【完結】先生とネトゲでマッチしたミサキが、他人として先生と仲良くなるお話。   作:曇りのち晴れ男

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第六話 うれしい!たのしい!

 

 ざあざあと、空の底が抜けたような冷たい雨が降っている。

 アリウスの自治区跡。雨漏りのする薄暗い廃墟の片隅で、私は体育座りをして、深く膝に顔を埋めていた。

 

 シャーレを飛び出してから、どれくらい経っただろうか。

 

 爆発の煤は適当に洗い流したけれど、心の中にこびりついた黒くて重い泥のような感情は、いくら雨音を聞いていても洗い流されてはくれなかった。

 

 この感情の正体なんて、とっくに気づいている。けれど、絶対に認めたくなかった。私なんかが、あの光の世界の住人に手を伸ばしていいはずがないのだから。

 

「……ミサキ」

 

 不意に、雨音に混じって静かな声が降ってきた。

 顔を上げると、入り口にアツコが立っていた。傘も差さずに私を追ってきたのか、その長い髪も服も、濡れて少し色を濃くしている。

 

「……放っておいてって言ったでしょ」

 

「どうしたの? ……何か、普通じゃない」

 

 アツコは私の横に静かにしゃがみ込み、私の顔を覗き込んできた。

 その透き通るような紫色の瞳に見透かされているような気がして、私は再び膝に顔を隠す。

 

「……分からない。ただ、ちょっとイライラしただけ」

 

「本当に?」

 

「本当に違うから……っ」

 

 声を荒げたつもりが、情けないほど震えた。

 アツコには大体察しがついているのだろう。彼女は多くを語らないが、私たちの変化には誰よりも敏感だ。だからこそ、これ以上問い詰められたくなかった。

 

 廃墟に、雨の音だけが響く。

 アツコはしばらく沈黙していたが、やがて、抑揚のない声でぽつりと呟いた。

 

「先生が怪我したって」

 

 ──え。

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 頭で考えるよりも先に、体が動いていた。私は弾かれたように立ち上がり、濡れたコンクリートの床を蹴って、シャーレへと続く出口に向かって駆け出す。

 

 怪我? あのトラップの爆発で? それとも別の何かで? 昼間、あの人は右手に火傷を負っていたのに。もしそれ以上の怪我をしていたら。なんで私は、あんな酷い言葉を投げつけて飛び出してきてしまったんだろう。

 

 数歩走って、息を呑んだ。

 振り返ると、アツコは立ち上がりもせず、ただしゃがみ込んだまま、静かに私を見つめていた。その酷く落ち着いた眼差しを見て、私はハッと我に返った。

 

「……」

 

「うん、嘘」

 

 アツコが、微かに口角を上げて言う。

 私は全身から力が抜けるのを感じながら、ゆっくりと元の場所に戻り、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。

 

 完全にカマをかけられた。あんなに必死に隠そうとしていたのに、たった一言で、私にとってあの人がどれだけ大きな存在になってしまっているかを証明させられたのだ。

 

「……悪趣味」

 

「ごめん」

 

「……」

 

 私は壁に寄りかかり、再び膝を抱え込んだ。心臓の嫌な動悸が、まだ治まらない。

 アツコは少しだけ沈黙を置いた後、今度はさらに抑揚のない、まるで天気でも伝えるような平坦な声で呟いた。

 

「……シャーレが爆発したって」

 

 ──え。

 頭で考える余地など、一秒もなかった。

 理性が「そんなわけがない」と判断するよりも早く、私の体は再び弾かれたように立ち上がり、濡れた床を蹴って駆け出していた。

 

 爆発? なんで? 誰かが襲撃した? アズサのトラップがまた暴発した? あの人は無事なの? 

 パニックになりかけた頭のまま、数歩走ったところで──背後から、微かな声が聞こえた。

 

「っっっ――あぁーーっ……!」

 

「……くすっ」

 

 ぴたり、と足が止まる。

 振り返ると、アツコが口元を両手で覆い、肩を震わせて笑っていた。普段は滅多に感情を表に出さない彼女が、堪えきれないというように、声を漏らして笑っている。

 

「……っ」

 

 そこでようやく、私はまたしても自分がカマをかけられたのだと気づいた。

 

 シャーレが爆発するわけがない。ましてや、ここにいるアツコがそれをリアルタイムで知る手段なんてない。少し考えれば分かることなのに、私はまた、あの人の安否を気遣って、無様に飛び出してしまった。

 

「……うん、嘘」

 

 笑いを含んだ声で、アツコが言う。

 

 私は顔から一気に火が出るのを感じながら、ゆっくりと元の場所に戻り、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。

 

 完全に、完膚なきまでに白日の下に晒された。何をどう否定したところで、私の体と心が、あの人の安否にこれほどまでに過剰に反応してしまうという事実だけが、冷たいコンクリートの上に転がっている。

 

 アツコは笑いを収めると立ち上がり、私のそばに歩み寄ってきた。そして、その冷えた手で静かに私の肩に触れる。

 

