なり損ねた雷 作:白鳴
風は、白い檻の中でも痩せなかった。
不死川実弥の踏み込みは、童磨の冷気に削られながらなお鋭かった。白く漂う花弁を、風の呼吸がまとめて裂く。畳の上へ走った薄氷が、斬撃の圧だけでひび割れる。
風の呼吸、壱ノ型 塵旋風・削ぎ。
広間を横切る風圧が、童磨の花弁の層をまとめて削いだ。
白い空気が一瞬だけ薄くなる。
その隙を、カナヲが逃がさない。
花の呼吸、弐ノ型 御影梅。
細い突きが、童磨の脇腹の浅傷へもう一度通る。
そこへしのぶが左手の戯れを重ねる。利き腕ではない。遅い。けれど狙いだけはぶれない。浅く、広く、遅れて沈む順番をさらに増やす。
玄弥の上半身が畳に転がったまま、荒く息をしている。
普通なら、もう終わっている傷だ。
だが終わっていない。鬼を喰った身体が、まだぎりぎりで意識を繋いでいた。
「兄貴……!」
声は血に濁っていた。
実弥はそちらを見ない。
見れば手が止まる。
止まれば、今度こそ終わる。
「喋んな、馬鹿が」
吐き捨てるように言って、さらに前へ出る。
風の呼吸、肆ノ型 昇上砂塵嵐。
下から巻き上がる斬撃が、童磨の扇ごと持ち上げる。
童磨は身をひねって避ける。避けながら花弁を散らす。カナヲが退く。しのぶは横へ流れる。けれど実弥だけは退かない。白い花弁を何枚か肩と頬で受け、そのまま風の圧で押し込む。
「面倒だなあ」
童磨がぽつりと言った。
本音だった。
そこへ、天井近くから別の影が落ちる。
「見ィつけたァ!!」
嘴平伊之助だった。
獣の呼吸、伍ノ牙 狂い裂き。
二刀が頭上から逆袈裟に落ちる。
童磨の視線が一瞬だけ上を向く。美しくない。綺麗でもない。けれど速い。空間の上下を問わず、自分の本能だけで噛みついてくる嫌な獣。
童磨の扇が咄嗟にそれを受ける。
伊之助はそのまま天井の梁を蹴り、横壁へ、床へと軌道を変える。白い檻の濃い場所と薄い場所を、理屈ではなく身体で嗅ぎ分けるような走り方だった。
「おまえ、気に食わねェ!」
伊之助の声が広間へ響く。
「笑ってんじゃねえよ!」
しのぶが、そこで初めてほんの一瞬だけ目を細めた。
盤面が変わる。
しのぶは勝ち筋を仕込む。
カナヲが継ぐ。
実弥が圧をかける。
伊之助が盤面を雑に壊す。
玄弥は血を流しながら、なお白い檻を濁らせている。
一人増えるごとに、童磨の白い檻は綺麗さを失っていく。
童磨の花弁が増える。
白さが濃くなる。
だがその中を、伊之助が獣みたいに走り回るせいで、安全と危険の境目がぐちゃぐちゃになる。童磨の側にとっても、もう“整った支配”ではなかった。
「ほんと、嫌だなあ」
童磨が笑う。
「みんなして、汚い」
その声に、実弥が踏み込む。
風の呼吸、玖ノ型 韋駄天台風。
速い。
白い花弁を前提ごと裂く踏み込みだった。
童磨が受ける。だが受けた扇の返りが、ほんの一拍だけ遅い。毒が、ようやく筋の深いところで効き始めている。
しのぶはそれを見る。
見るだけで、もう追わない。追うのは他の三人がいる。自分は置くべき場所へ、もう一つ毒を置く。
左手の戯れ。
喉元を外し、胸へ。
童磨がその突きを払う。
払う動きが、やはりわずかに重い。
「ああ、もう」
童磨が笑った。
「ほんとに面倒になってきた」
その一言で、広間の空気が変わる。
今までの童磨は、白い檻の中へこちらを閉じ込めるだけだった。
だが今度は違う。檻そのものを、まとめて圧殺するつもりで冷気が集まり始める。
花弁が止まった。
散るのではなく、空気の中へ静かに溜まる。
白い粒が広間の高さそのものを奪い、息の通り道だけを細く削っていく。
次に、畳の上へ氷の華が咲いた。
蓮葉みたいな文様が一面へ広がり、踏み場のたびに細かな粉を舞い上げる。割れば粉が増え、吸えば肺へ沈む。
それだけでは終わらない。
広間の奥、もっとも冷気の濃い一点で、白がさらに重なる。
人の輪郭だった。
女の形。
巨大で、整いすぎていて、生きたものの気配だけがない。
血鬼術、寒烈の白姫。
立つだけで広間の温度がもう一段落ちる。
花弁の流れが、その足元へ従う。
そして、その周囲へ、さらに別の氷像が立ち上がった。
一体。
二体。
三体。
四体。
五体。
血鬼術、結晶の御子。
どれも童磨と同じ笑みを浮かべたまま、別々の殺意だけを持っていた。
人数差という言葉が、そこで意味を失った。
まずい、としのぶは思った。
これは一撃で殺すための技ではない。
勝ち筋を積み上げる時間そのものを奪うための技だ。
避ける。
読む。
斬る。
呼吸する。
その全部に手数を使わせ、吸ったぶんだけこちらを鈍らせる。
