なり損ねた雷 作:白鳴
小芭内の稽古を抜けた頃には、善逸の足はもう、正面だけを見ていなかった。切れ目を探す足になっていた。
木柱と縄の間で何度も止められ、削られ、面で塞がれた。そのたびに、通れる場所は線ではなく、もっと薄い切れ目として身体に残った。一枚目を抜くだけでは足りないことも、抜けた先に次の塞ぎが待っていることも、足の置き場ごと覚え込まされている。
面の攻撃を抜ける方法だけが先に残り、人間としての反応の方が少し遅れていた。
だから次に不死川実弥の稽古場へ来た時、善逸はもう、ただ速く踏み込む隊士ではなかった。
面で潰してくる相手に対して、どこへ沈み、どこを抜けるか、その入口だけは先に探せるようになっていた。
その上で、実弥の稽古は別種の地獄だった。
荒い息。荒い足音。荒い打ち込み。
削るための音ばかりが鳴る場で、善逸だけが妙に静かだった。
不死川実弥の稽古場は、最初から空気が荒れていた。
怒号が飛ぶからではない。怒号なら他の柱だって飛ばす。ここはもっと直接的だった。土を踏む音が荒い。木刀のぶつかる音が荒い。息の漏れ方まで尖っている。誰もが、削るために動いていた。
玄弥はその端に立っていた。まだ嵐の渦中に入る前だ。入る前だからこそ、全体が見える。
兄貴は中央にいた。立っているだけで全員の背が固くなる。近づくだけで、甘い動きはそのまま叩き潰されると分かる立ち方だった。
その少し向こうに、善逸がいた。
最初、玄弥は見間違いかと思った。
善逸はもっと騒がしい奴だったはずだ。泣き言を言って、情けない声を出して、それでも最後には何かやる。そういう印象だった。けれど今そこにいる金髪の隊士は、静かだった。静かすぎた。
実弥が木刀を鳴らす。
「来い」
善逸は返事をしない。返事の代わりみたいに、呼吸だけが薄く揃う。次の瞬間には踏み込んでいた。
速い。
けれど、ただ速いだけじゃない。速さの前に、置き場が決まっている。そこへ身体を通すだけみたいに、一閃が出る。
実弥は受ける。受けて、弾く。
乾いた音が一つ鳴る。
普通なら、そこで一度離れる。体勢を立て直す。息を入れる。
善逸は離れなかった。
半歩だけ引く。引いた分だけ、また踏み込む。
霹靂一閃。
また半歩。
また一閃。
玄弥はそこで、うまく言えない引っかかりを覚えた。
善逸は攻めている。攻めているのに、怒っているようにも焦っているようにも見えない。ただ、同じ動作を続けている。反復。打ち込み。機械みたいに。
実弥の目が細くなる。
「……チッ」
木刀が重く返る。受け流しではない。叩き落とすみたいな打ち方だった。普通の隊士なら、そこで腕が痺れる。善逸は止まらない。止まらないまま、また踏み込む。
霹靂一閃。
今度は低い。
沈み込みが深い。
けれど上がぶれない。
そのまま、また次。
玄弥の背に、冷たいものが走った。
壱ノ型しか使えない善逸、という印象が頭のどこかに残っていた。けれど目の前の善逸は、壱しか使っていないのに壱だけではなかった。攻める入り口が違う。木刀の入りの高さが違う。足の置き場が違う。
だが、それでも名前を付けるなら、全部が霹靂一閃だった。
「うぜェなァ」
実弥が吐き捨てる。
吐き捨てるが、まだ認める響きはない。
むしろ苛立ちの方が強い。
気絶させることはできる。玄弥にも分かる。兄貴なら、一発深く入れれば善逸を黙らせられる。
実際、それは一度起きた。
善逸の側頭へ、実弥の木刀が浅くなく入った時だ。鈍い音がして、善逸の膝が落ちた。身体が前へ崩れる。普通の隊士なら、そこで終わる。そのまま終わって、引きずられて脇へ退かされる。
兄貴も最初はそうするつもりだったのだろう。
だから、残心を解いて近付いた。
その刹那だった。
善逸は倒れ切らなかった。
意識が飛んだ顔のまま、呼吸だけが続いていた。
薄い。細い。けれど途切れない。
そして次の瞬間、善逸の足が勝手に前へ出た。
玄弥は何が起きたのか、最初分からなかった。
善逸は目を開けていない。何も見ていない。なのに、踏み込みだけが出る。
霹靂一閃。
木刀が走る。
実弥が少し無理のある体勢で受ける。
また半歩、踏み込みの位置が変わる。
また一閃。
ぞっとした。
気絶して止まるどころじゃない。
止まるべきところを切られたせいで、逆に打ち込みだけが残ったみたいだった。
考える頭の方が落ちて、動作だけが前に出る。
それは反射というより、もっと悪い。
