なり損ねた雷   作:白鳴

21 / 24
白い檻、食い破らんとする異物

白い。

 

広間の空気は、もう冷たいという言葉では足りなかった。

畳も、柱も、壊れた襖の残骸も、薄く曇った玻璃の向こうへ置かれたように白んでいる。吐いた息が消える前に、次の冷気が喉へ触れる。吸い込みすぎれば肺が鈍る。浅く刻めば、足の返りが落ちる。

 

その両方を知った上で、胡蝶しのぶは前へ出ていた。

 

「師範」

 

栗花落カナヲが低く呼ぶ。

 

しのぶは笑みを崩さない。

 

「前を見なさい」

 

声はやわらかい。

やわらかいまま、二人の足が揃う。

 

しのぶが散らす。

カナヲが通す。

 

童磨の血鬼術が作った白い檻の中で、その手順だけがまだ崩れていなかった。しのぶの細い突きが喉を外し、鎖骨の下へ沈む。脇腹を浅く裂き、肩口へ毒を置く。深く断つためではない。表を鈍らせ、その奥へ遅れて沈むものを通すためだ。

 

そこへカナヲが入る。

 

花の呼吸、伍ノ型 徒の芍薬。

 

連続する斬撃が、童磨の視線と扇の返りを一拍だけ奪う。

その一拍へ、しのぶの戯れが潜り、さらにもう一つ毒を置いた。

 

童磨はなお笑っている。

 

「いいねえ」

 

扇を半分ひらいたまま、心底楽しそうに言う。

 

「やっぱり二人だと見映えがするよ。綺麗な子が二人で頑張ってるのって、それだけで楽しいもんね」

 

軽い。

 

軽いまま、強い。

 

その扇が揺れるだけで、白い花弁が広間の高さそのものを削る。床の上に走った薄氷をカナヲが外す。しのぶも半歩ずらす。ずらしたはずの袖が、冷気に裂かれる。浅い傷は増える。指先の感覚はまた少し遠くなる。

 

吸い込みすぎない。

呼吸を浅く刻む。

必要な分だけ吸い、すぐに吐く。

 

しのぶはそれを続ける。

速度を戻せば、そのぶん冷気が深く入る。いま欲しいのは一太刀の鋭さではない。毒が通るだけの時間と順番だ。

 

カナヲは、もうそれを理解していた。

 

師範は押されているのではない。

削られながら、勝ち筋の方を優先している。

 

なら、自分が埋めるべきはそこだ。

 

カナヲが踏み込む角度を半分だけ変えた。

しのぶの前ではなく、しのぶの斜め外。童磨の視線がしのぶを追う、その外縁へ細い剣先を差し込む。

 

花の呼吸、弐ノ型 御影梅。

 

童磨の眉がわずかに動いた。

扇で受け流す。だが受け流し切る前に、カナヲはもう半歩深く入っている。細く、深く、一本の線だけを通そうとする剣筋。

 

「へえ」

 

童磨の声が、少しだけ低くなる。

 

「今の、嫌だなあ」

 

初めてだった。

面白い、綺麗だ、可愛い。そういう棚とは少し違う調子で、童磨が剣筋を嫌がったのは。

 

だが、その不快はすぐ笑みに溶けた。

 

「でも、まだ足りない」

 

童磨が一歩も引かずに扇をひらく。

 

血鬼術。

 

花弁の数が一段増えた。

散るのではない。漂う。白い粒が視界の高さへ溜まり、呼吸の通り道そのものを狭めていく。広間全体が冷えた檻になる。中心に近いほど濃い。踏み込むほど鈍る。

 

カナヲが身を沈める。

しのぶは横へ流れる。

その二人の動きを、童磨は笑ったまま追っていた。

 

「そろそろ終わりにしようか」

 

やわらかい声だった。

だからこそ嫌だった。

 

童磨の視線が、先にカナヲへ落ちる。

 

若い。

継ぐ側。

細く深く通してくる嫌な線。

 

