く置くための自分と、狭く深く届くためのカナヲ。その二つを重ねれば、童磨に考えさせる時間を一拍増やせる。

 

「カナヲ」

 

しのぶは笑ったまま呼ぶ。

 

「少しだけ、合わせなさい」

 

短い言葉だった。

けれどカナヲはすぐに理解したらしい。呼吸が一度だけ浅く揃い、そのまま二人の間合いが噛み合う。

 

童磨が、初めて本当に面白そうに笑った。

 

「いいねえ」

 

その声には、さっきまでの軽さと違うものが混じっていた。

 

「そう来なくちゃ」

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