・本当の家族
B小町の楽屋。誰もいなくなった静寂の中で、春は一人、ルビーを待っていた。
アイの衣装を脱ぎ捨て、メイクも落としたその姿は、あまりにも小さく、どこか心許ない。
「…ルビーお姉ちゃん」
入ってきたルビーに、春は椅子から立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
これまでの「妹のフリ」でも、人を操るための「演技」でもない。
背筋を凍らせるほどの静謐な、剥き出しの謝罪。
「ごめんなさい。…私、ずっとお姉ちゃんを馬鹿にしてた。アイさんの娘であるお姉ちゃんから、お兄さんも、アイさんの居場所も、全部奪ってやりたかった」
ルビーは無言で立ち尽くす。
その瞳には、かつて春が「分け合おう」と言った時の狂気はなく、ただ困惑と痛みが混ざり合っていた。
「私は、お姉ちゃんから見れば、お母さんを殺した男の娘でしかない。…お兄さんを愛する資格なんて、本当はどこにもないんだ」
春がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、あかねに暴かれ、自ら手に入れた「本物の星」が静かに、けれど悲しく瞬いていた。
「…ケジメをつけるよ。もし、お姉ちゃんの目に私がまだ『目障り』だって映るなら、私、今すぐここから消える。お兄さんの前から、…この世界からも、死んで消えるから」
春の言葉に、嘘はなかった。
客観的に自分の価値を測り続けてきた彼女が、初めて「自分の存在そのもの」を他人の手に委ねた瞬間。
彼女の手には、かつて舞台で見せた「死の演技」を現実にするための、鋭利な覚悟が握られていた。
ルビーは、春の震える肩を見つめた。
そこにあるのは、憎い仇の娘の姿ではない。
自分と同じようにアイという光に焼かれ、狂い、そしてようやく「一人の女の子」として立ち上がろうとしている、不器用な少女の姿だった。
「…バカ言わないでよ」
ルビーが歩み寄り、春の頬を両手で包み込んだ。
アイと同じ、温かくて強い掌。
「春ちゃんが死んだら、お兄ちゃんが一生、また自分のことを責める。…私に、またあんな顔のお兄ちゃんを見ろっていうの? それこそ、最大級の嫌がらせだよ」
ルビーの瞳にある光が、春の瞳の星と共鳴する。
「お父さんの罪は、春ちゃんの罪じゃない。…春ちゃんが私の『妹』でいたいなら、死ぬ気で生きなさい。…お兄ちゃんを、私と一緒に、一生かけて幸せにするの。それが、あんたのケジメでしょ?」
「…っ、お姉ちゃん…!」
春はルビーの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
良介…の血も、ニノの怨念も、アイの亡霊も。
すべてがその涙と共に、過去へと流れていく。
「…うん。…私、生きるよ。お兄さんの隣で、お姉ちゃんの隣で…本物の星になって、ずっと一緒にいる」
春の瞳に宿る星は、もはや絶望の光ではない。
赦しを得て、愛を知った一人の少女が、自らの足で歩み出すための「希望の灯火」となった。
楽屋の窓の外には、一番星が輝いている。
それは、かつてアイが見上げた星であり、今、この新しい「家族」を祝福するように、優しく二人を照らしていた。
・近くて遠いお姉ちゃん
嵐のような日々が過ぎ去り、B小町が名実ともに世界の頂点に立ったある夜。
苺プロのバルコニーで、春は一人、夜風に吹かれていた。
隣に並んだのは、グループの精神的支柱であり、誰よりも早く春の「異質さ」に気づきながらも、ずっと隣にいてくれたMEMちょだった。
「…MEMちょ。ううん、MEMお姉ちゃん」
春がぽつりと呟く。
MEMちょは、いつものように明るく「なーに? 改まって」と返したが、その瞳には春を心配する温かな色が宿っていた。
「私ね…最初、MEMお姉ちゃんのこと、利用しようと思ってたんだ。B小町に馴染むための道具、お兄さんに近づくための踏み台。…客観的に見て、一番御しやすそうだったから」
