なり損ねた雷 作:白鳴
善逸は藤の花の家紋のある屋敷の入り口前まで走ってきて、そこでようやく足を止めた。
門をくぐってからも走っていたのは、止まった瞬間に何かが追いついてくる気がしたからだ。喉が焼け、肺の奥がひりつく。草履の鼻緒が擦れて、足の甲がじくじくする。
上がり框の手前で、息が一度ほどけた。
ほどけた息に、藤の匂いが絡む。花の匂いというより、壁や畳や柱に染みた匂いだ。鼻の奥が先に覚えている匂い。
その匂いの中で、玄関の戸が外側から軋んだ。
「すみません。少しの間――」
戸の向こうで藤の家の者と短い言葉が交わされ、足音が寄る。
次いで、戸が開く。
炭治郎が姿を見せた。
炭治郎は善逸を見て、一瞬だけ表情が崩れた。
驚きと、安堵と、遅れて来る怖さ。眉だけが先に動いて、口が追いつかない。
「善逸……!」
一歩踏み出しかけて、止まる。
匂いで分かったのだろう。善逸の匂いが、いつもより薄い。
炭治郎は手を出しかけて引っ込めた。伸ばした手が宙で迷って、いったん自分の膝を軽く叩き、それから帯の端を直す。言葉より先に、何かを整える仕草が出る。
善逸は頷く。声は出さない。
喉を通した瞬間に言葉が別の形になりそうで、首だけで返した。
炭治郎は戸を大きく開けた。道を空けるだけの動き。
「……入ろう。冷える」
言い切るより先に、息が混ざる。
善逸は上がり框を跨いだ。
跨いだ瞬間、外の夜気が切れて、屋敷の温度がまとわりつく。
藤の残り香が、今はやけに刺さる。
⸻
和室の灯りは落ち着いていた。
器はもう下げられている。湯呑みだけが残った。湯浴みも夕餉も済ませているはずなのに、心だけが落ち着かない。
善逸は敷居の近くに座った。部屋の中心へ行かない。
炭治郎は向かいに座るが、距離を詰めない。
炭治郎は一度だけ湯呑みに触れ、すぐ手を戻す。
次に、湯呑みの位置をほんの少しだけ直す。畳を鳴らさないように指先だけで動かす。
「……刀鍛冶の里で、禰豆子が」
善逸の指が止まる。止まり切れず、胸元へ行く。布包みの位置を確かめる癖。
「太陽を克服した」
善逸は目を閉じない。閉じたら、明るい話が中に入ってくる。
「……よかったな」
祝福の形だけの声が落ちる。
炭治郎はそれでも頷いた。
「うん。……だから無惨が動く。今まで以上に」
言い終えてから、炭治郎は唇を噛んで、ほどく。
善逸のほうが先に言葉を出した。遮ったわけじゃない。口が勝手に動いた。
「共同任務の司令が下りた」
「共同任務……?」
善逸は頷く。動きが硬い。
「上弦の気配がしたって。偵察だ。……あとから命令が来た。行けって」
炭治郎の目が、ほんの少しだけ細くなる。
畳の上の空気が、一段冷えた気がした。
善逸は続ける。止めたら崩れる。崩れないように、順番に並べる。順番に並べると息が少し楽になって、その楽さが腹立たしい。
「そこに……あいつがいるかもしれないって思った」
炭治郎は急かさない。
名を出せない重さを、呼吸で待つ。
「獪岳と、共闘できるかもしれないって」
声が一度だけ割れた。
割れたまま出ていきそうなものを、歯で噛む。
「笑えるだろ。あいつと俺が同じ任務で、同じ方向を見るなんて。……俺、そういうの一回も持ってなかった」
善逸は淡々と、言葉を置いていく。置かなければ足元が抜ける。
「俺が刀を抜けないときでも、あいつなら前に出る。勝手に出て、勝手に怒って……勝手に生き残るって、どこかで思ってた」
喉が詰まる。詰まったまま言い切る。
「――でも、無理だった」
畳目を追う。香の中に、乾いた土が混ざってくる。
「上弦の壱に会った」
炭治郎の顔色が変わる。名を出しただけで、灯りが消えた様に感じた。
「六つ目だった。……村の外れで遭遇したんだ」
音の記憶が戻る。
踏み込もうとして、土がずるりと滑った。
踏み込みの圧で小石が跳ね、草履の鼻緒がひと息ぶん遅れて鳴った。
その遅れの隙間を、月の形の斬撃が通った。
刃より先に、音が来る。そう思ったときには、もう遅かった。
「音が……変だった。刀が当たる前に、空気が先に切れてた」