遅効の手順ごと押し潰すつもりなのだと分かった。
しかも、五体。
白姫が場を閉じ、結晶の御子がそれぞれ別の方向から噛む。
実弥と伊之助の手数は分散し、カナヲの線は潰され、しのぶの毒は届く前に消耗へ変えられる。
童磨は、それを分かって笑っていた。
童磨が、少し面倒そうに言う。
「うわっ、きっしょ!!」
伊之助が叫ぶ。
一体が伊之助を追う。
一体がカナヲへ。
一体がしのぶへ。
そして、もっとも大きい殺意が実弥へ向いた。
「チッ」
実弥が舌打ちする。
広間が、一気に戦場ではなく処刑場へ変わる。
手数ではない。空間でもない。童磨はとうとう、自分で盤面を閉じることより、まとめて潰す方を選んだのだ。
御子の一体が、玄弥の上半身のすぐ脇で形を取り始める。
まだ完全ではない。
首も、腕も、輪郭が薄い。
だが、胸の中央だけは妙に硬く、冷たい核として先に結ばれていた。
しのぶの目が、そこへ止まる。
「カナヲ」
声は弱い。
けれど迷いがない。
「彼の身体の上下を合わせなさい。まだ終わっていません」
カナヲは頷かなかった。
頷く暇がない。
師範の言葉をそのまま手へ落とす。
玄弥の血で手が滑る。
滑っても離さない。
上半身を引き、下半身へ戻す。
治すのではない。
まだ切れ切っていないものが、切れ切ってしまう前に、位置だけを合わせる。
玄弥の喉が、そこで小さく鳴った。
視線はもう半分濁っている。
だが目の前で形を取る御子の核だけは見えていた。
白い。
綺麗だ。
だからこそ、喰える。
玄弥が、歯を食いしばったままその核へ喰らいつく。
氷が、黒く濁る。
五体目の御子がその場で砕けた。
さらにもう一体、肩口から先がうまく結ばれず、片腕のないまま立ち尽くす。
童磨の笑みが、そこで初めてほんの少しだけ歪む。
「へえ」
扇の向こうで、目だけが細くなる。
「君みたいに食い意地の悪い子、初めてだよ」
しのぶは浅く息を吸う。
肺が痛い。
視界の端も、少し白い。
右腕を失ったまま、左手だけでまだ動いている。それでも倒れていないのは、もう意地に近い。
カナヲがしのぶの前へ出る。
しのぶは止めない。今は止めても遅い。
伊之助が氷像を切り裂く。だが一体を裂いた先で、別の白が降りる。
白姫が冷気を吐く。
正面の圧だけで、肺の奥が縮む。
さらに残った御子たちが左右から角度をずらして噛みついてくる。
本体へ届くはずの一拍が、そのたびに削られる。
実弥は止まらない。
止まれない。
退けば、白い檻が閉じる。
退けば、玄弥はそこで終わる。
退けば、しのぶの毒も、カナヲの献身も、猪野郎の撹乱も全部押し潰される。
だから実弥は退かなかった。
冷気が肺へ入る。
足場が凍る。
白姫の吐く息が視界を奪い、御子たちが刃の角度を一つずつ狂わせる。
それでも、退かない。
ここで折れるくらいなら、最初から来ていない。
実弥は真正面から最大の像へ斬りかかる。
風の呼吸、捌ノ型 初烈風斬り。
氷像の首が飛ぶ。
けれどその断面から、さらに白い冷気が噴き出す。実弥の頬と首筋へ霜が走る。足場が凍る。肺へ入る。
それでも実弥は止まらない。
「上等だァ!!」
風の圧がもう一段増した。
白姫の冷気を真正面から裂いても、まだ足りない。
御子を砕いても、また本体の一拍が先へ逃げる。
押しているはずなのに、押し切れない。
その苛立ちごと、実弥は前へ捩じ込んだ。
負けない。
ここで負けるくらいなら、斬られる方がましだった。
その時だった。
実弥の頬へかけて、焼けるような線が走る。
痣。
熱ではない。
熱を通り越した、内側から身体を前へ押し出す別の力だった。
視界が冴える。
白い檻の濃淡が分かる。
童磨の本体と氷像のわずかな拍の差まで読める。
実弥の踏み込みが変わる。
速い。
さっきまでと比べるのが馬鹿らしくなるほど、ただ速い。風の呼吸が白い広間そのものへ亀裂を入れる。
童磨の眼が、そこで初めてはっきり細くなった。
「……へえ」
今度は面白そうですらなかった。
「それは、ちょっと困るなあ」
実弥が笑う。
笑うというより、牙を見せた。
「知るかよ」
風の呼吸、陸ノ型 黒風烟嵐。
広間を埋めた白へ、黒い風みたいな乱撃が叩き込まれる。氷像が砕ける。床の霜が吹き飛ぶ。伊之助がその隙へ潜り、カナヲがしのぶを引きずるように一歩退かせる。
盤面が、まだ完全には戻らない。
けれど、閉じ切りもしない。
童磨は笑みを薄くしたまま、実弥と玄弥の残骸を交互に見た。
「兄弟そろって本当に嫌だなあ」
その声の中へ、わずかに苛立ちが混じっていた。