春の言葉は冷酷なまでに正直だった。
良介…の血とニノの教育。
春にとって人間関係は「計算」と「嘘」で構築するものだった。
「…あはは、知ってたよ。春ちゃん、たまに目がすっごい冷たかったもん」
MEMちょは苦笑いしながら、夜空を見上げた。
「でもさ、それだけじゃないんでしょ?」
「…うん。…最初から、お姉ちゃんみたいに思ってたのは、嘘じゃないよ」
春の声が、少しだけ震えた。
ルビーへの謝罪、アクアへの執着、あかねへの対峙。
それら激しい感情の渦の中で、唯一、MEMちょだけが春にとっての「避難所」だった。
「アイさんの影を追わなくていい、計算しなくていい。…MEMお姉ちゃんとバカな話をして、動画を撮ってる時だけ、私、自分が『新野春』だってことを忘れられたの」
春は、MEMちょの袖をギュッと掴んだ。
それは、かつてニノに見せていた「媚び」ではなく、一人の寂しがり屋な少女としての、本当の甘えだった。
「利用しようとしたのは本当。…でも、大好きになったのも、本当だよ。…これ、私の数少ない『本物の真実』のひとつ」
MEMちょは、何も言わずに春の頭を優しく撫でた。
「…合格。春ちゃんはさ、嘘をつくのが上手すぎて、自分の本音まで嘘だと思い込んじゃうんだよね」
MEMちょは、自撮りライトのような明るい笑顔で続けた。
「いいよ。利用しなよ。これからも、ずっとお姉ちゃんとして隣にいてあげるから。その代わり、たまには本物の笑顔、私だけに撮らせてね?」
春は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから「…うん」と小さく頷いた。
瞳に宿る星が、月光を反射して柔らかく揺れる。
アイの再来でも、殺人者の娘でもない。
ただ、信頼できるお姉ちゃんの前で、少しだけ肩の力を抜いた一人の少女。
「…ありがとう、MEMお姉ちゃん」
夜の静寂の中、二人の笑い声が静かに溶けていった。
春が手に入れた「家族」は、血の繋がりを超えて、彼女の魂を本当の意味で救い上げていた。
夜風が止み、静寂が二人を包む。
MEMちょの隣で、春は自分の指先を見つめながら、心の最深部にある「核」をさらけ出した。
「…MEMお姉ちゃん。私ね、結局のところ…最初から、『家族』が欲しかっただけなんだと思う」
客観的に自分を分析し、計算し、誰かを操ってきた春。
でも、そのすべての行動原理の根底にあったのは、良介…の血でも、ニノの怨念でもなく、ただの「子供」としての飢えだった。
「お母さんは私を『アイさんの鏡』としてしか見てくれなかった。お父さんは、私に会う前に死んじゃった。…だから、私を『新野春』として繋ぎ止めてくれる居場所が、どうしても欲しかったんだ」
春は自嘲気味に、ふっと笑った。その笑い方は、かつてアイがインタビューで「愛」を語った時の、あの危うい美しさに重なる。
「だから…お兄さんと付き合うって決めた時も、躊躇(ためら)わなかった。…アイさんと同じ。愛してるなんて、どうせ本当か嘘か分からない。…だったら、一番手っ取り早く『家族』になれる方法を選んだだけ」
春は、アクアと肉体関係を持った時のことを思い返す。
それは情熱的な恋ゆえの衝動ではない。
肌を重ねることで、お互いの逃げ場を無くし、「離れられない契約」を強引に結ぶための儀式。
言葉の「愛してる」が信じられないから、物理的な繋がりで自分を繋ぎ止めようとした、あまりに幼く、切実な戦略。
「…アイさんも、きっとそうだったんだと思う。愛が分からないから、子供を作って、無理やり自分を『お母さん』っていう役割に閉じ込めた。…私もね、お兄さんの中に無理やり自分の居場所を作って、逃げられないようにしたかっただけなんだ」
MEMちょは、春の言葉の重さに息を呑んだ。
