なり損ねた雷 作:白鳴
炭治郎が甘露寺蜜璃の稽古場へ着いた時、最初に聞こえたのは悲鳴ではなく、弾む声だった。
「はいっ、そこでもっとぐーっと! そうそう、ぐいーって伸ばして、ふわって戻るの!」
高くて明るくて、妙によく通る声だ。板の間を打つ足音や、隊士たちの荒い息の中でも、その声だけはぱっと浮く。
けれど、その賑やかさの中に、ある音が足りなかった。
善逸の声がしない。
あれだけ明るい場なら、善逸がいればすぐ分かる。文句でも悲鳴でも、何かしらの“音”が混ざるはずだった。けれど、そこにはそれが無い。炭治郎は小さく眉を寄せたまま、稽古場の中へ視線を走らせた。
敷物がいくつも並べられ、その上で隊士たちが身体を折り、伸ばし、沈み、戻る。柔軟と体幹、そこに足腰の沈み込みが混ざった稽古らしい。見ただけで炭治郎の腿の裏が痛くなるような動きばかりだった。
「炭治郎くん!」
蜜璃が気づいて、大きく手を振った。笑顔が明るい。明るいのに、周囲の隊士たちの顔色は明るくない。そこが少し面白くて、炭治郎は思わず背筋を伸ばした。
「おはようございます、甘露寺さん!」
「おはよう!刀鍛冶の里依頼、久しぶりね〜来てくれてうれしい! でもね、来たからにはやってもらうわよ!」
「は、はい!」
返事をした瞬間、炭治郎は稽古の輪へ入れられた。
「まず、足を開いて、そこからぐーっと前へ! で、そのまま膝を落として、腰はふわ、背中はぴしっ!」
擬音ばかりなのに不思議と分かる。分かるけれど、分かったことと身体ができることは別だった。
炭治郎は言われた通りに腰を落とした。すぐに腿の裏が引きつる。股関節が悲鳴を上げる。そこからさらに沈めと言われて、「うっ」と情けない声が漏れた。
「そうそう! そこ! そこから逃げないの!」
蜜璃は笑顔のまま言う。逃げ場のない笑顔だった。
隊士たちも似たような有様だった。誰かが「いたたっ」と声を上げ、誰かが床に手をつき、誰かが小さく「もう無理です」と呻く。蜜璃はそのたびに「大丈夫!」と元気よく返す。何が大丈夫なのかは、やっている側には少し分かりにくい。
炭治郎が息を整えながら顔を上げると、やはり善逸の姿は見当たらなかった。
あれだけ賑やかな場なら、善逸がいればすぐ分かる。そう思っていたのに、こうして見回しても、本当にいない。それが妙に引っかかった。
炭治郎は蜜璃の方を見た。
「あの、甘露寺さん」
「うん?」
「善逸は、ここには……」
言いかけると、蜜璃の表情がほんの少しだけ変わった。明るさは消えない。消えないのに、笑みの奥で何かが引っかかったみたいに、目の開き方が少しだけ狭くなる。
「善逸くんなら、もう次に進んじゃったの」
炭治郎は目を瞬いた。
「もう、ですか」
「うん。早かったわあ。びっくりしちゃった」
蜜璃は胸の前で手を合わせ、けれどそのまま指先を絡めた。
「最初はね、すごいなあって思ったの。ほんとに。だって、ちゃんとできてたんだもの。沈み込みも戻りもすごく綺麗で、ぐらつかないし、最後まで崩れないし」
そこまで言ってから、蜜璃は少しだけ視線を落とした。
「……でもね」
炭治郎は黙って続きを待つ。
「見方が、変わってたの」
炭治郎は眉を寄せた。
「見方?」
「うん。前の善逸くんってね、もっと分かりやすかったでしょう? 女の人を見れば、ぱあってなって、わあってして、目がきらきらしすぎて、もう“見てる”ってすぐ分かる感じだったの」
炭治郎は少しだけ苦笑した。否定できない。
蜜璃も、つられるようにほんの少し笑った。けれど、その笑みはすぐに静まった。
「でも今回ね、そういうのが全然無かったの。私のことを見る時も、見てる場所が違ったの」
「違った」
「うん。変な言い方かもしれないけど……肌とか、形とか、そういう見方じゃなかったの。肩の入り方とか、膝が落ちる角度とか、腰が沈む前の気配とか。そういうのばっかり見てる感じだったの」
炭治郎は黙ったまま聞いた。
蜜璃は言葉を探すみたいに、胸の前で両手を動かした。
