なり損ねた雷 作:白鳴
白い。
広間の空気は、もう冷たいという言葉では足りなかった。
畳も、柱も、壊れた襖の残骸も、薄く曇った玻璃の向こうへ置かれたように白んでいる。吐いた息が消える前に、次の冷気が喉へ触れる。吸い込みすぎれば肺が鈍る。浅く刻めば、足の返りが落ちる。
その両方を知った上で、胡蝶しのぶは前へ出ていた。
「師範」
栗花落カナヲが低く呼ぶ。
しのぶは笑みを崩さない。
「前を見なさい」
声はやわらかい。
やわらかいまま、二人の足が揃う。
しのぶが散らす。
カナヲが通す。
童磨の血鬼術が作った白い檻の中で、その手順だけがまだ崩れていなかった。しのぶの細い突きが喉を外し、鎖骨の下へ沈む。脇腹を浅く裂き、肩口へ毒を置く。深く断つためではない。表を鈍らせ、その奥へ遅れて沈むものを通すためだ。
そこへカナヲが入る。
花の呼吸、伍ノ型 徒の芍薬。
連続する斬撃が、童磨の視線と扇の返りを一拍だけ奪う。
その一拍へ、しのぶの戯れが潜り、さらにもう一つ毒を置いた。
童磨はなお笑っている。
「いいねえ」
扇を半分ひらいたまま、心底楽しそうに言う。
「やっぱり二人だと見映えがするよ。綺麗な子が二人で頑張ってるのって、それだけで楽しいもんね」
軽い。
軽いまま、強い。
その扇が揺れるだけで、白い花弁が広間の高さそのものを削る。床の上に走った薄氷をカナヲが外す。しのぶも半歩ずらす。ずらしたはずの袖が、冷気に裂かれる。浅い傷は増える。指先の感覚はまた少し遠くなる。
吸い込みすぎない。
呼吸を浅く刻む。
必要な分だけ吸い、すぐに吐く。
しのぶはそれを続ける。
速度を戻せば、そのぶん冷気が深く入る。いま欲しいのは一太刀の鋭さではない。毒が通るだけの時間と順番だ。
カナヲは、もうそれを理解していた。
師範は押されているのではない。
削られながら、勝ち筋の方を優先している。
なら、自分が埋めるべきはそこだ。
カナヲが踏み込む角度を半分だけ変えた。
しのぶの前ではなく、しのぶの斜め外。童磨の視線がしのぶを追う、その外縁へ細い剣先を差し込む。
花の呼吸、弐ノ型 御影梅。
童磨の眉がわずかに動いた。
扇で受け流す。だが受け流し切る前に、カナヲはもう半歩深く入っている。細く、深く、一本の線だけを通そうとする剣筋。
「へえ」
童磨の声が、少しだけ低くなる。
「今の、嫌だなあ」
初めてだった。
面白い、綺麗だ、可愛い。そういう棚とは少し違う調子で、童磨が剣筋を嫌がったのは。
だが、その不快はすぐ笑みに溶けた。
「でも、まだ足りない」
童磨が一歩も引かずに扇をひらく。
血鬼術。
花弁の数が一段増えた。
散るのではない。漂う。白い粒が視界の高さへ溜まり、呼吸の通り道そのものを狭めていく。広間全体が冷えた檻になる。中心に近いほど濃い。踏み込むほど鈍る。
カナヲが身を沈める。
しのぶは横へ流れる。
その二人の動きを、童磨は笑ったまま追っていた。
「そろそろ終わりにしようか」
やわらかい声だった。
だからこそ嫌だった。
童磨の視線が、先にカナヲへ落ちる。
若い。
継ぐ側。
細く深く通してくる嫌な線。
まずこちらを折るべきだとでも判断したのか、扇の向きがわずかに変わる。白い花弁が、今度は一点へ寄るように流れた。カナヲの退路と吸気を同時に狭める、嫌な寄せ方だった。
「カナヲ!」
しのぶが前へ出る。
庇うためではない。
童磨の視線を一拍だけずらし、自分へ取り直させるために。
その踏み込みが、半拍遅れた。
浅い呼吸の積み重ね。
冷気で痩せた肺。
指先の鈍り。
今まで捨ててきた半歩ぶんの遅れが、ここでしのぶへ返ってきた。
童磨の眼が細まる。
「あ」
気づいた声だった。
次の瞬間、扇が閉じる。
白い軌跡が横に走った。
しのぶの身体は避けていた。首も、胴も、急所も外している。だが完全には抜け切れない。
遅れて、鈍い音がした。
しのぶの右腕が、肘から先ごと畳へ落ちた。
時間が一瞬だけ止まる。
血が噴く。
白い広間の真ん中で、その赤だけがひどく鮮やかだった。細い指がまだ刀を握ったまま畳を滑る。遅れて、しのぶの肩口から熱が失われる。
カナヲの喉が、ひゅ、と小さく鳴った。
「師範――」
しのぶは崩れない。
崩れないまま、後ろへ流れる。
左足で床を掴み、残った身体だけで立て直す。笑みはもう薄い。薄いが、消えてはいない。痛みより先に、毒の通り方を数える顔だった。
童磨が目を丸くする。
「へえ」
その声は、さっきまでより少しだけ本気で感心していた。
「それでも倒れないんだ」
落ちた右腕を見る。
次に、しのぶ本人を見る。
「すごいなあ。やっぱり君、面白いね」
面白い。
その言葉に、カナヲの中で何かが冷たく切れた。