まずこちらを折るべきだとでも判断したのか、扇の向きがわずかに変わる。白い花弁が、今度は一点へ寄るように流れた。カナヲの退路と吸気を同時に狭める、嫌な寄せ方だった。

 

「カナヲ!」

 

しのぶが前へ出る。

 

庇うためではない。

童磨の視線を一拍だけずらし、自分へ取り直させるために。

 

その踏み込みが、半拍遅れた。

 

浅い呼吸の積み重ね。

冷気で痩せた肺。

指先の鈍り。

今まで捨ててきた半歩ぶんの遅れが、ここでしのぶへ返ってきた。

 

童磨の眼が細まる。

 

「あ」

 

気づいた声だった。

 

次の瞬間、扇が閉じる。

 

白い軌跡が横に走った。

しのぶの身体は避けていた。首も、胴も、急所も外している。だが完全には抜け切れない。

 

遅れて、鈍い音がした。

 

しのぶの右腕が、肘から先ごと畳へ落ちた。

 

時間が一瞬だけ止まる。

 

血が噴く。

白い広間の真ん中で、その赤だけがひどく鮮やかだった。細い指がまだ刀を握ったまま畳を滑る。遅れて、しのぶの肩口から熱が失われる。

 

カナヲの喉が、ひゅ、と小さく鳴った。

 

「師範――」

 

しのぶは崩れない。

 

崩れないまま、後ろへ流れる。

左足で床を掴み、残った身体だけで立て直す。笑みはもう薄い。薄いが、消えてはいない。痛みより先に、毒の通り方を数える顔だった。

 

童磨が目を丸くする。

 

「へえ」

 

その声は、さっきまでより少しだけ本気で感心していた。

 

「それでも倒れないんだ」

 

落ちた右腕を見る。

次に、しのぶ本人を見る。

 

「すごいなあ。やっぱり君、面白いね」

 

面白い。

 

その言葉に、カナヲの中で何かが冷たく切れた。

 

前へ出る。

師範を見ない。

見れば止まる。止まれば遅れる。

いまはまだ、止まる段階ではない。

 

花の呼吸、肆ノ型 紅花衣。

 

翻るような斬撃で、童磨の視線を外から裂く。

童磨は扇で受ける。だが、その受けへ今まで通りの余裕が一拍だけ欠けた。右腕を失ってなお、しのぶが倒れなかったせいだ。童磨は、まだしのぶを殺し切れていない。

 

その一拍を、しのぶは逃がさない。

 

左手。

 

利き腕ではない。

速度も、精度も、同じではない。

それでも、身体に刻んだ手順までは失わない。

 

残った刃を左手へ握り替え、しのぶは半歩だけ入る。

 

蟲の呼吸、蝶ノ舞 戯れ。

 

さっきまでより遅い。

だが、狙いはぶれない。喉ではなく胸。深く崩すのでなく、置くための刺突。童磨の肩口へ、もう一つ毒が沈んだ。

 

童磨の笑みが、そこで初めてわずかに歪む。

 

「あれ」

 

小さな声だった。

 

扇を返す。

返したはずの花弁が、わずかに散り遅れた。再生が乱れたわけではない。だが、拍の順番がほんの一つ狂う。しのぶの置いた毒が、表と奥で別々に噛み始めている。

 

童磨が、そこで初めて自分の腕を見た。

 

「ああ、そうか」

 

軽い口調のまま呟く。

 

「やっぱり、ただの毒じゃないんだね」

 

その時だった。

 

乾いた破裂音が、白い広間を裂いた。

 

銃声。

 

童磨の首がわずかに傾く。

頬のすぐ横を、鉛が通り抜ける。花弁の軌道が、一拍だけ乱れた。

 

しのぶでも、カナヲでもない。

 

広間の入口に、不死川玄弥が立っていた。

 

肩で息をしている。

だが目だけは濁っていない。白く痩せた空気の中で、玄弥だけが別のやり方でこの場を読んでいた。

 