人間の方が後ろへ落ちて、型だけが前へ出てきたように見えた。
実弥の顔が、そこで一度だけ本気で歪んだ。
気絶は悪手だと、その瞬間に悟ったのだろう。
善逸は止まれば終わる。
だが、止め方を間違えると、その次からもっと悪くなる。
意識を切った結果、余計なものの無い霹靂一閃だけを打ち込み続ける。
実弥はそれを嫌った。嫌ったから、それ以降は落とし切らない。落とし切らずに受ける。受けて、削る。削って、どこで折れるかを見る。
しかし、善逸は折れない。
木刀が鳴る。
また鳴る。
また鳴る。
同じ音に聞こえるのに、少しずつ違う。高い。低い。浅い。深い。角度が変わる。
善逸はずっと同じことをしているように見えて、その実、毎回少しだけ変化させていた。
その僅かな変化に、感情の熱が乗っていないのが怖い。無表情で打ち込み続けている。
玄弥は思わず一歩出た。
「兄貴っ……」
その瞬間、実弥の木刀が跳ねた。
善逸に向いていた切っ先が、殆ど反射でこちらへ返る。速いとか遅いとかじゃない。そこに声が入ったから、そこを潰しかけた。玄弥は咄嗟に首を引く。頬の前を、木の先が裂くように過ぎた。
目をやられる、と思った。
実弥は何も言わない。
玄弥も、何も言えなかった。
その間も、善逸は止まらない。
さっきまで実弥が玄弥の目を潰しかけたことにも、今ここで兄弟の間にどんな逡巡が走ったかにも、善逸はまるで関知しない。視線も興味も寄越さない。ただ実弥の肩の入り方、踏み込みの深さ、木刀の落ちる角度だけを拾って、また一閃を打ち込む。
玄弥はそこで、ぞっとした。
兄貴が怖いのは知っている。
反射で人を傷つけかねないことも知っている。
でも普通は、そこで一瞬でも空気が変わる。相手が怯む。止まる。目を向ける。
その動作が入るのが普通だった。少なくとも今まで実弥に挑んできた隊士には。
善逸はしなかった。
しないのが、もう当たり前みたいだった。
実弥の木刀がもう一度横薙ぎされる。
今度は善逸の胴へ入る。鈍い音。普通なら終わる。終わって、咳き込み、膝をつく。
善逸は半歩よろけた。
よろけて、それでも膝を折らずに沈めるに留め、姿勢を戻した。
戻した先で、また鯉口を切る動作を伴って木刀を構えている。
実弥の目が、そこで少しだけ変わる。
認めたわけじゃない。
だが、ただ鬱陶しいだけの相手を見る目ではなくなった。
壊し切れないものを見た目だった。
「……まだ来んのかよ」
善逸は答えない。
答えず、打ち込む。
霹靂一閃。
土が抉れる。
木刀同士のぶつかり合う音が芯から伸びる。
また一閃。
玄弥はこの場に来てから数日、まだ片手で足りるほどしか実弥と打ち合えていない。
打ち合えた瞬間より、その前に潰された回数の方がずっと多い。兄の木刀は、それくらい遠かった。
だから分かってしまった。
今ここで鳴っている音は、自分がまだ入れない場所の音だ。
その場所に、善逸はもう踏み込んでいる。兄貴の側にも、さっきまでみたいな悪態を吐く余裕が消えていた。
今までのような余裕が、兄貴にない。
それほどに異常な成長を、善逸がしている。
この善逸は、もう前の善逸じゃない。
怖がって、騒いで、それでも食らいつく奴ではない。
もっと悪い。
食らいつくのではなく、同じ一閃を違う手法で繰り返すために、自分の方を削り始めている。
兄貴はたぶん、まだ善逸を認めない。
少なくとも、簡単には認めない。
でも認めないことと、気味悪さを見抜くこと、修行になるかを判断することは別だ。
実弥の木刀がまた鳴る。
善逸の一閃が返る。
止まらない。
止まらないまま、音だけが反復する。
「……チッ、次に行けェ」
実弥の苛立ち混じりの声で、善逸はようやく止まった。
いや、止まったというより、停止した。
力の切れ方が、あまりにも滑らかだった。
玄弥はその声を聞きながら、胸の底でひとつだけ分かってしまった。
兄貴に潰されて黙るようなら、まだ人間だった。
黙らないで、意識の落ちた先でも一閃だけを打ち込み続けるから、こんなにも気味が悪い。
意識の落ちた先でも雷は落ち続ける。
そこまで来ると、もう人間の範疇ではなかった。
その夜、桑島慈悟郎は、いつもより長く灯の前に座っていた。
善逸の名を書き出したところで、一度だけ筆が止まる。
老いた指で墨を含ませ直し、今度は止めなかった。
雷の呼吸の教えの内で量るには、あやつはもう遠くへ行き過ぎていた。