なり損ねた雷   作:白鳴

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笑う氷、痩せる呼吸

「少しだけ、合わせなさい」

 

しのぶの声は、いつもと変わらずやわらかかった。

けれど、その短い一言だけで、栗花落カナヲには十分だった。

 

頷きはしない。返事もしない。

ただ呼吸だけが、一度だけ浅く揃う。

 

その瞬間、童磨が笑った。

 

「いいねえ」

 

その声には、さっきまでの軽さと違うものが混じっていた。

面白がっている。けれど今度は、ただの気まぐれではない。自分の前に、少しだけ形のあるものが出てきたと見た時の笑いだった。

 

「そう来なくちゃ」

 

扇がひらく。

 

冷気が広間いっぱいに滑った。

さっきまでのように、ただ花弁が散るだけではない。空気そのものが白く痩せる。畳の目に霜が走り、砕けた襖の木口がぱきりと小さく鳴った。

 

血鬼術。

 

氷を作るだけではない。

この鬼は冷気そのものを場へ満たし、吸った側から肺を鈍らせる。細かな氷を混ぜた空気で、呼吸のたびにこちらを削ってくる。

 

吸い込みすぎない。

 

必要な分だけ吸い、すぐに吐く。

呼吸を浅く刻む。冷気を身体の奥へ入れないために。

 

そのぶん、速さは落ちる。

指先の返りも、踏み込みの戻りも、ほんの半拍だけ鈍くなる。

けれど今ほしいのは、一度の鋭さではない。

 

珠世と作った毒は一つではない。

先に表を鈍らせるものと、その奥へ遅れて沈むもの。

しのぶが欲しいのは、一太刀の深さではなく、その順番ごと鬼の内側へ通すことだった。

 

童磨が前へ出る。

 

いや、出たと分かった時には、もう間合いの中にいる。

扇の先から白い花弁が吹き上がる。床を蹴ったカナヲが、その一枚目の隙間へ刃を差し込んだ。

 

花の呼吸、弐ノ型 御影梅。

 

細く、鋭く、ぶれのない突きが氷の花弁の隙間を縫う。

しのぶの剣が毒を沈める速さなら、カナヲの剣は余分を削いだまま真っ直ぐ届く速さだった。しなやかで、静かで、けれど迷いがない。

 

童磨の眉が、初めてわずかに動いた。

 

扇が開き、カナヲの突きを受け流す。

だが受け流し切る前に、カナヲはもう半歩内へ入っている。しのぶのように散らして刺すのではない。細く、深く、一本の線を通そうとする剣筋だった。

 

「へえ」

 

童磨の声色が少しだけ変わる。

 

「今度はまた、違う感じだね」

 

カナヲは答えない。

答えないまま、次の一閃を重ねる。

 

花の呼吸、肆ノ型 紅花衣。

 

翻るような太刀筋が、童磨の視線を外から塞ぐ。そこへしのぶが差し込む。

 

蟲の呼吸、蜻蛉ノ舞 複眼六角。

 

細かな突きが、今度はさっきよりも一段深く童磨の間合いを刻む。

 

童磨が扇でそれを払う。

けれど払われる寸前に、しのぶは狙いを少しだけ変えている。喉ではなく鎖骨の下。胸の中央ではなく、その少し外。深く崩すのではなく、回る場所へ置くための刺突だった。

 

童磨が、そこで小さく笑った。

 

「ああ、そういうことか」

 

扇が半分だけ閉じる。

眼だけが楽しそうに細まる。

 

「毒だね。しかも一つじゃない」

 

しのぶは答えない。

 

「可愛い顔して、本当にいやらしいなあ」

 

童磨はくすくす笑う。

 

「でも残念。俺、そういうのけっこう強いんだ」

 

軽い言い方だった。

自慢しているというより、今日の天気を言うみたいな調子で、自分の抵抗力を口にする。

 

「少しくらい入れられても、すぐ順応するよ。上弦をその程度でどうにかできると思った?」

 

その軽さが、不快だった。

 

毒が入っていることを分かっている。

分かったうえで、なお笑える。

危機感の薄さではない。危機感という感情すら、あの鬼の中では表面を撫でて終わるのだろう。

 

しのぶは息を浅く吐いた。

肺へ入れすぎない。

冷気と氷の混じった空気は、刃よりも厄介だ。深く吸えば、そのぶん身体の奥から鈍る。

 

けれど浅く刻み続けるせいで、代償は確かに出ていた。

指先の返りが少し遅い。

踏み込みの収まりが、わずかに甘い。

本来ならもう半歩は速く入れる場面で、その半歩を捨てている。

 

カナヲはそれを見ていた。

 