「私、筋肉の付き方が普通の女の子と違うでしょう? その……八倍って言われるくらい、密度が高いから。善逸くん、そこを見てたの。どこが先に動くか、どこで沈むか、どうしたら崩れないか、みたいに」
明るい声で言っているのに、その内容は妙に冷たかった。
「いやらしくないのよ。全然。そこは全然違うの。だから嫌だったわけじゃないの。でもね、見られてるのに、見られてる感じがしないの。観察されてるみたいで」
炭治郎は、そこでようやく息を吐いた。
それはたしかに、少し怖い。
蜜璃は慌てたみたいに言葉を足す。
「でもね、変な意味じゃないのよ!? 本当に! 善逸くんが失礼だったとか、そういう話じゃなくて! ちゃんと敬意はあるの。むしろ前よりずっと礼儀正しかったし、変なことも一言も言わなかったし!」
そこが余計に引っかかるのだ、と炭治郎は思った。
蜜璃も同じことを感じたらしい。少しだけ声を落とす。
「ちゃんとしすぎてるの。前はもっと、わーってなったり、ぎゃーってなったり、あわあわしたりしてたでしょう? でも今回は、ぴた、ぴた、ってしてて。私の動きを見てるのに、私を見てる感じが薄いの」
炭治郎はすぐには答えなかった。
まだ自分の目では見ていない。だから、ここで分かったような顔はできなかった。蜜璃の言葉を、そのまま受け取るしかない。
「そんなに、ですか」
「うん」
蜜璃は頷く。
「私、最初はうれしかったのよ? 善逸くんがちゃんと頑張ってるの、すごく分かったから。強くなってるのも本当だし。でもね、見てると、胸のところがきゅうってするの。強くなり方が、少しだけ静かすぎる感じがして」
炭治郎はその言葉を胸の中で反芻した。
静かすぎる。
きれいすぎる。
人を見る目まで変わっている。
「……分かりました」
炭治郎はゆっくり言った。
「まだ、俺はちゃんと見ていません。だから今は、甘露寺さんの話を聞くことしかできないです。でも、次に会った時はちゃんと見ます」
蜜璃はその返事に、少しだけほっとしたみたいに肩を抜いた。
「うん。それでいいと思う。たぶんね、私の勘違いじゃないの」
それから、小さく続ける。
「善逸くんね、頑張ってるの。すごく。たぶん今までで一番、ちゃんと頑張ってる。でも、その頑張り方が前と違うの」
炭治郎は黙って聞いた。
「前は、怖がって、騒いで、それでもやるって感じだったの。今は、もう先に決まっちゃってるみたいで……だから、私の身体まで“材料”みたいに見えてるのかなって、一瞬だけ思っちゃったの」
言ってしまってから、蜜璃は「やだ、言い方が悪いわね」と少し困ったように笑った。
炭治郎は首を振った。
「でも、そう見えたんですね」
「うん。そう見えたの」
その一言だけは、蜜璃も迷わなかった。
近くで隊士が派手に尻もちをついた。板の上にどすんと鈍い音が響く。
蜜璃はすぐそちらへ向き直る。
「そこで止まっちゃだめ! 戻る時もふわって!」
「ふ、ふわって何ですかぁ!」
「ふわってはふわってよお!」
明るい声が稽古場に弾ける。周りからも少しだけ笑いが漏れる。賑やかだ。温かい。ここには、ちゃんと人の気配がある。
その中で、炭治郎は一瞬だけ、善逸のいない場所を見た。
いない。
もうここにはいない。
それだけで、進みの差が見える。
「炭治郎くん!」
「はい!」
「見てるだけじゃだめ! あなたもやるの! ぐーっと沈んで、ふわっと戻るの!」
「は、はい!」
返事をした瞬間、炭治郎の脚はまた悲鳴を上げた。腿の裏が引きつり、股関節が軋む。蜜璃は「そうそう!」と嬉しそうに笑う。周囲からはまた誰かの情けない声が上がる。
炭治郎は沈み込みながら、さっきの蜜璃の言葉を反芻していた。
強くなっている。
けれど、見方まで変わっている。
それは前へ進んだということなのか、別の何かなのか。
今はまだ、それだけだ。
それだけを受け取って、炭治郎は腰を落とした。
善逸はもう次へ進んでいる。
明るい声と悲鳴の中で、浮いていたのは一人だけだった。