なり損ねた雷 作:白鳴
手拍子で走る、息の譜
土を踏む音が、まず来た。草が折れる音が、次に来た。布が擦れる音が、最後に残った。善逸はそれを自分の足で作っているのに、遠い。耳に入ってくる順番だけが正しくて、身体の中身は追いつかないまま前へ運ばれる。背中に線香の甘い匂いがまだ貼りついている気がして、息を吸うたびに喉の奥が小さく縮む。数珠の乾いた擦れる音も、耳の奥に残っていた。玉がひとつ、ふたつ、指に探られては握り直される音。その音だけを置いてきたはずなのに、置いてきた場所が追いかけてくるみたいに、歩調の中へ混ざって離れない。
山へ入る道は白みかけていた。白は眩しさにならず、ただ白としてそこにあった。善逸は見ない。道だけを見る。石の段差、ぬかるみ、乾いていない葉。踏むべき場所だけ。
稽古の集合は山道の入口だった。隊士の数が多い。多いほど息の音も増える。まだ始まっていないのに、咳が混じる。喉を焼いた音が混じる。
「おいおいおい! 遅ぇぞ!」
宇髄天元の声が、木々に跳ねて戻ってくる。派手な声だ。派手なのに、目だけが余計なものを見ない。隊士を見渡して、善逸を一瞬だけ見て、すぐ全体へ戻した。
「柱稽古だァ! 体力だ体力! 山道、地味に走れェ! 今日の派手はそれだけで足りる!」
列の端で、もう顔色の悪い者がいる。善逸は端に立ち、礼をした。声は平たい。宇髄は名を呼ばない。名で抱えない。
「行くぞ! 置いてく! 遅れたら恥だァ! 恥は派手に残る!」
走り出す。土は湿っている。落ち葉が滑る。根が足首を取る。上りで息が上がり、下りで脚が攣る。最初だけ速い者はすぐ肩が上がり、腕が重くなり、喉が引っかかる。
「止まるなァ! 止まったら終わりだァ!」
宇髄は前へ出ない。後ろにも回らない。上から投げるだけだ。投げられた声に、勝手に燃えろという形が混じっている。
一つ目の坂で、返事が薄くなる。二つ目の坂で、返事が途切れる。返事が途切れた後、足も途切れる。膝が落ちる音がする。砂利が擦れる音がする。吐く音がする。
善逸は同じ速度で走っている。足音の間隔が乱れない。肩が上がらない。表情が変わらない。汗だけは出る。汗が出ているのに、顔の温度だけが上がらない。
疲れていないのではない。疲労の出方が違う。出るはずのものが、出ない。
「いいぞいいぞ! 腕を振れ! 脚を出せ! 息を抜くなァ!」
隊士が「はいっ」と返して、すぐ苦しくなる。善逸は返事をしない。ただ走る。返事をすると喉が揺れる。揺れたら、今は要らないものが混ざる。
宇髄の視線が一瞬、善逸に落ちた。落ちたのは顔ではなく、胸と喉のあたりだった。
善逸の息は滑らかではない。吸って吐く、それが一本で繋がっていない。吐きが切れて、戻って、また切れる。乱れているわけではなく、刻まれている。切れ目が、並ぶ。
宇髄は気づく。気づいて、顔に出さない。
「さぁさぁさぁ! 地味が足りねぇぞォ!」
声だけ投げて、放置した。
山道はひたすら続く。木の根が露出し、小石が転がり、湿った土が靴裏に貼りつく。吐く音が先に来て、遅れて匂いが追いついた。「すみません」と誰かの声が混じり、すぐ咳に潰れた。誰かが膝をついた。呻きが増える。呻きが増えるほど、宇髄の声が派手になる。
「倒れるなァ! 倒れるなら倒れ方まで派手にしろォ!」
善逸は吐く音を聞く。膝の落ちる音を聞く。聞いても視線をやらない。足だけを前へ出す。吐く拍が短く切れて残る。吐いて、吐いて、吐き切らない。吐き切らないから次がすぐ来る。薄い火が途切れない。
尾根に出たところで、宇髄が手を上げた。
「休憩だァ! 五分! 五分で戻れ!」
隊士がその場に散る。転がる。土に額をつける。息が喉で鳴って、むせる。
ここで音が一段落ちる。代わりに布の擦れる音が近づく。竹筒が鳴る音。水が揺れる音。握り飯の包みが擦れる音。米の匂いが汗の酸っぱさに割り込む。
宇髄の嫁たちが現れた。まきをが荷を下ろし、すまが竹筒を配り、ひなつるが握り飯を並べていく。量が多い。多いほど、これは“続けろ”の形だと分かる。
「おおっ、来た来た! いいねぇ! さすが俺の嫁だァ!」
まきをは返事の代わりに、竹筒を一人の隊士へ放った。乾いた音が宙を切り、竹筒が胸に当たって弾む。受け止めた隊士の顔が曇った。周囲から、小さな笑いが漏れた。笑いは軽い。軽いから、喉の奥が余計に痛む。
隊士が竹筒に群がる。喉を鳴らし、むせ、涙を流しながら飲む。竹の匂いが水に混じって喉を冷やす。握り飯を掴む手が震える。