「もう、誤魔化せないね」

 

 その優しい重みに触れた瞬間、ずっと張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

 

「……うん。そうだよ……」

 

 自分でも驚くほど、弱々しい声がこぼれた。

 膝に額を押し当てたまま、私は、ずっと見ないふりをしてきたその『名前』を、ついに口にする。

 

「私、先生のことが『好き』だったみたい……」

 

 認めてしまえば、ひどく単純で、そして絶望的なことだった。

 光の届かない日陰にいる私が、誰にでも優しいあの人のことを、好きになってしまった。叶うはずもないし、釣り合うはずもないのに。

 

 雨音が、私の情けない自白を隠すように降り続いている。

 アツコは私の肩を優しく撫でると、私の目の前にすっと手を差し出した。

 

「……ミサキ。シャーレに戻ろう」

 

 その声は、迷いの中にいる私を引っ張り上げるような、不思議な力強さを持っていた。

 私はゆっくりと顔を上げ、差し出されたその小さな、けれど温かい手を見つめる。

 逃げ帰ってきた私を、迎えに来てくれた手。

 

「気持ちを打ち明けられなくてもいいんだよ。まずは気持ちに気付けたんだから」

 

 私は小さく息を吐き、少しだけ震える自分の右手を伸ばして、アツコの手をしっかりと握り返した。

 

 ■■■

 

 アツコに手を引かれ、冷たい雨の中を歩き続けた。

 シャーレにたどり着いた頃には、二人とも髪から靴の先まで、文字通りぐっしょりと濡れ鼠になっていた。

 

 おずおずと執務室のドアを開ける。

 中では、先ほどの爆発の後片付けを終えたらしい先生が、一人でデスクに向かっていた。

 

「……あ」

 

「えっ!? ミサキ!? それにアツコも……って、どうしたのその格好! びしょ濡れじゃないか!」

 

 私たちの姿を見た瞬間、先生は血相を変えて立ち上がり、慌てて奥の棚からバスタオルを引っ張り出してきた。

 

「ほら、風邪引くよ! 早く拭いて。あ、いや、拭くより先にシャワー浴びた方がいいな。お湯はすぐ出るから、二人とも更衣室のシャワー使っておいで。着替えも適当に見繕っておくから」

 

 数時間前に私が酷い言葉を投げつけて飛び出したことなんて、すっかり忘れてしまったかのように。

 先生は何の躊躇いもなく、私の頭からふわりと温かいタオルを被せ、過保護なほどに世話を焼き始めた。

 

 その真っ直ぐな優しさが、胸の奥をぎゅっと締め付ける。

 

 私みたいな日陰の生徒にも、誰に対しても等しく向けられる、ただのお人好しな善意。

 

 以前の私なら、それが無性に腹立たしくて、また意地を張って突っぱねていただろう。けれど、自分の気持ちを──この人のことが『好き』なのだと認めてしまった今の私には、その温もりがひどく心地よくて、同時に泣きたくなるほど痛かった。

 

「……ん。ありがとう、先生」

 

「ごめんねアツコ、狭いけど順番に使って。ミサキも、早く行っておいで。ほら」

 

 アツコが先にシャワー室へと向かい、先生は私の背中を軽く押そうとした。

 

「……」

 

 私は足を止め、くるりと振り返って先生の正面に向き直った。

 タオルの下から、少しだけ上目遣いで、その顔をじっと見つめる。

 

「ミ、ミサキ?」

 

 私の不自然な沈黙に、先生が不思議そうに瞬きをした。

 

 謝りたかった。「うるさい」なんて言ってごめんなさい、と。そして、心配してくれてありがとう、と。

 

 でも、そんな素直な言葉は、私の喉の奥でつっかえてどうしても出てきてくれなかった。自分の好意を自覚したからといって、急に可愛い生徒になれるわけじゃない。

 

 だから私は、言葉の代わりに。

 

 右手で軽く握った拳を、先生の胸元に、不器用に押し当てた。

 

「えっ」

 

 殴るわけでも、突き飛ばすわけでもない。ただ、コツンと胸に触れるだけの、小さな接触。

 私は無言のまま、しばらくその拳を先生の胸に当て続けた。タオルの隙間から、困惑したような、けれど決して私を拒絶しない優しい鼓動が伝わってくる。

 

「(……バカな大人)」

 

 これが、今の私にできる精一杯の歩み寄りだった。

 ごめんなさいの代わり。そして、もう突き放したりしないという、私なりの不器用な印。

 

「(いや……私か)」

 

 数秒後。私は拳を離すと、やっぱり何も言わないまま、くるりと背を向けてシャワー室へと歩き出した。

 

「え? え? ミサキ? ちょっ、え? 何? 今の何!?」

 

 背後から、完全に置いてけぼりにされた先生の、間抜けで戸惑ったような声が聞こえる。

 

 その情けない声を聞きながら、私はタオルの下で、今日初めて、小さく声を出して笑った。

 

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