なり損ねた雷 作:白鳴
山道の音が、まだ耳の奥に残っていた。手拍子の間隔が歩調の中で勝手に並ぶ。竹筒の水が揺れる音、包み紙の擦れる音、誰かの笑いの残り滓。全部が、吐く息の切れ目に貼りついて離れない。
移動は休息ではない。段取りだ。屋敷を抜け、庭を抜け、土を踏み、板を踏む。踏む場所が変わるたび音が変わる。音が変わっても、呼吸の薄い火は消えない。善逸はそれを確かめるみたいに、息を切って戻して、また切った。
次の稽古場は広かった。広いのに空気が冷たい。声が上に逃げて戻ってこない。足音だけが増える。増えても暖まらない。そこに、時透無一郎が最初からいた。
無一郎は隅に立っていた。柱に寄りかかっているようで、寄りかかっていない。隊士が増えても視線が上がらない。顔ではなく足元、距離、角。そこだけを見ている。
「……始めて」
それが合図だった。命令でも励ましでもない。作業の開始。
無一郎にとって、隊士の顔はあまり意味がなかった。苦しそうな顔も、怯えた顔も、同じだった。崩れる時は崩れるし、通る時は通る。見るべきなのはそこではない。足の向き、重心の落ちる位置、角に入る瞬間の遅れ。そこだけ見ていれば足りた。
隊士が動く。最初は広い稽古場を大回りに走り、止まり、また走る。息が上がり、肩が上がり、返事が薄くなる。誰かが「これだけか」と顔を上げた瞬間、床を転がる音が増えた。
隠が木刀を投げたのだ。木が板を叩き、転がり、跳ねる。些細な音ほど人は慌てる。慌てた者から視線が落ちる。落ちたまま角へ入って詰まる。詰まった背中が空く。空いた背中に木刀が入る。短い呻きが漏れ、すぐ飲み込まれる。
無一郎は言わない。怒らない。慰めない。次を落とすだけだった。
「……次」
その一語で、人がまた動く。
善逸は輪に混ざらない。輪に混ざると追う癖が出る。追えば距離が増え、距離が増えれば判断が増える。判断が増えると遅れる。遅れは、稽古でも死に似る。
土間の端に白い粉の線があった。直線、斜線、折れ。広いはずの稽古場が、その線で狭く見える。線の外側は粉が薄く撒かれていて、踏むと足裏が僅かに取られる。踏んだ瞬間の小さな遅れが、そのまま背中の空きになる。
無一郎の目が、線の角に落ちた。
「……そこ」
善逸は角を見る。角の手前の粉の濃さを見る。板が軋む場所と、軋まない場所の違いを見る。見たあと、走り出す。速くはしない。必要な速度だけを出す。速いと角で剥がれる。遅いと相手の視線が追いつく。追いつかれた瞬間、霞が晴れてしまう。
木刀が転がる。転がる音が増える。増えた音に反応すると追う。追うと線を外す。善逸は追わずに角を一つ潰す位置へ入った。立っただけで線が一本だけ残る。通れる場所が一本だけになる。
相手役の隊士はそこへ寄る。寄ってくるというより寄せられる。逃げ道が減って、狭いほうへ足が動く。動いた先に剣筋が通る。善逸は抜かない。まだ抜かない。木刀で十分だ。剣筋が通る場所だけ作れば、刃は後からついてくる。
無一郎の視線が善逸の足へ落ち、角へ移り、また足へ戻る。感情はない。評価の言葉もない。確認の回数だけがある。
金髪の子は、最初から少しだけ変だった。速いわけではない。速さだけなら、もっと前へ出る隊士はいる。けれど、この子は前へ出ない。出ないまま、角に人を寄せる。押し込むのではなく、狭い方へ流していく。目立たないやり方だった。目立たないのに、剣筋だけは通る。
滑った者がいた。粉が汗に溶けて白い汚れになる。白い汚れが増えるほど、稽古場は霞む。霞んでも無一郎の声は変わらない。
「……次」
善逸は線の端で呼吸を戻す。戻す場所がある呼吸だった。吐く息が短く切れて戻る。切れ目が増える。増えた切れ目の分だけ、足を置く場所が決まっていく。
無一郎は黙ったまま、自分の足先を半歩だけずらした。角の内側へ。ずらした場所が正解の置き場だった。善逸はそれを見て、同じ半歩を自分の中に入れた。
「……残って」
言葉が落ちた先は、善逸だけだった。
周りはまだ倒れている。倒れている者は置かれる。進んだ者だけが残る。稽古場が急に広く見えた。線が増えたのではない。相手が一人になっただけだ。
無一郎は木刀を取った。構えは軽い。軽いのに隙がない。息が静かだ。静かなまま、次の瞬間だけ速い。
教えるのが得意だと思ったことはなかった。言葉を増やすと、余計なものまで混ざる。剣筋はそんなに親切じゃない。残す時も、理由は要らない。残す必要があるから残すだけだ。この子は、たぶん次へ進める。速さがあるからじゃない。強いからでもない。通す道の作り方が、もう偶然じゃないからだ。
「追わないで。追ったら、遅れる」
それだけ言って無一郎は前へ出た。出たはずなのに見え方が変わる。緩急の切り替えが霞になる。速さではなく切り替えが霞だ。
無一郎の木刀が走る。走るのに、音が遅れて来る。遅れた音が床を叩いた時には、もう場所が違う。
善逸は避けに行かない。避けに行けば追う。追えば間合いが乱れる。善逸は置く。置く場所は、無一郎の次の道が通る入口。剣筋を止めに行かず、通る道だけ変えさせる。
無一郎の足が一瞬止まった。止まったのではない。緩急が切り替わっただけだ。その隙間で道が一本だけ浮く。
善逸はそこへ入る。速さではなく、置き場で入る。迷いが無いから、音が増えない。
木刀が鳴った。乾いた音が一つ。次の音は来ない。余分な擦れも、息の荒れもない。相手の剣筋が通るはずだった場所に、自分の剣筋が通っただけだ。
無一郎は視線を落とす。善逸の足元へ。線と角へ。もう一度足元へ。視線がそこで、ほんの少し止まる。無一郎の目には、追わずに通った剣筋だけが、金の線みたいに映った。
それから半歩だけ動いた。善逸の置いた場所を自分の足でなぞるみたいに。なぞって、戻った。言葉ではなく、それが採用の所作だった。
「……良い」
褒めているようには聞こえない。合格でもない。作業に組み込んだだけの音。
「終わり。次、行って」
善逸は頷かない。礼だけする。礼が綺麗すぎて場から浮く。浮いたまま線を降りる。
無一郎はもう善逸を見ない。次の隊士へ同じ声を落とす。
「……次」
広い稽古場で、人がまた動き始める。倒れる音と踏み直す音が増える。増えても空気は暖まらない。
善逸は稽古場を出た。呼吸は薄く燃え続ける。吐く息の切れ目が細かく増え、増えた分だけ足運びの置き場が決まっていった。
無一郎の目には、追わずに通った剣筋だけが、金の線みたいに映った。それは次の隊士が向かってきても残っていた。
感想、仮説、展開予想など、好きに置いていくといい。純粋な批評のみでも無論構わない。
無一郎が見た“金の線”を読者がどう受け取ったか、興味があるのだよ。