【完結】先生とネトゲでマッチしたミサキが、他人として先生と仲良くなるお話。   作:曇りのち晴れ男

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第十一話 クエン

 

 冷たい雨が降り始めていた。

 夜のキヴォトスの街を、私は肺が千切れるほどの息の荒さで走り続けていた。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 雨に濡れたアスファルトが、街のネオンをチカチカと乱反射させて視界を霞ませる。

 

「すみません! このあたりで、黒髪で……首に包帯をした女の子を見ませんでしたか!?」

 

「えっ? い、いや、見てないですけど……」

 

 私はすれ違う通行人や、見回りをしている他校の生徒たちを捕まえては、手当たり次第に声をかけ続けた。

 

「あ、少し俯き加減で走っていく子ですか? ごめんなさい、ちょっと分からないです」

 

「そうですか……ありがとうございます……!」

 

 何度繰り返したか分からないやり取り。誰も、ミサキを見ていない。

 アリウススクワッドとして、長年日の当たらない地下や廃墟で隠れ住んできた彼女たちの隠密行動のスキルは本物だ。本気で姿を消そうとするミサキを、ただの一般人である私が見つけ出すことなど、暗闇の中から一粒の黒い砂を探すようなものかもしれない。

 

 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。容赦なくスーツを濡らす雨が体温を奪っていくが、足の震えは寒さのせいだけではなかった。

 

 走りながら、何度も何度も、あの執務室での最悪の瞬間が脳裏にフラッシュバックする。

 

 床に散らばった、未開封のカードパック。

 

 あれは、私が「欲しいけど高くて買えない」とこぼしていた希少なものだ。それをミサキが、わざわざ箱で買ってきてくれたのだ。

 どれほどの勇気を出して、おもちゃ屋のレジに並んだのだろう。

 どれほどの想いを込めて、あの不器用な彼女が、私へのプレゼントを抱えてシャーレの階段を登ってきてくれたのだろう。

 

『ミサキは、Tが私ってことに気付かないままでいいんだよ』

 

 自分の口から出たあの言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れない。

 

「(大人の余裕? 優しい嘘? 安全な逃げ場?)」

 

 ふざけるな。全部、ただの私の傲慢だ。

 私は、絶対に自分が傷つかない安全な場所から、彼女の滑稽な一人芝居を見下して、自己満足に浸っていただけだ。現実の私には素直になれない彼女が、架空のアバター相手には甘えてくれる。その「私だけが知っている優越感」に酔っていただけじゃないか。

 

 彼女がどれほど傷つきやすく、脆い心を持っているか。それを誰よりも分かっていたはずなのに。

 

「ごめん、ミサキ……ごめん……っ!」

 

 雨水なのか汗なのか分からない水滴を拭いながら、私はひたすらに懺悔の言葉を口走っていた。

 今すぐに見つけ出して、土下座でもなんでもして謝らなければならない。彼女が完全に心を閉ざし、暗闇の底へと沈んでしまう前に。なんとしても。

 

「はぁ……はぁ……っ」

 

 大通りの交差点で、私はたまらず膝に手をつき、荒い呼吸を整えた。

 自力で探すのには限界がある。こんな時こそ、冷静にならなければ。

 

「そうだ、アロナ……アロナに頼んで、街の監視カメラか、ミサキの端末のGPSを……」

 

 ふらつく足で立ち上がり、上着の内ポケットに手を入れる。

 

「……え?」

 

 指先が触れたのは、雨で濡れた布の感触だけだった。

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 もう一度、ポケットの奥まで手を入れる。反対のポケットも、ズボンのポケットも探る。

 

 ない。

 どこにもない。

 

「嘘、だろ……」

 

 さーっと、全身から血の気が引いていくのが分かった。

 思い出した。ミサキが泣きそうな顔で逃げ出したあの瞬間、私は完全にパニックになり、何も考えずにそのまま執務室を飛び出してしまったのだ。

 シッテムの箱は、今も執務室のデスクの上に置かれたままだ。

 

 つまり今の私は、生徒たちの居場所を追跡する手段もなければ、いざという時に弾丸を防げる障壁すら持っていない、ただの脆弱な人間に過ぎない。

 

 そのどうしようもない無力感に立ち尽くした、次の瞬間だった。

 

 雨音に混じって、どこからか無機質な電子音が聞こえた気がした。

 音源は、すぐ横。

 私がもたれかかろうとしていた、建設途中の無人の雑居ビルの暗がりからだ。

 

「……?」

 

 顔を向けた瞬間。

 視界が、暴力的なまでの純白の閃光に染まり上がった。

 

 遅れてやってきたのは、鼓膜を破らんばかりの凄まじい轟音。

 そして、内臓を押し潰すような圧倒的な衝撃波だった。

 アスファルトが捲れ上がり、鉄骨が飴細工のようにへし折れ、無数のガラス片と瓦礫の雨が、スローモーションのように宙を舞うのが見えた。

 

「あ──」

 