「……そこかよ」

 

低い声だった。

 

壁へ触れた指先の痺れ。

鼻の奥の痛み。

吐いた息の白さの濃淡。

無限城の寒さではない、鬼の力で温度ごと支配された一点。

 

それを追って、ここまで来た。

 

童磨は玄弥を見る。

 

その視線に、さっきまでの軽い好みはない。

綺麗でも可愛くもない。優雅でもない。白い檻の中へ、場違いな異物が泥のついた靴のまま踏み込んできた、そんな顔だった。

 

「……何それ」

 

童磨が、心底不思議そうに言う。

 

「君はちょっと、気持ち悪いね」

 

玄弥は答えない。

返事の代わりに、二発目を撃った。

 

銃声が、また白い広間を裂く。

 

今度は童磨が避ける。

避けた、その一拍で花弁の流れが途切れる。しのぶとカナヲの呼吸が、ほんの少しだけ戻る。

 

玄弥は庇いに来たのではなかった。

この白い檻を、食い破りに来たのだ。

 

「しのぶさん!」

 

玄弥は視線を切らずに叫ぶ。

しのぶは左手で刀を持ったまま、かすかに笑う。

 

「遅いですよ」

 

軽口だった。

けれど、立っている。

 

それだけで玄弥には十分だった。

 

童磨が扇を振る。

白い花弁が玄弥へ寄る。玄弥は半歩だけ下がり、銃を持ち替える。呼吸ではない。姿勢も荒い。だが、白い粒の濃い方と薄い方を読んでいる。肌で嫌がる方を外し、鼻の痛む方を避けるように動く。

 

「へえ」

 

童磨が初めて、面白いではなく厄介そうに笑った。

 

「そういうの、ほんと嫌だなあ」

 

玄弥が踏み込む。

童磨の花弁が当たる。袖が裂ける。頬が切れる。それでも止まらない。綺麗に避けない。最低限だけ外して前へ進む。

 

その雑さが、童磨には読みにくい。

 

カナヲがそこへ入る。

 

花の呼吸、徒の芍薬。

 

連続する斬撃が、童磨の扇を外から叩く。

しのぶが続く。左手の戯れが胸元へ沈む。

玄弥の散弾が床の氷を砕き、白い檻の濃い層を乱す。

 

盤面が濁る。

 

童磨の笑みが、また少し薄くなった。

 

「やだなあ」

 

今度ははっきり不快そうだった。

 

「君、本当に綺麗じゃないね」

 

言葉を言い終わるよりもすぐ先に、玄弥の正面へ瞬きの間に童磨が現れた。

近い。近すぎる。玄弥にはもう避ける暇もなかった。

 

童磨の扇が横へ走る。

 

避けられない。

 

玄弥の身体が、肩から腰まで一直線に裂けた。

 

赤が、白い広間へ飛ぶ。

 

カナヲが目を見開く。

しのぶの笑みが、初めて消える。

 

玄弥の身体はそのまま二つに割れる。

だが、完全に倒れ切る前に、指だけが引き金を引いた。

 

轟音。

 

至近距離。

童磨の胸元へ散弾が叩き込まれる。深くはない。だが花弁の流れが乱れ、白い檻が一瞬だけほどける。

 

「……ッ」

 

童磨の顔から、初めて軽い笑みが抜けた。

 

玄弥の上半身が畳へ落ちる。

血が広がる。

 

その瞬間、広間の入口に別の風が吹き込んだ。

 

殺気ではない。

もっと鋭く、もっと荒い、生きた刃物みたいな圧だった。

 

「玄弥ァ――ッ!!」

 

不死川実弥が、血の匂いごと踏み込んできた。

 

童磨はその顔を見て、ようやく理解したように笑う。

 

「また来たの?似た様な顔しているし、君達兄弟だったりするのかなぁ」

 

実弥は答えない。

答える代わりに、風を纏ったまま童磨へ斬りかかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。