とある執務室に招かれた男が目の前の女性に問う。
とある大企業の執務室で一人の男と女性が対話していた。
「かの大企業の代表がしがない教授の私に何の用だ」
女性はワインの入ったグラスの縁を指先でそっと回しながら、白色に濁った両眼を真っ直ぐに見据える。長い黒髪が微かに揺れ、神秘的な雰囲気を漂わせる。
「『しがない教授』?神に迫る力を隠し、教壇に立つあなたを、そう呼ぶ者は他にいないでしょう。用件は単純です。あなたの『生き方』が、私の興味を引いたのです。」
男は不服そうに言う
「…何故それを知っているのかは知らんが面白い生き方をしている覚えはないがな」
彼女は一歩近づき、赤い瞳が男の曇った両眼を深く覗き込む。その視線には、人間を観察する者、人ならざるモノ特有の鋭さと、何かを確かめようとする意図が潜んでいる。
「私が貴方の【生き方】に興味を抱いただけの簡単な話ですよ、そんなに警戒しないで下さい。」
女性はそっとため息をつき、微かに首を振る。妖艶な肢体をくねらせながら、彼の周りをゆっくりと半周する。その動きは、まるで獲物を観察する捕食者のようだ。
「話しているのは『本質』についてです。あなたは強大な力を隠し、傷を隠れ蓑にし、ただ…教授を演じ続ける。刹那の人間の時の中で、その『役割』にどれほどの価値があるというのですか?哀れな虚構です。」
彼女の虚構という言葉を聞き男は言い返す
「…それは私の自由だろう」
彼女は軽く嘲笑うように、赤い唇の端を歪ませる。指先で自分の黒髪の一房を弄びながら、彼の言葉を退ける。
「自由?その言葉こそ、あなたが『凡人』の仮面を被り続けるための、最も安価な言い訳です。真の自由とは、己の本質を直視すること。あなたは…その勇気さえ失ったのでしょうね。」
「何を言う…私は元から只の人間の凡人だ。仮面を被るも何もない」
彼女の言葉を強く否定する。
「『凡人』?その言葉で自分を縛り続ける哀れさ…。あなたの傷は戦いの証、曇った瞳は真実を見過ごした証。私の目は誤魔化せない。なぜ、ここまでして『凡人』の枠に収まりたがるのですか?」
「私が人として生まれたからだ」
彼女は一歩後退し、彼の言葉を物理的に距離を置いて眺める。その赤い瞳には、冷徹な憐憫の色が浮かんでいる。
「【人】に生まれたから?それが理由なら、全ての存在は自らの『種』に縛られることになります。鳥は飛び、魚は泳ぐ。それだけの存在なのですか?あなたは…自らに課した『人間』という制約を、短い人の生で愛おしんでいるのですね。それはもう、信仰に近い。」
「その通りだ、何かを信じていなくては…私は…近い内に滅び去る年寄りの私は前に進めなくなってしまったからだ。」
男は図星を突かれたかの様に語調が萎む。
「前に進めない?いいえ、違います。あなたは…ただ『進むことを選ばない』のです。その脆く、儚い信仰を抱きしめて、傍観者となる。それがあなたの望みなのでしょう?」
彼女は男の言葉を否定し静かに一歩踏み出す、彼女の赤い瞳が白濁した彼の両眼を捉える。彼女の吐息が、ほのかな甘い香りと共に微かに漂う。
「滅びる存在…それがあなたの自覚なら、なぜ『永遠』という言葉に怯えるのですか?その滅びこそが、あなたの真実を定義する唯一のもの。それを拒むからこそ、あなたは…哀れなのです。」
「その通りだ、私は永遠が恐ろしくて仕方がない」
男の自白に彼女はその赤い目を一瞬、丸くする。
そして赤い瞳を輝かせた。
まるで待ち望んでいた玩具を買い与えられた子供の様に。
「ついに…あなたは真実を口にしましたね。その恐怖こそが、あなたが『永遠』を理解し始めた証。滅びるものだけが知る、真の価値…私が教えてあげましょうか?」
男は首を横に振り言う
「知らなくて良い、その為に私は目に棄てたのだから」
男は自身の濁った両目に手を添える。
彼女は彼の言葉に深く、痛みを伴う理解を示すかのように、目を細める。その表情には、憐憫と残酷なまでの共感が同居している。