春がアクアに執着し、早々に深い関係を持ったのは、単なる欲情ではなく、「誰かにとっての代替不可能な存在」になりたいという、生存本能に近い渇望だったのだ。
「…でも、今は…」
春がMEMちょを見上げた。
瞳に宿る星は、もはや契約を迫るための鋭い光ではない。
「…今はね。お兄さんといる時、体が繋がってるから安心するんじゃなくて、ただ隣に座ってるだけで…家族なんだなって、思えるようになったよ。…MEMお姉ちゃんが隣にいてくれるのも、ルビーお姉ちゃんが叱ってくれるのも…」
春は、自分の胸に手を当てた。
「私、やっと…『新野春』として、この家族の中に居場所を見つけられた気がする。…嘘から始まったけど、これが私の欲しかった、本当の宝物だったんだね」
MEMちょは、震える春の肩を抱き寄せた。
「…春ちゃん。あんた、本当に不器用すぎるよ。…でも、もう大丈夫。あんたがどんなに嘘をついても、どんなに怖がりでも、私たちはもう、あんたを家族として離さないから」
春はその温もりに目を閉じ、初めて「計算」を捨てて、深く息を吐いた。
アイと同じ孤独を知り、アイと同じ過ちをなぞりかけた少女。
けれど彼女は、自分を「家族」として受け入れてくれる人々との出会いによって、その呪いを解き放つことができた。
「…おやすみ、MEMお姉ちゃん」
「おやすみ、春ちゃん」
星空の下、春はようやく、自分が本当に欲しかった「愛」という名の安らぎの中で、穏やかな眠りにつくことができた。
その瞳に宿る星は、明日もまた、家族という名の優しい光に照らされて、輝き続ける。
・再会そして精算
数年後。
刑期を終え、出所したニノを待っていたのは、かつて彼女が「愛の結晶」だと信じ込み、その実、自らの狂気の道具として扱ってきた娘、春だった。
刑務所の重い門の前に立つニノは、歳月以上に老け込み、かつての鋭い執念は影を潜めていた。
そこに、一台の車から降り立った一人の女性が近づく。
「…お母さん」
その声に、ニノは震えながら顔を上げた。
そこにいたのは、かつての幼い「アイのコピー」ではない。
落ち着いた、けれど圧倒的な存在感を放つ、一人の自立した大人の女性――新野春だった。
ニノは春の瞳を覗き込み、言葉を失った。
そこには、自分がかつて必死に植え付けた「アイの模倣」も、自分への媚びも、復讐の光さえない。
ただ、澄み渡るような、けれど誰にも侵せない強固な「本物の星」が宿っていた。
「…春。あなたは、今…アイなの? それとも…」
ニノの掠れた問いに、春は穏やかに首を振った。
「私は春だよ。アイさんでも、お母さんの操り人形でもない。…私を愛してくれた人たちの隣で生きている、ただの新野春」
春はバッグから一通の封筒を取り出し、ニノに手渡した。
中には、ささやかな生活基盤となる資金と、遠く離れた静かな場所にある住居の鍵が入っていた。
「これは、私からの最後のケジメ。…お母さんは、もう誰かの影を追わなくていい。私のことも、アイさんのことも忘れて、一人の『ニノ』として生きて」
ニノは鍵を握りしめ、ボロボロと涙を流した。
「…ごめんなさい。私、あなたに…あんなに酷いことを…」
「いいよ、お母さん。…憎しみは、もう置いてきたから。私は今、お兄さん…アクアくんや、ルビーお姉ちゃんと一緒に、本当の幸せの中にいるの」
春の言葉には、一片の嘘もなかった。
彼女はアクアと共に歩み、ルビーと共に歌い、あかねや、かなと共に切磋琢磨する日々の中で、自らの呪いを祝福へと変えていた。
「さようなら、お母さん。…次に会うときは、お互い、誰かの嘘じゃない顔で会えるといいね」
春は一度も振り返らず、迎えに来たアクアの待つ車へと戻っていった。
助手席に乗る春を、アクアが優しく迎え、その手を取る。
車が走り去るのを、ニノはいつまでも立ち尽くして見送っていた。
彼女の記憶の中にあった「アイ」という呪縛は、娘が放った本物の光によって、ようやく消え去っていった。