善逸は吐き捨てるように言う。
「俺が臆病だった。上弦の壱が怖くて……刀を抜けなかった。だから、守れなかった」
言葉が畳に落ちる。音はしないのに、耳の奥だけ痛い。
「獪岳はさ、俺を馬鹿にして、罵って、逃がそうとした。“お前みたいな出来損ないがここに居たら足手まといだ”って。そう言って、前に出た」
善逸が息を吐く。
「……最後まで、嫌な奴だった」
炭治郎は、すぐには言葉を返さない。
善逸の声の熱が、まだ消えていない。
炭治郎は湯呑みにもう一度指を添え、触れた指先を自分の掌にこすりつけた。
熱の名残が、消えるのを惜しむみたいに。
「善逸」
声は小さい。小さいから、逃げ道がない。
「獪岳は、善逸を守ろうとしたんだと思う」
飾らない。飾れない。
「罵ったのも、突き放したのも……善逸が前に出ないようにするためだったんじゃないか。善逸が刀を抜いたら、善逸は自分を責める。今みたいに。……獪岳は、それを分かってたのかもしれない」
善逸は口を開くが、声が出ない。
出ないまま、胸元の結び目に指が行く。止める癖がそこにある。
「俺は獪岳を知らない。けど、今の善逸を見てると……“守り方”を間違えたんじゃなくて、獪岳にはそれしか無かったんじゃないかって思う」
善逸の肩が僅かに揺れる。揺れを押さえ込む。
「獪岳の遺したものは、俺が――」
炭治郎は言いかけて止める。
自分の言葉が届き過ぎるのを、途中で引く。
善逸が情けなく言う。
「遺品だってば……俺のだ……」
炭治郎は頷く。頷きが悲しい。
その瞬間、外から羽音が割り込んだ。
人の会話と関係なく、同じ速さで来る音。
爪が瓦を叩く乾いた音が、障子越しに刺さる。
灯芯が小さく爆ぜて、炎が一瞬だけ尖った。
鎹鴉が縁側の先の梁に止まった。
黒い羽が灯りを吸って、艶だけが残る。
鴉は首を傾け、規則みたいに告げる。
「オヤカタサマヨリ! ジキジキノショウシュウメイレイ! シキュウ!」
炭治郎の指が、無意識に湯呑みへ伸びて、途中で止まった。
止まった指先が宙を彷徨い、静かに膝へ戻る。
善逸の指が、胸元の結び目を一度だけ確かめた。
その瞬間、別の羽音。
軽い。急いでいるのに遠慮がある。
どこからか現れたチュン太郎が、善逸の肩に降りた。
鳴かない。鳴けないみたいに、ただ身体を寄せる。
そして、もう一つ。重い足音が近付いてくる。
縁側の板が沈む。沈むのに乱暴じゃない。
「……悲鳴嶼さん」
悲鳴嶼行冥は涙を流しながら、深く頭を垂れた。
礼だけじゃない。哀悼が混じっている。
行冥は善逸の胸元をただ見る。
“遺品”とは口にしない。代わりに、大きな数珠をジャラリと一度だけ鳴らした。
低い声が落ちる。
「……隊士であることを、全うせよ」
鎹鴉が追い打ちのように鳴く。
「コクゲン、イマスグ!」
善逸は結び目をもう一度確かめた。
指が僅かに遅れる。結び目の硬さが、まだ指に馴染まない。
布包みの中身が硬い。冷たい。
握ると、刃先みたいに指に当たる。上弦の証拠。武器。救いになる材料。
頭では分かる。
分かった瞬間に獪岳の名が浮かび、胃の底が持ち上がる。
渡す。渡さない。
どちらを選んでも、同じ夜がひたひたと付いて来る気がした。
善逸は膝に置きかけた手を引っ込める。
引っ込めた手が宙で迷い、空を掴む。
行冥はただ立っている。
立っているだけで、迷いの幅が狭くなる。
善逸は入口前まで走ってきた脚を思い出す。
止まるのが怖くて走った。止まった今も、怖い。
でも、今は――兄弟子の遺したものを、届けなきゃならない。
息を吸う。震える。震えを、歯で噛む。
「……行く」
それだけ言う。
迷いが消えたわけじゃない。ただ、足を出せる形にする。
炭治郎は頷く。褒めるでも責めるでもない頷き。
「うん。行こう」
善逸は立つ。ぎこちない。
そのぎこちなさを置いていくつもりで、歩き出す。
熱された油と、藤の香。
匂いが背中に残る。善逸は振り返らない。
チュン太郎が善逸の肩の上で小さく羽を震わせていた。鳴き方を忘れたみたいに。
失って、喪っていく。