なり損ねた雷 作:白鳴
伊黒小芭内は、稽古の前から少しだけ気分が悪かった。
昨夜、甘露寺蜜璃が何気なく話したからだ。
善逸くん、すごく熱心だったのよ。
私の動き、ちゃんと見てたの。沈み方とか、どこで崩れないかとか。
明るい声だった。悪気も含みもない。ただ感心しただけの声だった。
伊黒はその場で何も言わなかった。言う必要もなかった。
けれど、あの金髪の小僧が蜜璃へ視線を向け、言葉を交わし、その結果として何かを持ち帰ったのだと思うと、それだけで十分、気に食わなかった。
稽古場へ入る頃には、その苛立ちはもう表へは出ていない。怒鳴るほど浅くはない。ただ、細く研がれて、太刀筋のどこかに混ざる程度には残っていた。
伊黒の稽古場は、入った瞬間に息が細くなる。
板の間には木柱が何本も立ち、腰の高さには縄が渡され、その隙間に隊士が並ばされていた。人と柱と縄で、空間が細かく割られている。抜けるだけでは足りない。味方を傷つけず、乱れた姿勢も晒さず、そのうえで剣筋だけを通さなければならない。
「曲がるな」
伊黒は言う。
「だが、正面にも立つな」
前へ出た隊士が、縄の下をくぐり、柱の脇を抜け、並んだ肩先を避けながら木刀を振る。振った途端、伊黒の木刀がその手首を打った。乾いた音がひとつ鳴る。
「遅い」
次は急ぎすぎた。縄を鳴らし、肩が浮いた。木刀が背へ入る。
「雑だ」
それが続く。誰も長くは持たない。狭い場所を抜けるだけならまだいい。味方を傷つけず、剣筋だけを通すとなると、たちまち全員の身体が詰まる。
善逸は後ろから見ていた。縄のたるみ、柱の影、肩が引っかかる位置、膝が残る場所。詰まる者は皆、似た場所で詰まる。視線が落ち、足が前に立ちすぎ、自分で自分の線を塞いでいる。
「次」
呼ばれて前へ出る。善逸は何も言わない。文句もない。そこがまず気に食わなかった。
最初の一歩は正面ではない。ほんの少しだけ外。縄の下へ入る時も、上半身を折らず、膝と股関節だけを落とす。蜜璃のところで覚えた沈みだ、と伊黒にはすぐ分かった。板の軋みが小さい。柱の影へ半歩。前に立つ隊士の肩の向こうへ、木刀が通る。
鳴った音はひとつだけだった。
伊黒の木刀は飛ばない。
「……もう一度」
二度目。並びが変わる。縄が低くなり、肩の位置もずれる。だが善逸はまた抜ける。今度は柱の手前で足先の向きだけが変わった。正面から通したはずの木刀が、最後だけわずかに斜めから入ったように見える。
伊黒の目が細くなる。
三度目で、前に立つ隊士の方が先に潰れた。息を切らし、膝に手をつき、縄を避けるだけでいっぱいになる。善逸の進みに、受け側の密度が追いつかない。
「下がれ」
二人、三人と隊士が引く。最後に残ったのは木柱と縄だけだった。人の熱が抜けたぶん、空間は冷え、線はかえって見えやすくなる。
「やれ」
善逸はもう動いている。人が消えても困らない。むしろその方が静かだ。柱は動かない。縄も喋らない。人より正確だった。
木柱の間を抜ける。縄の下へ沈む。上は残し、下だけを落とす。沈み込みの深さで高さを変えたまま木刀を通す。出る線は壱の形をしている。なのに入り口だけが違う。柱の外から来たと思った刃が、気づけば内側から抜けている。
あの女の色が、ここに混じっている。
膝の落ち方。股関節の解け方。上半身を残したまま、下だけを沈める癖。見ていたのだろう。十分に。気に食わない。だがその気に食わなさは、苛立ちではなく修正点として目に入る。
「そこじゃない」
伊黒は善逸の置き場を刺す。
「深い。抜けた後の戻りが死ぬ」
善逸は足元を見る。次では半歩だけ浅く置く。迷いがない。直し方まで静かだ。その静けさが、また神経を削る。
木柱と縄だけの稽古場の中で、善逸だけが淡々と先へ進んでいった。
時間が余った。
そう見えたのは、善逸が立ったまま次を待っていたからだった。普通ならそこで息を吐く。膝に手をつく。だが善逸は崩れない。呼吸だけが薄く続いている。
伊黒は木柱の間へ入った。いつもの蛇のような絡み方を、あえて消した歩き方だった。真っ直ぐ、善逸の前へ立つ。
「来い」
善逸が木刀を構える。低い。壱ノ型へ入りやすい形のまま、まだ動かない。
伊黒が踏み込んだ。
最初の一歩は直線。蛇のような曲がりはない。正面から来る。来たと思った瞬間、木刀の線が横へ広がる。線ではなく面で塞ぐ。逃げる場所ではなく、通れる幅そのものを削ってくる。
善逸は引かない。引けば後ろの柱に詰まる。沈む。膝と股関節だけを落とす。上は残る。面が頭上を掠めた。
「浅い」
言葉と同時に次が来る。直線。返し。さらにその上から、もう一枚。曲がるのではない。塞いでくる。視界の半分がまとめて狭くなる。
善逸は木刀を見ない。通れる場所だけを見る。柱と柱の間、縄の下の影、面圧の端にできる細い切れ目。そこへ足を差し入れる。逃げるのではない。切れ目の方へ落ちる。
乾いた音がひとつ鳴る。伊黒の木刀の腹を、善逸の木刀が浅く擦った音だった。面の端を抜いたのだ。
伊黒の読みが、一度だけ空を切る。