前へ出る。
師範を見ない。
見れば止まる。止まれば遅れる。
いまはまだ、止まる段階ではない。
花の呼吸、肆ノ型 紅花衣。
翻るような斬撃で、童磨の視線を外から裂く。
童磨は扇で受ける。だが、その受けへ今まで通りの余裕が一拍だけ欠けた。右腕を失ってなお、しのぶが倒れなかったせいだ。童磨は、まだしのぶを殺し切れていない。
その一拍を、しのぶは逃がさない。
左手。
利き腕ではない。
速度も、精度も、同じではない。
それでも、身体に刻んだ手順までは失わない。
残った刃を左手へ握り替え、しのぶは半歩だけ入る。
蟲の呼吸、蝶ノ舞 戯れ。
さっきまでより遅い。
だが、狙いはぶれない。喉ではなく胸。深く崩すのでなく、置くための刺突。童磨の肩口へ、もう一つ毒が沈んだ。
童磨の笑みが、そこで初めてわずかに歪む。
「あれ」
小さな声だった。
扇を返す。
返したはずの花弁が、わずかに散り遅れた。再生が乱れたわけではない。だが、拍の順番がほんの一つ狂う。しのぶの置いた毒が、表と奥で別々に噛み始めている。
童磨が、そこで初めて自分の腕を見た。
「ああ、そうか」
軽い口調のまま呟く。
「やっぱり、ただの毒じゃないんだね」
その時だった。
乾いた破裂音が、白い広間を裂いた。
銃声。
童磨の首がわずかに傾く。
頬のすぐ横を、鉛が通り抜ける。花弁の軌道が、一拍だけ乱れた。
しのぶでも、カナヲでもない。
広間の入口に、不死川玄弥が立っていた。
肩で息をしている。
だが目だけは濁っていない。白く痩せた空気の中で、玄弥だけが別のやり方でこの場を読んでいた。
「……そこかよ」
低い声だった。
壁へ触れた指先の痺れ。
鼻の奥の痛み。
吐いた息の白さの濃淡。
無限城の寒さではない、鬼の力で温度ごと支配された一点。
それを追って、ここまで来た。
童磨は玄弥を見る。
その視線に、さっきまでの軽い好みはない。
綺麗でも可愛くもない。優雅でもない。白い檻の中へ、場違いな異物が泥のついた靴のまま踏み込んできた、そんな顔だった。
「……何それ」
童磨が、心底不思議そうに言う。
「君はちょっと、気持ち悪いね」
玄弥は答えない。
返事の代わりに、二発目を撃った。
銃声が、また白い広間を裂く。
今度は童磨が避ける。
避けた、その一拍で花弁の流れが途切れる。しのぶとカナヲの呼吸が、ほんの少しだけ戻る。
玄弥は庇いに来たのではなかった。
この白い檻を、食い破りに来たのだ。
「しのぶさん!」
玄弥は視線を切らずに叫ぶ。
しのぶは左手で刀を持ったまま、かすかに笑う。
「遅いですよ」
軽口だった。
けれど、立っている。
それだけで玄弥には十分だった。
童磨が扇を振る。
白い花弁が玄弥へ寄る。玄弥は半歩だけ下がり、銃を持ち替える。呼吸ではない。姿勢も荒い。だが、白い粒の濃い方と薄い方を読んでいる。肌で嫌がる方を外し、鼻の痛む方を避けるように動く。
「へえ」
童磨が初めて、面白いではなく厄介そうに笑った。
「そういうの、ほんと嫌だなあ」
玄弥が踏み込む。
童磨の花弁が当たる。袖が裂ける。頬が切れる。それでも止まらない。綺麗に避けない。最低限だけ外して前へ進む。
その雑さが、童磨には読みにくい。
カナヲがそこへ入る。
花の呼吸、徒の芍薬。
連続する斬撃が、童磨の扇を外から叩く。
しのぶが続く。左手の戯れが胸元へ沈む。
玄弥の散弾が床の氷を砕き、白い檻の濃い層を乱す。
盤面が濁る。
童磨の笑みが、また少し薄くなった。
「やだなあ」
今度ははっきり不快そうだった。
「君、本当に綺麗じゃないね」
言葉を言い終わるよりもすぐ先に、玄弥の正面へ瞬きの間に童磨が現れた。
近い。近すぎる。玄弥にはもう避ける暇もなかった。
童磨の扇が横へ走る。
避けられない。
玄弥の身体が、肩から腰まで一直線に裂けた。
赤が、白い広間へ飛ぶ。
カナヲが目を見開く。
しのぶの笑みが、初めて消える。
玄弥の身体はそのまま二つに割れる。
だが、完全に倒れ切る前に、指だけが引き金を引いた。
轟音。
至近距離。
童磨の胸元へ散弾が叩き込まれる。深くはない。だが花弁の流れが乱れ、白い檻が一瞬だけほどける。
「……ッ」
童磨の顔から、初めて軽い笑みが抜けた。
玄弥の上半身が畳へ落ちる。
血が広がる。
その瞬間、広間の入口に別の風が吹き込んだ。
殺気ではない。
もっと鋭く、もっと荒い、生きた刃物みたいな圧だった。
「玄弥ァ――ッ!!」
不死川実弥が、血の匂いごと踏み込んできた。
童磨はその顔を見て、ようやく理解したように笑う。
「また来たの?似た様な顔しているし、君達兄弟だったりするのかなぁ」
実弥は答えない。
答える代わりに、風を纏ったまま童磨へ斬りかかった。