善逸は立ったまま竹筒を受け取った。蓋を外す動作が無駄に滑らかだ。水が喉を通る。通るのに肩は上がらない。
宇髄が手を叩いた。パン、と乾いた音。もう一度、パン。間を置いて、パンパン。間を詰めて、パンパンパン。
「後半いくぞォ! 今からはスピードだ! ……ただし、気合いで速くなるなよォ! この手ぇが合図だァ! 鳴ったら上げろ! 止んだら落とせ!」
山道へ戻る。走り出す。
最初は長い間隔。隊士はなんとか合わせる。次は短くなる。短くなるほど呼吸が追いつかない。追いつかない者から音が崩れる。足音がばらける。苦しさが声になる。声になった分だけ体力が消える。
宇髄が叩く。パン、パン。パンパン。パン。パンパンパン。間が変わるたび、隊士の顔色が落ちる。
善逸の呼吸は外れない。外れないまま、吐く拍が刻まれて手拍子の並びに寄っていく。寄るのは速さではなく、拍だ。切れ目ごと並ぶ。並んだ切れ目が、次の一歩の位置を決める。
宇髄が叩き方を変える。急に遅くする。急に長く止める。止めた瞬間、隊士は落ちる。落ちて、追いつけずに崩れる。崩れた音が地面に散る。
善逸も落ちる。落ちるが止まらない。止まらないまま、手拍子が再開した瞬間に吐く拍が先に戻る。足はそれに従う。
「おいおい……いいじゃねぇか! まだだァ! まだ走れェ! 派手に地味を続けろォ!」
稽古が終わった頃、空は明るい。隊士は山道の端に散る。土の上で仰向けになり、目だけ開けている。生きているのに声が出ない。
飯の時間になった。嫁たちがまた現れて、包みを置いて、竹筒を渡していく。言葉は多くない。動きが早い。
宇髄が、ようやく善逸に声を向けた。
「遊郭以来だな」
善逸の手が一瞬だけ止まった。握り飯の形が崩れかけて、戻る。
「お前、息が切れてる」
善逸は頷いた。頷くのに、目は上がらない。
「切れてるのに、落ちない」
宇髄は事実だけを並べる。
「普通は切れたら終わりだ。お前は切れて、繋いで、切れて、繋いでる。拍になってる」
箸先で椀の縁が一度だけ鳴った。カン、と小さな音。
「譜面は紙じゃない。音の並びだ。足音と息を並べる」
「雷は初動で殺す。音も初動で外さない」
「違いは配置だ。雷は一直線に入る。音は流れを先に置く」
宇髄は握り飯を噛んで飲み込んだ。
「足音が寄る方、息が崩れる方、空く方。流れが先に喋る。読め」
「壱は変えるな。入る場所だけ変えろ」
善逸は頷いた。頷き方だけが正しい。
「派手に増やすな。地味に混ぜろ。息と足音だ」
「途切れたなら、その切れ目を拍にする。手拍子が変わっても同じ場所へ戻れ」
善逸は返事をしない。返事の代わりに、握り飯を口へ運ぶ。
「飯を食え。明日も走る」
宇髄は立った。背中が大きい。振り返らない。
周りの隊士は、まだ息が荒い。笑う者がいる。笑い声は弱い救いの形をしている。善逸は笑わない。噛み、飲み込む。味はする。それでも咀嚼の回数だけが正しく進む。
食い終わっても、呼吸は薄く燃え続けていた。
手拍子の間隔が、耳の奥でまだ並んでいた。
「もう一回だァ! 解散はその後!」
宇髄の声で、隊士の背中がまとめて沈んだ。返事はない。返事が出ないのではなく、返事を出す余裕が残っていない。嫁たちは何も言わず、竹筒と包みを手早く片付けた。布の擦れる音が短く連なり、それもまた拍に聞こえた。
山道へ戻る。陽は落ち、木陰が濃くなる。風が枝を擦り、砂利が乾いた音を返す。手拍子はない。合図は山そのものだ。上りの息、下りの足、根を跨ぐ音。外れた者から音が乱れ、乱れた音がさらに乱れを呼ぶ。
善逸は同じ場所へ戻る。息が切れて、繋がって、また切れる。切れ目が並び、並びが足元を決める。暗いのに迷わない。迷わないのは目ではなく、音が先に道を作るからだ。
宇髄は隊列の後ろに立ったまま、善逸の背中だけを見ていた。追いつこうともしない。追い払おうともしない。ただ、外れないものがあることを確認するように。
休止の合図もなく、宇髄が歩幅を止めた。隊士が次々と止まり、崩れた。善逸だけが一歩先へ出かけて、止まった。止まって、呼吸を戻した。戻す場所がある呼吸だった。息の切れ目が細かく増え、増えた分だけ足運びの置き場が決まっていった。
「今の並びを忘れるな」
それだけが背中に落ちた。善逸は頷かない。足を揃えて、息だけを揃えた。
夜気が冷えるほど、山道の音は澄む。澄んだ音が、耳の奥に譜のまま残った。