速いからではない。読んだはずの入口が、半歩だけ外れていたからだ。
その感触が、内側の細い怒りをさらに研いだ。蜜璃へ向けた視線の残りが、自分の前で技術として立ち上がっている。その事実が、どうしようもなく気に食わない。
面がもう一段強くなる。私情は口に出ない。ただ、圧だけが増す。
善逸は退かない。沈み、置き、切れ目を拾う。壱の形をしているのに、正面からは入ってこない。入り口だけが静かにずれている。
音がまたひとつ鳴る。今度は伊黒の面が、そこでだけ切れた音だった。
沈黙が落ちる。
伊黒は木刀を下ろさない。そのまま善逸の足元を見る。深い右。浅い左。沈みは足りている。体幹は落ちていない。速さより先に、通る角度が決まっている。
「……そこだ」
声は低い。
「正面を抜くな。面の切れ目を拾え」
善逸は返事をしない。呼吸の切れ目だけが少し細かくなる。細かくなった分、置き場はさらに狭く決まる。
伊黒は背を向けた。だが、善逸の呼吸はまだ落ちていなかった。
「まだだ」
振り返らないまま言う。伊黒はもう一度、木柱の内へ戻る。今度は位置が近い。柱と柱の間隔も、縄の高さも変わらない。変わらないのに、空間だけが狭く感じられた。伊黒自身が、その狭さの一部になったからだ。
「今のは一枚だ」
善逸の視線がわずかに上がる。意味は分かる。返事は無い。
伊黒が踏み込む。
最初の面はさっきと同じ。善逸は沈んで抜ける。だが、抜けたと思った瞬間に次が来る。伊黒は振り切らない。面を畳まず、そのまま返す。横へ広がった圧が、今度は逆側からもう一枚被さる。正面を抜けた先に、別の正面が立つ。
善逸の足が半歩、遅れた。
木刀が肩口の前で止まる。触れてはいない。触れていないのに、止められた場所だけがやけに熱い。
「遅い」
善逸は肩を見ない。見ないまま、一度息を吐く。短く切れて、戻る。
切れ目は見えていた。
見えていたのに、抜けた先の次だけが遅れる。
もう一度。
今度は最初の面をさらに深く沈んで抜けた。頭を下げ、足を外へ置く。切れ目は拾えている。だが、その上からまた面が来る。二枚目だけではない。返しが早いのではなく、最初から重ねている。面が連なっている。
善逸は一枚目の切れ目へ入る。二枚目で腰を引かない。引かないまま、三枚目の気配に足を置き直そうとして、わずかに詰まる。
詰まったのは足ではなかった。戻りだ。
沈みは足りている。角度も読めている。だが、抜けた先からもう一度立ち直る速さが足りない。
木刀が今度は喉元の前で止まった。
伊黒はそこで初めて、少しだけ間を置いた。
「一度抜けて終わる足だ」
その声は叱責というより、置かれた事実に近い。
「一枚目の切れ目は拾える。だが、抜けた先の二枚目が身体に入っていない」
善逸の呼吸が細かくなる。乱れてはいない。ただ切れ目が増える。増えた分だけ、次の置き場を探している。
伊黒はさらに近づく。詰めた上で、また真っ直ぐ入る。真っ直ぐなのに途中から面になり、面になりながら切れ目の位置だけをずらしてくる。善逸が一度目で拾った場所を、そのまま二度目では塞ぐ。
善逸は三度目で、初めて木刀を弾かれた。
音は小さい。乾いた木と木の擦れ。大きく崩れたわけではない。崩れていないからこそ、足りなさがはっきりした。
通れる場所は見えている。
見えているのに、そこへ身体の全部が届かない。
一閃に入る前の一歩は足りている。
だが、抜けた後の次がまだ遅い。
「拾うだけでは浅い」
また面が来る。善逸は沈む。抜ける。だが今度は抜け切らない。二枚目の面が肩を刈り、三枚目が足元を塞ぐ。木刀が脇腹の前で止まる。
善逸の足が、そこでようやく止まった。
止まったのは敗けを認めたからではない。足りない場所を、身体がようやく覚えたからだ。
伊黒は木刀を引く。
「面の切れ目は見えている」
低いまま言う。
「だが、お前はまだ一枚目しか抜いていない」
善逸は何も言わない。視線だけが、自分の置いた足元へ落ちる。右足が深い。左が浅い。沈みは十分。入り口の角度も悪くない。足りないのは、その先だ。抜けた後に次の面を外すための戻り。戻りというより、連なりへの備えだった。
「正面を外すのは、もうできている」
伊黒は続ける。
「足りないのは、抜けた先でもう一度入る拍だ」
事実だけが置かれる。
善逸の喉がわずかに鳴りかけて、鳴らない。代わりに吐く息が一段細かくなる。切れ目が増える。増えた分だけ、次の一歩を置く場所が狭く決まる。
「もう一度だ」
善逸は頷かない。頷く代わりに、また沈む。
今度は一枚目の切れ目を抜いたあと、抜けた先で足を止めなかった。止めなかったが、それでもまだ、二枚目の面が肩先を掠める。
掠めた、それだけで十分だった。
足りない。
ようやく、そういう苦さが身体に入る。
伊黒はそこを見た。見て、木刀を下ろす。
「覚えろ」
それだけだった。
善逸は息を戻した。戻す場所はある。だが、そこへ戻るまでの拍がまだ足りない。
面の切れ目は拾えても、面そのものには、まだ負けていた。
残ったのは、幾重の面を抜くための足と太刀筋だった。