なり損ねた雷 作:白鳴
善逸は心ここに在らずのまま、隠に運ばれ、屋敷の外れで降ろされた。夜は老けている。そこから少し歩く。足の裏が地面の湿りを拾うたび、道が細くなる気がした。
師の住む小さな屋敷が見えた。桃園の匂いが先に届く。熟れた甘さが、喉の奥に引っかかったまま抜けない。
古い家に入る。ここで、獪岳と、慈悟郎と、修行をした。
戸は開く前に、内側から息が漏れた。草履の音で分かっていたのだろう。慈悟郎が立っていた。背中が少し丸い。いつもより、さらに。
「良く帰ってきたの、善逸……」
「只今、じっちゃん……」
返事は短い。短くしても、表情は隠れない。慈悟郎も同じだ。慈愛はあるのに、目が明るくならない。
土間で草履を脱ぐ。上がり框を跨ぐ。ちゃぶ台の方へ向かう。その間、善逸は下を見たまま歩いた。畳の目が黒い。雨を吸って乾ききらない黒だ。湿った藁の匂いが、線香の甘さを押し返して、また戻ってくる。戸を閉めても、湿りは入ってくる。
囲炉裏のある座敷の隅に、小さな台があった。座布団は二枚。間が無理に広い。空の座が、そこに座っているみたいだった。
慈悟郎は正座していた。数珠は膝の上に置かれているのに、指だけが玉を探して、触れて、握り直す。冷たさを確かめる癖が、今夜はやけに強い。
善逸は座らなかった。座ると、足の裏が畳に貼りつく気がする。貼りついたら、動けなくなる。動けなくなると、戻ってしまう。
壁と柱の間、半歩の隙間に立つ。息を吸った。囲炉裏の燃え滓と、線香の灰が舌に当たる。甘さの向こうに苦みが来て、胃が反射しかけた。
慈悟郎が先に口を開く。
「……兄弟子の名を、言え」
命令ではない。祈りに近い声だ。祈りに近いのに、師匠の声で、背筋が勝手に伸びる。
善逸は頷いた。頷いたのに、口が動かない。喉の奥で声が止まる。止まったまま、息だけが漏れそうになる。
「……獪岳」
呼んだ瞬間、胸の奥が鳴りかけて、黙った。自分で黙らせたのが分かる。分かるから、腹の底が冷える。
慈悟郎は数珠を一つ繰った。玉が擦れて、小さな音がする。その音だけが、部屋の中で生きている。
「わしは、あやつを……弟子にした」
淡々としている。淡々としているくせに、言い終わりだけ喉が擦れた。年月の擦れ方だ。
善逸は反射で言いかけた。
「ちが、俺がっ……」
言葉が引っかかったまま、次の言葉に押しつぶされる。
「師匠のせいじゃ……」
途中で止めた。止めたのに、半分だけ空気に残って情けない。慈悟郎は否定しない。もう一つ玉を繰って、音だけで善逸の言葉を沈める。
「泣かんでいい」
善逸の喉が、ひく、と鳴った。鳴ったのに涙は出ない。
「……泣けないです」
「なら、息をしろ」
善逸は息をした。深く吸って、吐く。吐いても、胸の奥がほどけない。息だけが通っていく。
慈悟郎の視線が善逸に触れる。顔ではなく、呼吸に触れる。
「してる“だけ”だのぉ。しっかり呼吸をしろ。全集中の呼吸だ。常中は、いかなる時でも途切れさせるなと……口を酸っぱくして言っただろうに」
善逸は返事をしない。返事をしたら声が揺れる。揺れたら、何かが出てしまう。代わりに、呼吸を整える。薄く、途切れさせないように。
視界の端で、線香の灰が長く伸びている。折れそうで折れない。折れないから、目が外れない。
善逸は“立ち上がる動作”をした。もう立っているのに。動作が手順になっている。手順なら、考えずに済む。
「……柱稽古、始まるんだ」
慈悟郎の指が止まった。止まったまま、玉が親指に食い込む。痛いはずなのに、離さない。
「ならば尚更に、今宵は刀を置け」
善逸は壁の木刀を見る。軽い。軽いから振れる。振れば、空になる。
「少し、時間を空けたら……鍛錬に戻ります」
言葉が座敷に落ちた。跳ねない。重い。
慈悟郎の口が開いて、閉じた。もう一度開いて、閉じる。言葉が見つからない時の癖が、そのまま出た。
「……やりすぎるな」
善逸は木刀を取った。木の感触が掌に貼りつく。刃じゃないのに、冷たい。
「やりすぎないと、足りないんだ」
「足りないのは、鍛錬か」