師範は押されているのではない。

失っているのでもない。

捨てているのだ。

 

速さそのものより、別のものを優先している。

 

童磨の腕へ入った突き。

肩口へ残した浅傷。

胸元へ重ねた刺突。

師範の剣は、急所を外しているのではない。深手を急がず、何かを蓄積させている。

 

毒。

 

その言葉が、遅れてカナヲの中で輪郭を持つ。

 

ただ助ければいいのではない。

ただ前へ出ればいいのでもない。

師範は今、この戦いの勝ち筋をすでに別の場所へ置いている。

 

なら、自分がやることは決まる。

 

その勝ち筋を、成立させる。

 

カナヲの目の色が、そこで少しだけ変わった。

 

童磨がそれに気づいて笑う。

 

「あ、今分かった顔した」

 

その一言と同時に、白い花弁が一気に増えた。

 

扇が二つ、三つと重なるように動く。

冷気が広間の高さそのものを奪い、息をする場所まで薄くなる。氷の花弁はもう散るのではなく、漂っていた。吸えば入る。入った分だけ、喉と肺が細くなる。

 

花の呼吸で前へ出るカナヲにとっても、それは厄介だった。

視界だけでなく、吸うことそのものに制限がかかる。動けば動くほど、呼吸の回数が増える。回数が増えれば、そのぶん冷気も入る。

 

カナヲが身を沈める。

しのぶは横へ流れる。

 

しのぶの袖がまた裂けた。

腕に細い赤が増える。深くはない。だが浅傷が多い。体温が削られる。指先の感覚が、ほんの少しずつ遠くなる。

 

それでも、しのぶは速度を戻さない。

 

戻せば、吸う量が増える。

吸えば鈍る。

今はまだ、その鈍りの方がまずい。

 

「師範」

 

カナヲが低く呼ぶ。

 

しのぶは笑みを崩さないまま答えた。

 

「前を見なさい」

 

それで十分だった。

 

カナヲは踏み込む。

今度はしのぶの直後ではなく、しのぶが散らしたわずかな間へ自分を差し込む。

 

花の呼吸、伍ノ型 徒の芍薬。

 

連続する斬撃が、童磨の視線と扇の返りを一拍だけ奪う。

その一拍へ、しのぶがさらに細く潜る。

 

蟲の呼吸、蝶ノ舞 戯れ。

 

喉元。

鎖骨の下。

脇腹。

 

置く。

通す。

深く取りきらず、蓄積だけを増やす。

 

童磨が初めて、小さく息を吐いた。

 

「なるほどねえ」

 

まだ笑っている。

けれど、さっきまでの“可愛いねえ”の軽さだけではない。自分の前に、少し嫌な手順が組まれ始めていると気づいた時の声だった。

 

「そういう勝ち方をしたいんだ」

 

しのぶは答えない。

カナヲも答えない。

 

返事の代わりに、二人の足だけが揃う。

 

童磨は扇を閉じ、また笑った。

 

「でも、それは困るなあ」

 

その声音だけは、相変わらずやわらかい。

 

「俺、そういう陰湿なの嫌いじゃないけど、放っておくのはもっと嫌いなんだよね」

 

次の瞬間、広間の温度がさらに落ちた。

 

白い。

 

視界が、一枚薄く曇る。

畳も、柱も、壊れた襖の残骸も、全部が淡く白んで見える。空気の中へ浮いた氷の量が一段増えたのだと、しのぶはすぐに理解する。

 

深く吸えない。

浅く刻むしかない。

そのせいで、さらに返りが鈍る。

 

それでもまだ、足を止める理由にはならない。

 

しのぶが前へ出る。

カナヲも入る。

童磨の扇がそれを迎え、広間全体が冷たい檻みたいに閉じていく。

 

その冷えが、別の場所にも届いていた。

 

 

 

玄弥には分かった。

 

冷たいのではない。

冷えが、どこか一点から生き物みたいに這って広がっている。

 

壁に触れた指先が、遅れて痺れる。

鼻の奥が少し遅れて痛む。

吐いた息の白さまで、場所によって濃さが違った。

 

無限城そのものの寒さではない。

鬼の力が、温度ごと場を支配している。

 

喉の奥がわずかにざらつく。

鬼の気配を呑んだ時に似た、嫌な立ち上がりだった。

 

呼吸は使えない。

 

だが、そのかわりに残っているものならある。

皮膚で分かること。鼻で分かること。身体が先に嫌がること。

 

そういうもので追える相手なら、自分にも食らいつける。

 

玄弥は迷わず、その一番冷えの濃い方へ走った。




予約投稿していたと思い込む痛恨のミス……
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