侯爵家の庭園で初めて彼を見たとき、私――リュシアは、十歳にして「人生って、思ったより面倒だな」と悟った。
白い卓布。銀の食器。花の香り。
大人たちの笑顔は均一に整っていて、まるで仮面舞踏会の仮面だけが先に座っているみたいだった。
そして、肝心の“婚約者”。
向かいの席に座った少年は、同い年のはずなのに、背筋が妙にまっすぐで、視線が机上の一点に落ちていた。お茶の湯気の向こうで、淡い金色の髪が光る。
「カイル・エルディンです」
名乗りは丁寧。声は落ち着いている。――それだけなら普通の貴族の子供だ。
けれど次の言葉で、私はフォークを落としそうになった。
「先に言っておきます。僕は勉学にしか興味がありません。夫婦らしいことは、きっと何もしてあげられない」
大人たちが「まあ」「おや」とざわめいた。
少年は、まるで天気の話でもするように、続ける。
「だから、あなたは自由にしてくれて構いません。僕は僕の研究のために生きます」
自由。
それはきれいな言葉のはずなのに、私の胸の奥で、妙に硬い何かがギシ、と音を立てた。
――何それ。
――最初から私を“いないもの”扱い?
私は負けず嫌いだ。父も母も知っている。だからこそ、言葉を選びたいのに、舌が先に出る。
「……よく言いますわね」
カイルが顔を上げる。瞳は澄んでいて、悪意のかけらもない。
「事実ですから」
それが、さらに腹立たしい。
「じゃあ、決めました。あなたに“事実”が間違いだって教えて差し上げます」
「どうやって?」
「学校の成績で、です。あなたに勝ちます。ギャフンと言わせます」
大人たちが固まった。
父が咳払いをして、笑顔のまま目で「落ち着け」と言う。私は笑顔で返した。落ち着く気はない。
カイルだけが、少しだけ首を傾げた。
「それは、面白いですね」
――面白い?
馬鹿にしてる?
心の中で火がついた。
学院に入って最初の定期試験で、現実を知った。
一位、カイル・エルディン。
二位、私。
三位、アルト・ノイス。
「惜しかったな、リュシア!」
三位のアルトが、廊下で私に肩をぶつける勢いで絡んでくる。
赤茶色の髪に、いつも自信満々の笑顔。けれど彼の目は、私を見下すというより“同じ山を登ってる仲間”みたいな光をしていた。
「惜しかった、じゃありませんわ。負けたのよ」
「いや、ほら。相手がカイルだぞ? あいつ、頭の作りが違う」
私もそう思う。
カイルは、授業中に先生が黒板に書いた式を見た瞬間、別の証明方法を思いついた顔をする。歴史の授業では、教科書の記述をきっかけに「この政策の裏付けとなる財政資料が不足しています」とか言い出す。十歳のくせに。
悔しい。悔しすぎる。
その日の夕食で、私は父に宣言した。
「家庭教師をつけてください」
父は一瞬、箸を止めた。
「……成績を上げたいのか?」
「ええ。正確には、婚約者をギャフンと言わせたいのです」
父は、頭を抱えた。
「婚約者を……?」
「ええ。あの方、私を自由にしていいと言ったのです。つまり、“どうせ私なんて勝手にしていればいい”って」
父は苦笑しながらも、私の目を見て、ゆっくり頷いた。
「リュシア。お前は本当に……まっすぐだな。いいだろう。だが、無理はするな」
「無理なんてしません。勝つだけです」
母が小さく笑った。
「勝ち負けより、あなたが勉強を好きになるなら、それは良いことよ」
――私は勝ちたいだけです。
そう思っていたのに、家庭教師の先生が出す難問が、悔しいほど面白くて、つい夜更かししてしまう日が増えた。
そして半年後、私は悟った。
全教科で勝つのは無理だ。積み重ねが違いすぎる。
カイルは、私が追いかけている間にも、別の山を登っている。
だから私は、絞った。
数学と自然哲学。
論理で殴れる分野。
そこなら、勝てる気がした。
次の試験の日。
答案が返ってきた瞬間、私は息を飲んだ。
数学――一位、リュシア。二位、カイル。
自然哲学――一位、リュシア。二位、カイル。
総合順位は、カイルが一位のまま。けれど、私は“勝った”。
胸の奥で、熱いものが弾けた。
休み時間、私はわざと彼の机の前に立った。
「見ました? 数学と自然哲学、私が一位ですわ」
ギャフンと言え。悔しがれ。
そうしたら、私は胸を張って帰れる。
カイルは答案を見て、ゆっくり瞬きをした。
そして――
「すごい」
たったそれだけ。
けれど、その声は驚くほど真剣だった。
「……は?」
「君は、僕が落とした部分を全部埋めたんですね。特にこの問題。発想がとてもきれいだ」
彼が指で示したのは、私が一番時間をかけた証明問題だった。
私は思わず、赤くなる。
「き、きれいって……」
「尊敬します」
カイルの瞳は、本当に澄んでいた。
私をからかう気配が欠片もない。自分の負けを悔しがるのではなく、ただ純粋に――目の前の“すごいもの”を見た子供の目。