春は車窓から流れる景色を眺めながら、自分の瞳に映るアクアの横顔を見つめる。
(…お母さん。私、今ね、幸せだよ。…嘘じゃない、本物の愛を知ったから)
春の瞳に宿る星は、未来を指し示す羅針盤のように、どこまでも明るく輝き続けている。
かつて「嘘はとびきりの愛」だと説いた少女は、今、その嘘の先にある「真実の幸福」を、愛する人たちと共に刻み続けていく。
・推しの子
ドーム公演から数年。新野春は今、かつての「アイの再来」という呪縛を脱ぎ捨て、一人の表現者として頂点に君臨していた。
その出待ちの列の最後尾に、一人の初老の男性が立っていた。
かつて伝説のアイドル「B小町」を追いかけ、中でも「ニノ」という控えめな少女を誰よりも熱狂的に推していた古参ファン。
彼は、春がステージを降り、アクアの差し出すジャケットを羽織る姿を遠くから見つめ、静かに独白を始めた。
「…なあ、知ってるか。俺は昔、あの子の母親…ニノのファンだったんだ」
隣に並ぶ若い春ファンに、彼は語りかける。
若者は驚いた顔をしたが、男の目は慈しむように春を追っていた。
「ニノは、アイの影に隠れて、いつも必死に『特別』になろうとしていた。あの子の絶望も、嫉妬も、俺たちは全部知っていたつもりだった。…でも、結局俺たちは、彼女を救えなかったんだ」
男は、出所したニノが、春の用意した静かな田舎町で、誰の影も追わずに土を弄って暮らしているという噂を耳にしていた。
「ニノは、アイになりたかった。なれなくて、狂った。…でも、見てみろよ。あのステージに立っている春ちゃんを」
男の視線の先で、春がファンの声援に手を振る。
その瞳に宿る星は、もはやアイのコピーではない。
愛に飢え、家族を求め、泥濘を這いずり回って、自分の足で掴み取った「新野春」だけの輝き。
「皮肉なもんだよな。…良介…がアイを殺し、ニノがそれを唆した。最悪の罪から生まれたのが、あの光だ」
男は、春の傍らで彼女を支えるアクアと、共に笑い合うルビーの姿に目を細める。
「アイの子供たちと、アイを殺した者の子供。…あいつらは、血の呪いを全部自分たちで飲み込んで、新しい『家族』になったんだ。…アイが欲しがっても手に入らなかった、本当の愛の形を、あの子たちが完成させたんだよ」
男は、手に持ったペンライトをそっとポケットに仕舞った。
「かつて俺たちが推していたアイも、ニノも、もういない。…でも、あの子は…。アイの魂を継ぎ、ニノの罪を背負い、それでも『新野春』として笑っている」
男は、春を指して、感慨深く呟いた。
「あの子は俺の『推しの子』なんだ」
その日の夕暮れ時。
人里離れた静かな一軒家。
庭に咲くひまわりを見つめていたニノの前に、一台の車が止まった。
降りてきたのは、多忙なスケジュールの合間を縫って訪れた、春、アクア、そしてルビーの三人だった。
「…お母さん。ただいま」
春が、花束を持って微笑む。
ニノは、かつて自分が憎み、羨み、そして壊そうとした「アイ」の面影を持つ三人が、手を取り合って自分の元へ帰ってきた姿を見て、初めて深く、静かに頭を下げた。
「…おかえり、春。…おかえりなさい、みんな」
そこにはもう、狂ったファンも、嫉妬に狂ったアイドルもいなかった。
ただ、過ちを許し、共に生きていくことを決めた、新しい「家族」の姿があるだけだった。
夜空には、数えきれないほどの星が輝いている。
そのどれもが、誰かの「嘘」であり、誰かの「真実」だ。
春は、アクアの繋いだ手の温もりを確かめながら、夜空を見上げて微笑んだ。
彼女が手に入れたのは、ドームの喝采でも、アイの名声でもない。
「春、帰ろう」と呼んでくれる、かけがえのない家族の声。
新野春。
彼女は、史上最悪の絶望から生まれた、史上最高に愛された「推しの子」として、これからも自分だけの星を輝かせていく。
あとがき
これで本当におしまいになります長らくお付き合いいただきありがとうございました。