日が沈む頃だった。
川のせせらぎが聞こえる。波が乱反射している。河川敷の橋の下は影によってぬるく、じめじめとしている。
そこに男たちがいる。学生服を着た三人が、同じ学生服を着た一人の男を執拗に殴り続けている。
殴られている男のYシャツの首元が血に染まり、顔が赤黒く滲んでいく。最初は威勢を保っていたが、今ではその力も弱まっている。体の重心が抜けていくようだった。
その男を怯えた目で眺めている少年がいる。
ただ震えながら見守っていた。少年に勇気はなかった。
男はついに倒れる。崩れるように膝をつき、前のめりに体が崩れる。
とっさに僕は、死んだんじゃないかと怖くなって彼に近づく。
まだ息がある。少し弱いけれど、ちゃんと生きている。
「・・・ごめん」と彼の近くでささやく。
全部自分のせいだった。タカヒロくんという人間に何もかもを背負わせてしまった。でも、僕は立ち向かえない。ごめんと口にするしかない。
倒れていたタカヒロくんが、泥と血の付いた顔を上げて、僕に語りかける。
「お前は、それでいいのか?」
僕の顔を見つめながら言う。
男たち三人は遠目で僕達を嘲笑って見ている。もう興味も失せたかのように談笑している。
僕はただ透明に生きようと思った。透明なまま学校の中で過ごそうと思ったんだ。何も口にしなければ、何も考えていないヤツなんだなと思ってくれる。こころが無いと勝手に思ってくれるんだ。
僕は世界に馴染めなかった。学校にも。僕に居場所なんてなかった。それは生まれた時からわかっていた。世界と僕は明らかに見えている世界が違う。言葉を交わしても嘲笑われて、真剣に言葉を紡いでも冷笑される。なら何も言わないと決めた。
誰かを傷つけたくてしょうがないヤツというのはどこにでもいる。
自分はそのターゲットに選ばれた。ただそれだけの事だった。
けれど、殴られるその時になって「コイツを殴るのなら、俺を殴れ!」とタカヒロくんはなぜかそう言ったんだ。
タカヒロくんの髪を撫でる。泥を手で少しずつ取り払う。
「どうして僕の代わりに殴られてるの?どうしてやり返さないの?」
タカヒロくんの目はまっすぐだった。
「お前が昔俺にくれたものだ」
彼は1つの紙を取り出す。ボロボロでしわだらけだが"なんでもする 1かい"と、幼稚園児が書いたような字が書かれている。
「俺が5歳の時に、これを貰った」
幼い頃。公園に泣いている男の子がいた。なかまはずれにされたんだって。
それで僕はいっしょに遊んであげて、その帰りに親からペンを奪ってグジュグジュに何かを書いて渡した思い出がある。
あれはタカヒロくんだったんだ。
なぁ。お前は、どうしてほしい?
タカヒロくんは最後に自分に問いかけた。
それは、全ての決断を任せるという意思の力の入った声だった。
僕は・・・
"ねがい"をこの人のためにぶちまけるべきだと思った。
「助けてほしい!」
爪に力が入る。土が爪の中に入って、爪の奥を圧迫感が刺激する。
「僕にだって心はある!まいにちまいにち考えてる!どうやって生きれば良いか答えを出そうとしてる!あんなヤツらにやられるのは嫌だ!やられっぱなしはムカつくんだ!」
「僕を助けてよ!」
怒りと懇願と願いと苦しみと恐怖が雫になっていく。それは、自分の心を表現する事ができた何よりの証拠だった。
男たちが自分の叫びに気づく。ケタケタと笑いながらこっちに近づいて来る。また自分たちに襲いかかろうとしている。
「・・・そうか」
タカヒロはその言葉を受け止めると、ゆっくりと立ち上がり、Yシャツの袖をめくり太い前腕が見える。
男たちにむかってボクサーのようなファイティングポーズを取る。こぶしをゆっくりと握りしめる。
「来いよ」
それから、まるで漫画のような光景が広がった。
残像のようなフックが顔に刺さる。腹に向かってまっすぐに押し込まれるストレート。男たちは殴りかかるが、パンチの軌道を目で追いながら正確に相手に向かってパンチを叩き込む。
的確に、体が動かなくなる衝撃を与えていく。足に。腹に。腕に。的確に打撃を当てていく。男たちの攻撃はことごとく避けられていく。
最後に残った男がヤケになって突進をしてきた所に、大技の回し蹴りが決まり、男たち三人は立ち上がれずに地べたに倒れ伏した。
本当にあっという間だった。
ヨレヨレの土で汚れたYシャツを長袖に戻すと僕の方にゆっくりと歩み寄り「チケット1回分だ」とにこやかに笑いかけた。
誰もいない静かな公園のベンチで、僕達は休んでいた。
「ほら、飲めよ」
自動販売機で買ってくれた小さいパックのいちご牛乳を僕に渡してくれる。それを僕は申し訳なさそうに会釈してからストローで飲み始める。
「あんなチケットの事、覚えてなかったな」
「そうか?俺にとっては凄いアイテムだったんだぞ」
タカヒロくんは続ける。
「子供の頃にヒーロー映画を見てな、悪を打ちのめし、助けを求める人を助ける。そういうヤツに憧れていた」
「そういう人って凄いよね」
僕なんか・・・と俯いていると、タカヒロくんはこっちを見て「違うぞ」と答える
「お前こそが俺にとってのヒーローだ。あの時、味方なんか誰もいないって時に、自分と1日中遊んでくれて、あんな宝物を渡してくれたんだからな」
そうなんだ。
なんでもない事が、誰かの心に残る事ってあるんだなぁ。
ふと、風の音や光が、いつもより繊細に感じる事に気付いた。
五時になると鳴る帰宅のメロディが公園の広い空にこだましている。犬の散歩が通りかかり、チャリチャリとした音が聴こえる。風が草を撫でていく音が鋭い。五月の風はやけにぬるい。山から見える夕日のオレンジにもグラデーションがある。
凄い映画を見ると、劇場を後にした時に景色の感覚が変わると、テレビで映画評論家が言っていた。それを思い出して、こういう事なのかなと思ったりした。
そうだ。彼に言うべき事を言わなくちゃ。
「タカヒロくん!」
僕は彼を見つめて言う。
「トモダチになってください!」
「もちろんだろ。お前とはずっと前からトモダチだ」
向こうから手が差し出されて、僕はまっすぐにその手を合わせる。
握る手が、夕日の光で透き通るようだった。
左から射し込む夕日で髪が光り輝くタカヒロくんの姿は、僕にとってのヒーローだった。