胸が、変な音を立てた。
ドキ。
ドキドキ。
――な、何よそれ。ずるい。
私はつい、そっぽを向いた。
「……当たり前ですわ。努力しましたもの」
「努力ができるのが、才能です」
カイルはそう言って、少し身を乗り出す。
「ねえ。どうやって考えたの? もっと教えて」
それが、すべての始まりだった。
それから私たちは、放課後に図書室で顔を合わせるようになった。
カイルは、私が新しい解法や知識を披露すると、目を輝かせた。
「それ、面白い。もっと」
「もっと、じゃありません。あなたも自分で考えなさい」
「考えるために、材料が欲しい」
「……材料くらいなら、出してあげます」
言い方がつい刺々しくなるのは、私の癖だ。
なのにカイルは、いつも素直に受け取ってしまう。
「ありがとう。助かる」
そのたびに、私は言葉の棘を引っ込めるタイミングを失って、妙に落ち着かなくなる。
アルトは、そんな私たちを見て、最初は露骨に嫌そうな顔をした。
「おいおい、二人で勉強会? ずるくないか?」
「ずるいも何も、あなたも来ればいいでしょう」
「……いいのか?」
アルトは意外とあっさり混ざってきた。
そして、意外とすぐに馴染んだ。
彼は三位だけあって地頭がいい。しかも、褒められると弱い。
ある日、アルトが難問を解けたとき、カイルが素直に言った。
「すごいね、アルト。君の発想は僕にない」
アルトは、瞬間、目を丸くして――すぐに屈託のない笑顔を浮かべた。
「だろ? もっと褒めろ!」
「調子に乗らないでください」
私が冷たく言うと、アルトは舌を出す。
「リュシアは厳しいなあ」
でも、その顔は嬉しそうだった。
“敵役”みたいに張り合ってくるのに、根っこがいい子なのが分かりやすい。
私は、そういうところが嫌いじゃなかった。
冬のある日。
私は風邪をひいてしまい、試験の点が少し落ちた。
「……リュシア、大丈夫か?」
廊下で会ったアルトが、いつもより真剣な顔で言った。
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけ」
「嘘だ。お前、声が変だ」
そう言って、アルトは自分のマフラーを乱暴に私の首に巻いた。
「……あったかいだろ。ちゃんと治せ。次の試験、万全で来いよ。勝ち逃げとか許さないからな」
私は一瞬、言葉を失って、そして小さく笑った。
「……優しいんですね」
アルトは、耳まで赤くして叫んだ。
「ばっ、ばか! ちがう! お前が倒れたら俺が張り合う相手がいなくなるだろ! それだけだ!」
捨て台詞を吐いて、逃げるように走っていった。
――分かりやすい。
その夜、カイルが家に手紙を送ってきた。
『リュシアへ。熱は下がりましたか。次に会うとき、君が教えてくれた証明の続きを見せたい。無理はしないで。君がいないと、材料が足りないから』
最後の一文が、くすぐったかった。
私は、いつの間にか思っていた。
子供の頃――婚約の顔合わせの日。
大人たちの会話の隙間で、カイルは父と、研究の話をしていた。まだ小さな体で、言葉を選びながら、対等に議論していた。
あの姿が、私は……格好いいと思ったのだ。
だから、みんなが好きになるような、スポーツができる華やかな人を見ても、心が動かなくなった。
賢い人が好き。知識を武器に、世界を切り開く人が好き。
――そういう人が、目の前にいる。
そしてその人は、私が少しでも前に進むと、心から嬉しそうに笑う。
そんなの、ずるい。
数年後、私たちは学院で“成績ワンツー”として有名になった。
「学者夫婦の雛形だな」と噂され、私はそのたびに「まだ夫婦じゃありません!」と否定した。
カイルは「そうなんですか?」と首を傾げる。否定した私が恥ずかしくなる。
結局、卒業して正式に結婚したあとも、私たちは変わらなかった。
書斎に二つの机。
朝は紅茶とパン。
昼は研究。
夜は――
「リュシア、今日の君の考察、聞かせて」
「……仕方ないですね。ちゃんとメモを取りなさい」
「うん。君の言葉は全部、残したい」
そう言って、彼は真剣な顔でペンを走らせる。
私はまた、胸の奥が落ち着かなくなる。
ツンとした言い方をしてしまっても、彼は素直に受け取って、お礼を言ってくる。
私はそのたびに「……もう」と小さく呟きながら、でも、笑ってしまう。
契約結婚みたいに始まった関係は、いつの間にか“毎日を一緒に考える”関係になっていた。
自由にしていい、と言った彼は、私を放っておいたわけじゃない。
ただ、どう接すればいいか分からなかっただけなのだろう。
私が勝ちに行って、彼が受け取ってくれて、私が素直になっていって――
そうして、私たちは生涯、仲睦まじい学者夫婦として連れ添った。
最初の庭園の日。
あの「自由にしていい」が、こんな未来に繋がるなんて。
……人生って、思ったより面倒で、
思ったより、悪くない。