 声を発する暇すらなかった。

 熱波と爆風が、無防備な私の体を軽々と宙へと吹き飛ばす。

 アロナの守りを持たない脆弱な肉体が、硬い瓦礫の壁に叩きつけられる、その直前。

 

(……ミサ、キ……)

 

 最後に頭に浮かんだのは、ひどく傷ついた彼女の泣き顔だった。

 そのまま、私の意識は、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。

 

 ■■■

 

 冷たい雨が、容赦なく衣服を濡らしていく。

 ここがどこなのかすら分からない。あてもなく逃げ込んだ薄暗い路地裏で、私はただ、コンクリートの壁に背中を預けていた。

 

「(謝らないと……)」

 

 すっかり冷え切った体で、ただそれだけを反芻する。私が先生に向けている怒りは、完全に理不尽なお門違いだ。そんなことは、ここまで走ってくる間に何百回だって自問自答して、とっくに答え合わせが終わっている。

 ゲームで騙していたのはお互い様。私だって、あの人をずっと騙していたのに。

 

 でも、動けない。

 なんでだろう。どうして私の体は、これっぽっちも言うことを聞いてくれないのだろう。

 

 憎い。自分がひどく憎い。

 閉所恐怖症や花粉症。自分が元から病弱体質だということは嫌というほど分かっていたけれど。私の心は、体と同じか、それ以上に……こんなにも脆かったのだろうか。

 

「はぁ……はぁ……いた。ミサキ」

 

「……話を聞きつけるのが早いね。……先生から全部聞いたんだ」

 

 いつまでも動けずに俯いていた私の耳に、雨音を裂くように、ひどく乱れた足音が飛び込んできた。

 ぴちゃぴちゃと泥水を跳ね上げる音。顔を上げると、そこにはずぶ濡れになったアツコと、その後ろで怯えるように震えるヒヨリが立っていた。

 

「……この前みたいになっちゃったね。……ごめん」

 

「ミサキ……戻らないと……っ」

 

「あわ……あわわ……っ」

 

 息を呑んだ。あのアツコが、肩で息をして必死に声を振り絞っている。普段の飄々とした態度は見る影もなく、それほどまでに全力で走ってきたことが伝わってきた。

 私はゆっくりと、アツコの言葉を頭の中で繰り返す。

 

 戻る……。今の私に、あの人の元へ戻る資格なんてあるのだろうか。

 

「……無理」

 

「はぁっ……はぁっ……違う」

 

「戻れないって」

 

 アツコはひたすら私を引き戻そうとする。脳裏に過ぎるのは、アズサに嫉妬してしまった日の廃墟での出来事。あの時の私は辛うじて正直になれたけれど、今回ばかりは、どうしても素直になれそうになかった。

 

「私、今日は戻りたくない。たとえ姫の言うことでも……」

 

 目を逸らし、わざと冷たく言い放つ。だが、アツコは荒い息のまま、私の言葉を強引に叩き割った。

 

 その言葉を言ってはいけない。言ってはいけないのに。

 

 喉が震えるのをやめてくれない。

 

「先生には、もう会いたくな──」

 

「先生が、爆発に巻き込まれた!!」

 

「……は?」

 

 アツコの悲鳴のような声が、路地裏に響いた。

 

 ……先生が、爆発に巻き込まれた? 

 何を言っているのか、分からなかった。

 

 背中を押し当てていた室外機のカビが服に付着しようが、泥と雨で全身がべちゃついて気持ち悪かろうが。そんなものは一瞬でどうでもよくなるくらい、視界が真っ白になった。

 ふと、以前アツコにカマをかけられた時の記憶が蘇る。あの時、彼女は「シャーレが爆発した」と嘘をついて、私の隠していた本心を暴き出した。

 

「そ、そんなわけ……っ」

 

 言いかけて、言葉が喉の奥で凍りついた。

 泥だらけになって、雨に打たれながら必死に私を見つめるアツコの、その悲痛な表情。それを「嘘だ」と決めつけることなんて、今の私には絶対にできなかった。

 

「ミサキの辿った位置情報をなぞるように、先生が走ってきて……! その途中で、突然爆発事故が起きて……そのまま……っ!!」

 

「どこ!! 先生がいるのはどこ!?」

 

 気づけば私は、アツコの濡れた肩を力任せに掴んで叫んでいた。

 思考回路が回るたびに、頭の中を埋め尽くすのは最悪のビジョン。先生が、あの鈍臭い大人が、瓦礫の下で血を流して死ぬ光景。

 私がシャーレを飛び出して、あの人に私を追わせたばっかりに。私が理不尽に腹を立てて、あの人を困らせたばっかりに。

 

 そんなの嫌だ。そんなの、ただの喧嘩別れじゃないか。

 

 その最悪の結末が現実になる瞬間を想像しただけで、途方もない罪悪感と恐怖が私の心臓を鷲掴みにした。

 

「来て……っ!」

 

「……っ!!」

 

 考えている暇など、1秒たりともなかった。

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