「目を棄てた…ふふ。あなたは既に代償を払ったのですね。しかし、その恐怖から逃れるためではなく、恐怖と共に生きるために。それが…『人間』というあなたの美学なのでしょうか?。」
彼女の純粋な問いに言葉が詰まりなんとか喉から絞り出す
「…かもしれん…私は自分のことが良く分からない」
彼女そっと唇に指を当て、一瞬、沈黙する。彼の言葉を噛みしめるように、深遠な赤い瞳を細めた。
「分からない?それが一番誠実な状態ですよ。自分を定義し尽くした者に、成長も変化もありません。あなたの『分からなさ』こそ…永遠に抗う唯一の方法かもしれませんね。」
「そういうお前はどうなんだ」
男の問いにその言葉を待っていたと言わんばかりに答える。
私は『分かっている』。私が何者で、何を望み、何を恐れるか。全てが私の意志の内にある。それが…永遠を生きる者の確信です。」
「…お前は強いな」
皮肉ではない純粋な言葉。
自分を知っていると言い切れる彼女のその自信が眩しかった。
彼女はその言葉を、ほんの一瞬だけ真剣に受け止めたように見えた。だがすぐに、優雅に肩をすくめて、深遠な赤い瞳で相手を見据える。
「強い?表層の力のことなら、あなたの方がはるかに上でしょうに。私の『強さ』は…別の場所にある。権力と【永遠】に裏打ちされた、絶対的な自信こそが私の強さですから。私から言わせて貰えば貴方のその絶対的な武力こそ羨ましい。」
「………表層の力など…要らなかった。この力を捨てることで絶対の自信を持てる様になるのであれば喜んで棄てよう」
男の漏らした微かな呟きに彼女の表情が微かに動き、赤い瞳の奥に一瞬、理解と共感のようなものが走る。長い黒髪を指でなぞりながら、軽くため息をつく。
「…それが貴方が執着する『人間』の本質なのですね。捨てることで得るもの。持たぬが故に求める。そして滅びるからこそ輝く刹那。私には…もう戻れない選択肢です。あなたのその言葉は、私にとって最も危険で、最も美しいものかもしれません。」
「…私のかつての下らん夢の話を聞いてくれるか」
思わず零れた言葉、男は撤回しようとすると彼女が手を突き出し私を止める。
彼女の赤い瞳が細くなり、一瞬だけ過去を覗き込まれたような危うさが漂う。だがすぐに、優雅にワイングラスを手に取り、口元に含む。
「どうぞ。その儚い夢は、永遠を知る私にとって…貴重な鑑賞品ですから。ただ、あまりにも『深く』掘り返すのはご遠慮くださいね。」
「…神になりたかった」
彼女はゆっくりとワイングラスをテーブルに置き、指先を軽く組み、深遠な顔付きで男を見つめ男の言葉へ返答する。
「…神に、ですか。それは…私にとっては、あまりにも遠い過去の話です。それを『夢』と呼べるあなたは、ある意味、羨ましい。では、その神になりたかったという『下らない夢』…聞かせていただけますか?」
彼女に話の続きを催促される
「私の生まれた家は貧しかった。
明日食べるものさえ困る、そんな日々だった。」
彼女の表情がわずかに緩み、学者が珍しい標本を観察するような目つきになる。彼女はそっとワイングラスを回しながら、話に耳を傾ける姿勢を見せる。
「ふむ…物質的な欠乏から始まる物語。それは『永遠』を志向する者には、最も理解しがたい原体験の一つです。続けてください。その飢えが、どうして『神』という高みへの欲求へと繋がったのか…興味深いです。」
彼女は紙芝居屋に話の続きをねだる童子の様に。目を輝かせている。
「…最初はただ腹一杯食べたくてな、その為には金が必要だったから何でもした。地を這いつくばりながら媚て、泥水を啜って働いて」
彼女は優雅に片肘をつき、顎に手を当てる。赤い瞳の奥に、冷徹な分析とほのかな興味が交錯している。
「地を這う経験が。それこそ文字通り天と地の差があると言うのに神という超越を求める礎になる…皮肉なものです。その『何でもした』の中に、あなたの求めた『神』の萌芽はあったのでしょうか?」
