【完結】先生とネトゲでマッチしたミサキが、他人として先生と仲良くなるお話。   作:曇りのち晴れ男

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第十話 女々しい

 

 山でのキャンプから数日が過ぎ、私たちはいつもの、太陽の当たらない生活へと戻っていた。

 

 日が沈み、オレンジ色から深い藍色へと変わりつつある空の下。

 

 私は雑踏の中を一人歩きながら、手元のスマートフォンを見つめていた。画面に映っているのは、いつものゲームのプロフィール画面。

 私の『MISA』という名前の横には、しっかりとパートナーの証であるアイコンと、『T』の名前が刻まれている。

 

「……複雑だけど」

 

 ぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟く。

 

「まぁ、嬉しいかな」

 

 現実の自分は、相変わらずあの人の前で素直になれないままだ。

 でも、この小さな画面の中だけでも、私はあの人の「特別」でいられる。それがただの仮想の契約だったとしても、私の心の奥底を温めるには十分すぎるほどだった。

 

 そんな少しだけ浮ついた気持ちのまま、ふと視線を上げた時だった。

 通りがかったおもちゃ屋のショーウィンドウに、見覚えのあるカラフルなパッケージが並んでいるのが目に入った。

 

「(……あれって)」

 

 足を止める。

 それは、前に先生が執務室で「ずっと探してるんだけど、希少でどこにも売ってないんだよね……値段もそこそこするし」と、子供のように残念そうにこぼしていたカードゲームの拡張パックだった。

 

 私は無意識のうちに店に入り、その商品の前に立っていた。

 値段を見る。確かに、今の私のカツカツの生活費からすれば、決して安い買い物ではない。これを買えば、またしばらくは安いモヤシや特売のパンで食い繋ぐ日々に戻ることになるだろう。

 

 数秒だけ、迷った。

 でも、脳裏に浮かんだのは、これを渡した時にあの人が見せるであろう、大げさなくらい喜ぶあの馬鹿みたいな笑顔だった。

 

「……ま、いいか」

 

 小さく息を吐いて、私は自分の薄い財布を開いた。

 数パックだけ買うのも中途半端な気がして、陳列されていた未開封の『箱』をそのままレジへと持っていく。

 

「(……別に、これはあのゲームのパートナー申請の、お礼。それだけ)」

 

 誰に対する言い訳なのか。

 紙袋に入れられた少し重みのある箱を抱え、私はシャーレへと続く坂道を上り始めた。

 足取りは、自分でも驚くほど軽かった。早く、あの人の驚く顔が見たい。ただそれだけで、憂鬱だったはずの夕暮れの街が、少しだけ鮮やかに見えた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 夜のシャーレ。

 すっかり日も落ちて、他の生徒たちが訪ねてくる気配もとうに絶えた執務室の中。私は長時間のデスクワークにひと段落をつけ、ゆっくりと立ち上がった。

 

 部屋の隅にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

 豆を挽く低い機械音と、深く苦い香りが部屋に漂い始めた。温かいマグカップを両手で持ち、執務室の大きなガラス窓の前に立つ。眼下には、宝石を散りばめたようなキヴォトスの夜景がどこまでも広がっていた。

 

「……綺麗だなあ」

 

 誰もいない部屋で、ぽつりと独り言がこぼれる。

 コーヒーを一口飲むと、ふと先日のキャンプの出来事が脳裏をよぎった。

 

「ふふっ……アツコにからかわれた時のミサキ、真っ赤になってたっけ」

 

 思い出すだけで、自然と口角が上がる。

 駐車場で無意識に私の指を握ってしまった時の、あの不器用な表情。最初の頃の、全てを拒絶するような冷たい瞳からは想像もつかないほど、今のミサキは年相応の感情を見せてくれる。

 

「焦らなくていいんだよね。ゆっくりで」

 

 窓ガラスに映る自分に向かって、そう言い聞かせるように呟いた。

 彼女が抱える傷は深いからこそ、無理に踏み込まず、大人の余裕を持って見守り続けたい。

 

 マグカップをデスクに置き、私は部屋の中央でゆっくりと腕を伸ばした。

 

「いたた……肩周りがバキバキだ」

 

 肩甲骨を寄せ、独特な呼吸法を交えながら筋肉の緊張を解いていく。

 

「そういえば、これってミサキに教えてもらったんだっけ」

 

 『先生の身体からいっつも骨の音がするから……』なんて呆れられながらも、直々に仕込まれたアリウス流の実践的なストレッチだ。

 ポキポキッ、と関節が情けない音を立てて鳴る。

 

「ふぅ……よし、こんなもんかな」

 

 息を吐き出し、少しだけ開けていたドアの隙間から入り込む夜風を心地よく感じていると。

 デスクの上に置かれたシッテムの箱から、見慣れた青い光がふわりと浮かび上がった。

 