声が少し低い。低いほど怖いはずなのに、怖さが善逸に入ってこない。入ってこないから、止まらない。
善逸は口の乾きに気づいて、舌で歯の裏をなぞる。それから言った。
「……俺です」
慈悟郎は目を閉じる。閉じたまま息を吐く。吐く音が一瞬だけ震えて、すぐ整えられた。
「今からで良い。だが……三つだ」
枠を作る声だ。禁じきれない声だ。
「三つで終われ」
善逸は頷く。
「三つ、やります」
「守れ」
「守ります」
返事は丁寧なのに、温度がない。慈悟郎の首筋に、汗が一本だけ浮いた。寒いのに出る汗だ。
善逸は庭に出て、木刀を構えた。雷の呼吸。型は増やさない。壱。壱しかない。壱しかないから、壱を細かく割る。踏み込みの幅。踵の残し方。息の置き場。ひとつ違うだけで、音が変わる。善逸は音だけを見る。
一振り目。
風が鳴った。木刀が空気を裂く。息が短く走る。鋭い。慈悟郎の耳が、わずかに痛む。
二振り目。
止まりたくない。止まると、戻る。戻ると、煙が入る。煙が入ると、名が来る。
三振り目。
枠の終わり。終わりに向かって、わざと速くする。速くすれば、止める瞬間に体が遅れる。遅れた体を無理に止める。止める時、喉が鳴りかける。
慈悟郎の声が少し荒い。
「終われ」
善逸の肩がぴくりと動く。止まった。止まったのに、足がもう一歩出そうになる。こらえる。こらえた瞬間、喉が小さく鳴った。獣みたいな、音。
善逸は木刀を下ろす。息を整えるふりをして、回数を数える。一、二、三。数えれば、何かが遠のく。
慈悟郎は縁側から立ち上がりそうになって、立ち上がらなかった。立ち上がったら、抱きしめてしまう。善逸の五月蠅さはよく知っている。だが、今は泣いていない。少なくとも涙は泣かしていない。今抱きしめたら、弟子は泣くかもしれない。泣いたら、心が戻る。戻るのは慈悟郎としては嬉しいはずなのに、今は怖い。心が戻った人間が、次にはすぐに壊れてしまうのが見えるからだ。
慈悟郎は別の一点を押す。
「名前を呼べ」
善逸が瞬く。意味が追いつかない。
「獪岳の弟弟子である……自分の名を」
善逸は黙る。黙っている間に、線香の灰が折れた。ぱら、と落ちる。落ちる音は小さいのに、胸の奥で梁が落ちるみたいに響く。
善逸は息を吸って、吐いて、それから言った。
「……我妻、善逸です」
声が低い。泣き虫だった頃の声を、知らないふりをする声だ。
慈悟郎は頷く。
「それを忘れるな」
善逸も頷く。
「忘れません」
その「忘れません」が、慈悟郎の指をもう一度玉へ向かわせた。握り直す。握り直す回数だけが増える。
障子の向こうが白い。明け方の白だ。明け方は音より先に来る。善逸は白を見ない。白が来たことだけを手順として処理する。荷をまとめる。帯を締める。刀を確かめる。呼吸を確かめる。
背中がまっすぐすぎる。曲がる余地がない背中だ。
「善逸」
慈悟郎は呼んだ。糸を残すみたいに。
善逸は振り返る。
「はい」
返事が早い。早すぎる。返事が、動作だ。
慈悟郎は言葉を探して、見つからず、ひとつだけ出した。
「……生きろ」
善逸のまばたきが一度だけ増えた。胸に当たった情報が、通り道を探しただけだ。
「生きます」
余計な言葉は足さなかった。足したら、温度が出る。
善逸は礼をした。礼は綺麗だった。綺麗すぎて、慈悟郎は視線を逸らす。逸らした先の線香は、もう半分になっている。
足音が遠ざかる。土を踏む音。草を折る音。布の擦れる音。呼吸が走る音。
慈悟郎は追わない。追えば、止めに行ってしまう。
数珠を繰る。玉の音が部屋に戻ってくる。戻ってくる音だけが、取り残されたみたいに残る。
「……止めれば折れる。止めねば燃える……」
言ってしまってから、慈悟郎は唇を閉じた。続きを言わない。言えば、正しさになる。
折れた灰は畳の上で小さな山になっている。誰にも見えないほど小さいのに、確かにそこにある。
遠くで、善逸の足音が消える。
最後に残ったのは、線香の甘い匂いと、数珠の玉が擦れる、乾いた音だった。
獲得機能
・全集中の呼吸・常中
喪失機能
・感情の発露