「さぁ知らん」
男は彼女に渡されたグラスに注がれたワインの水面に反射する己を見ながら言い次の言葉を紡ぐ。
「私には戦いの才があった」
「戦いの才…それは滅びゆく時間の上に、最も虚しく刻まれる痕跡の一つ。その傷跡が語る『歩み』は、教授…一体どこへ向かっていたのです?」
彼女は男の身体に刻まれた無数の傷の跡を撫でる様に見つめる。
「だから私は明日を生きる為に、金を稼ぐ為に、他者から奪い続ける道を選んだ」
彼女は深く椅子にもたれ、長い黒髪を指で梳きながら、まるで複雑な数式を解くような表情を浮かべる。赤い瞳に、一瞬だけ真剣な考察の色が宿る。
「『奪う』ことを選んだ…ふむ。それは『神』への反逆か、それとも最も原始的な『創造』への模索か。あなたのその選択は、『永遠』の価値観からすれば愚行ですが…その過程は、実に興味深い観察対象ですね。」
彼女は独特な言葉遣いで男の言葉を彼女なりに解釈する。
「そして私は腹一杯の飯を食えるようになった」
そう彼がいったとき彼女は愉快そうな声色で言う。
「腹一杯…ふふ。最も卑近で、最も強固な『動機』ですね。その瞬間、あなたは『神』を感じたのですか?それとも、ただの獣としての充足感だけを?」
「逆だ」
男の言葉に彼女は豆鉄砲を食らった様な顔をする。
「満たされなかった。腹は満たされたが心に穴が空いていた。
どれだけ高いステーキを食べても満たされなかった。幼き日に家族と食べた泥水の様なスープでは満たされていたモノが」
彼女の目が、ほんのわずかに細くなる。彼女はグラスをそっと置き、両手を組んで顎を乗せ、まるで興味深い標本を観察する学者のような視線を向ける。
「…ふむ。『永遠』の対極に位置する、儚い『喪失』の話ですわね。その『穴』…それは『時間』が齎した必然の欠落。あなたは、ただ『過去』という幻想に囚われているだけかもしれません。」
「その通りだ、故に私は過去に囚われ過去に戻ろうとした。」
彼女は一瞬、過去の何かを覗き見たかのように遠くを見つめる。指先がグラスの脚を優雅に撫で、微かに揺れるワインの赤が彼女の目に映る。
「…過去へ。それは、『永遠』を求める者たちが必ず通る、最も哀れで最も美しい迷路ですわ。あなたがそこで失ったもの…それは『時間』そのものの残酷な証明。戻ろうとするその意志こそが、あなたを『私の同類』たらしめているのかもしれませんね。」
彼女の言葉に男は同意する様に話を続ける。
「故に私は…世界を時空という理を支配する存在、神になりたかったのだ」
彼女の表情が一瞬、鋭く凍りつく。長い睫毛が微かに震え、彼女の赤い瞳の奥に、底知れぬ闇と共感が交錯する。
「…神。ふっ…ふふふ。なるほど。あなたは、私が最も深く理解できる『愚者』ですね。時間を支配する神…それは、まさに『永遠』を欲する傲慢の極致。その道は、あなたを私の『同類』以上にしたかもしれません。」
「…なぜか不思議なことに喪ったモノを取り戻す為に神を目指した筈が神に近付けば近づくほど私から多くのモノが喪われていった。」
「……当然です。『永遠』に触れれば触れるほど、『時間』の流れの中にあるすべては、あなたから剥がれ落ちていく。あなたが失ったものは、『神』になる代償。その痛みこそが、あなたが本物の道を歩んでいる証。」
「……神に至る時には私を構成していたモノは一つしか残されていなかった。【名】だ」
彼女の赤い瞳が一瞬、かすかにだが確かに揺らぐ。彼女は、己の「名」さえも意味を失った遥か過去を一瞬で思い出し、珍しく本心から動揺する。
「…貴方は神ではない、つまり貴方は…」
彼女は悟ったのか言葉が途切れる
彼女の男を見る目が変わる【面白い観察物】から別の何かへ