『先生、今日はあのゲームやらないんですか?』

 

 他の誰にも聞こえない、私とアロナだけの内緒の通信。彼女の声は、どこか心配そうな響きを帯びていた。

 

「うん」

 

 首の筋をゆっくりと伸ばしながら、私は短く答える。

 

『ミサキさんに教えなくて良いんでしょうか……』

 

 アロナの言う通り、私がゲーム内のパートナー『T』であることは、ミサキには秘密にしたままだ。でも、それでいいと思っていた。

 現実の彼女は私に対して不器用で、どうしても素直になれないから。あのゲームの中が彼女にとっての唯一の安全な逃げ場であり、素直に甘えられる場所であるなら、大人の私がそれに付き合って、騙されたフリをしてあげるべきだ。

 

「……ミサキは、Tが私ってことに気付かないままでいいんだよ」

 

 彼女の居場所を守るための、大人の余裕と、優しい嘘。

 そう思って、微かに笑みを浮かべた直後だった。

 

 背後で、重たい紙袋が床に落ちる鈍い音がした。

 

 ゆっくりと振り返る。

 

 少しだけ開いた、執務室のドア。

 

 そこに。

 

 足元に散らばった、見覚えのある未開封のカードパックの箱。

 

 それを跨ぐようにして。

 

 大きく目を見開いたまま。

 

 呼吸すら忘れたように。

 

 凍りつく、ミサキがいた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 手から滑り落ちた紙袋が、床にぶつかる音がした。

 中から転がり出た色鮮やかなカードパックの箱が、私の足元で無惨に散らばっている。

 

 頭の中が、真っ白になっていた。

 

「ミ、ミサキ……?」

 

 振り返った先生の、血の気が引いた顔。

 震えるようなその声が耳に届いた瞬間、私の体は勝手に動いていた。

 

「……っ!!」

 

 弾かれたように背を向け、駆け出す。

 

「待って! ミサキ!!」

 

 背後から伸びてこようとする手も、焦燥に駆られた声も、すべて振り切るように。

 私はシャーレの長い廊下を、ただひたすらに、息がちぎれるほど走った。エレベーターを待つことすらできず、非常階段のドアを乱暴に押し開け、一段飛ばしで転がるように駆け下りていく。

 

 夜の冷たい風が、火照った顔を容赦なく叩きつける。

 肺が痛い。足がもつれる。それでも、あそこから一秒でも早く、1ミリでも遠くへ離れたかった。

 

「はぁっ……はぁっ……っ!」

 

 どれくらい走っただろうか。

 シャーレの建物が完全に見えなくなった見知らぬ路地裏に飛び込み、私は汚れたコンクリートの壁に背中を預けて崩れ落ちた。

 

 なぜ私は、逃げ出してしまったのか。

 

「(……分からない)」

 

 いや。違う。

 理由なんて、本当は分かりきっている。

 

 腹が立っているのだ。あのバカみたいな大人に。

 

 全部、知っていたくせに。

 私が『MISA』だと知っていて、私の情けない愚痴を聞いて、私を甘やかして。昨日の夜だって、あんなプロポーズみたいな申請を送ってきた。

 

 私が画面の向こうの正体不明の『T』に少しだけ浮かれたり、現実のあの人に素直になれなくて一人で悩んだりしているのを、あの人は全部『大人の余裕』ってやつで見透かしていたんだ。

 安全な場所から、私の滑稽な一人芝居を見下して、もてあそんで、楽しんでいたんだ。

 

「……何やってるの、私……ッ!」

 

 震える唇から、自分に対する文句が漏れる。

 

「(……お門違いだ。そんなこと、分かってる!)」

 

 頭の片隅で、ひどく冷めきったもう一人の私が嘲笑う。

 そうだ。正体を隠して騙していたのは、私の方だ。現実で素直になれないからって、匿名の仮面を被って、あの人の無条件の優しさにすがっていたのは、他でもない私自身なのだから。

 

 今更、あの人が同じことを私にしていたからといって、被害者ぶって文句を言える筋合いなんて1ミリもない。

 怒る権利すら、私にはない。完全に自業自得だ。

 

 分かっている。自分がどうしようもなく卑怯で、滑稽で、惨めなことくらい。

 

 それでも。

 

「……っ、うぅ……!」

 

 それでもやっぱり、悔しかったのだ。

 

 必死に隠していた私のちっぽけな恋心も、不器用な歩み寄りも、あの奮発して買ったカードの箱も。

 全部お見通しの上で、ただの『哀れな生徒への同情』として処理されていたことが。

 

 たまらなく、悔しくて、情けなくて、惨めだった。

 

 私は膝を抱え込み、誰にも聞こえない路地裏の暗闇の中で、声を殺して泣き続けた。

 

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