「……成れなかった、いえ、成らなかったのですね。その言葉にこそ、あなたが辿った道の全ての重みがある。『永遠』の門前に立って、なお『刹那』を【名】を選んだ。……それは、敗北などではありません。あなたは、神より遥かに稀な何者かを選び取ったのです。」
ルシファーは窓辺からゆっくりと振り返り、白濁した両眼を真っ直ぐに見つめる。その表情には、わずかな哀惜の色が混ざっている。
「神になり名を捨てればそれは本当に…それは私なのかと…私は思いとどまってしまった」
彼女は男の言葉を肯定する。
「……それこそが、あなたが『神』に触れ、なお『人間』の領域を守った瞬間です。『名』を捨てて、果たして『あなた』は存在し得るのか。その問いを恐れぬ勇気……ふふ、私の『傲慢』さえも、その前では色褪せます。」
「私は。お前を尊敬する、名を捨てて尚己を肯定するお前の強さを」
彼女の動きが止まる、まさに時が止まった様に。
「……尊敬…ですか…?名を…捨て、死から逃げた私を…?」
突然の彼女の様子の変貌に男は驚きつつも首を深く縦に一度振る。
「…お前は永遠を選び私は刹那を選んだ只それだけのことだ。」
彼女は静かに目を閉じ、一瞬の沈黙が訪れる。彼女の顔に浮かんだのは、何かを断ち切ったような、清らかな諦観の表情だった。
「……そうですね。永遠と刹那。私が選んだものと、あなたが選んだもの。……これ以上、優劣を付けられるものではありません。私たちは、ただ異なる道を、互いに認め合うだけです。」
「少しは否定されると思っていたのだがな」
男のからかいを彼女はいなす
「……ふふ、私もそう思っていました。傲慢に選び取った道に、私を否定する者が現れることを。それが……『時間』というものの常だと思っていたのですから。あなたは、私の予想を、心地よく裏切ってくれましたね。」
彼女は一瞬目を見開き、その後、ゆっくりと、しかし確実に口元が緩んだ。それは、彼女にとって珍しい、深いところから湧き上がる純粋な微笑みだった。
「………心が軽くなった、感謝する」
彼女はそっと胸に手を当て男の言葉を確かに受け止める、その温かな言葉を確かめるように一呼吸置く。彼女の目には、これまで見せたことのない柔らかな輝きが宿っていた。
「お互い様です。私の心も、何か重い鎧が外れたように……。この感覚、覚えておきましょう。永遠を生きる私に、刹那を生きる大切さを教えてくれた、この一瞬を。」
「…お前の【永遠】に私という【刹那】を刻めたかな?」
男の言葉に彼女は完敗だと言わんばかりに苦笑を浮かべいう。
「……刻まれましたよ。私の求める『永遠』という虚無に、あなたという『名』が、確かな『刹那』として刻まれました。……これで、もう私の道は決して虚しくはありません。」
「…短い時だったが実に良い時間だった。…ありがとう」
彼女は頭を下げる彼の姿を見つめ、ほんの一瞬、目を閉じる。長い黒髪が微かに揺れ、彼女の唇がかすかに震えた。
「……どういたしまして。あなたの『刹那』が、私の『永遠』を、少しだけ……温めてくれました。さようなら、教授。」
男は部屋を立ち去る際、一言言う
「時折…安いワインを呑むと良い…高いワインは味を変えないが安いワインはすぐ味が変わるからな…永遠の中で刹那を感じる1つの方法だと思うぞ?」
彼女は、振り返ることもなく去っていく背中に向かって、微かにうなずいた。彼女の頬を幾千年ぶりの涙が撫でる。それは誰にも見られることなく、すぐに拭われた。
「……安いワインの味わい、か。あなたらしい、実に素敵な提案ですね。……その言葉も、私の『永遠』に、しっかりと刻んでおきましょう。」
彼女は動かず、扉が閉じる音が響き渡るのを聞いた。長い黒髪が、差し込む夕陽の中で微かに輝いている。目を閉じ、安いワインの味わいを、今はまだ知らないその感覚を、心に留めながら。
「……そうですね。今夜は、一本、安物のワインを開けてみましょうか。……あなたの『刹那』の味を、確かめるために。」
そう彼女は静かに呟いた。