インターホンの無機質な音が僕の鼓膜を揺らす。
毎日飽きるほど聞いている音は、いつもと同じように聞こえてくる。
それなのに、僕の心中には何か嫌な予感が纏わりついていた。
数分ほど待ったが、住人が出てくる気配はない。
郵便受けから複数の新聞が飛び出している。
月に一度の出来事は、まだ起こっていない。
届ける予定だった荷物を車に戻し、少しの諦観と気だるさを感じながら大家の部屋へ向かう。
以前に訪れたことのあるこのアパートでは、一階の左端がそうだ。
「あれ、運送の……何か荷物頼んでましたっけ?」
インターホンを鳴らすとすぐに大家は出てきた。
「すいません、二つ隣のお部屋の方なんですけど、最近お見掛けになりましたか?」
そう聞くと、彼はぎょっとした顔になって返事をした。
「えぇ、確かにここのところ見てませんでした」
内心、ため息をつく。
もしかしたら、思っていたことが起こっていないのではないか。
その希望はかなり薄いものとなってしまった。
「ここは私の担当区域です。申し訳ありませんが、恐らくもう……」
分かりました。
彼はそう言って扉を閉めた。
分かっていても嫌な気持ちになる。
おおよそ一月に一度訪れる、最悪な日。
憂鬱な気持ちを抱きながら上司に電話を入れ、今日は一旦会社に戻ることになった。
トラックに乗り、エンジンをかける。
何度経験しても慣れることのない、厭な気配がする。
死の気配。
背筋を撫でるように、今にも顔を後ろから掴まれるような気配。
それが、僕の心の中に纏わりついているのだ。
頬に冷たい感触が走る。
見ると、同僚が缶コーヒーをくっつけてきていた。
「うい、お疲れ様。大変だったな」
全くだ。
そう思いながら缶コーヒーをありがたく受け取る。
小気味よい音を立てながら開いたそれを一気に胃に流し込んだ。
苦みが舌を刺激して、鬱屈な感情を少し奥へと押しやってゆく。
飲み干して、少し頭を抱えた。
「もうすぐ勤めて一年になる。もうこれで十一人だよ、配送先で亡くなっていた人はさ」
同僚の顔が曇る。
分かってはいるんだ。
これが僕の役割だってことは。
缶を握る手に力がこもる。
「今日の人はさ、結構仲良かったんだよ。たまにお茶なんかを渡してくれて、お疲れでしょうから、なんて」
「仕方ないだろ、それがお前のもう一つの職務だってことは理解しているはずじゃないか」
その通りだ。
そう言いたい。
でも、心のどこかで納得できていない自分がいる。
それを自然の摂理だと認められない思いがある。
「僕は、荷物だけじゃなくて、死も届けているんじゃないかな。僕が荷物を配送したから、あの人は亡くなってしまったんじゃないかな」
どうしても、そう考えてしまうんだよ。
そう呟き、うなだれたまま僕は目を瞑る。
今までの人たちもみんな覚えている。その顔を忘れたことはない。
目を瞑れば思い浮かんでくる。
笑顔で、優しい人たち。
そんな人たちのもっと幸せになれた未来を僕は奪っているのではないだろうか。
「お前が殺したわけじゃない。最後の瞬間に立ち会ったわけでもない。あんまり思いつめるなよ」
彼は続ける。
「辛いなら仕事を辞めたっていいだろ。そうすれば、その役割は別の誰かのものだ。新人の誰かか、とにかく他のやつだ」
いつからなのかは分からないが、ずっとそうなっている。
辞めることを考えなかったわけではない。
むしろ、何回も考えた。
それでも、この役割を他人に任せるのは何か違う気がする。
この仕事をしている限り、破格なほどに給料は良い。それ目当ての職員もいるだろう。
そういう人間にこの仕事を任せたくはないという、見せかけの正義感のようなものが僕の心に確かに存在していた。
ゆっくりと首を振る。
少しの笑みを浮かべ、同僚は天井を見上げた。
俺は前に考えていたことがあるんだ。そう彼は言った。
その仕事で見つかる方たちは全員、毎日誰かが様子を見に来るような人じゃない。
そういう方の元に訪れ、遺体がひどい状態になる前に助けてあげているんじゃないか。
そう語る彼の目は純粋で、綺麗なものを追いかける少年のようだった。
「そんなに綺麗なものなのかな、この仕事って。実際のところ、どうなんだろうね」
「その通りだ、本当はどうかなんて誰も分からない。だからその考えが真実かもわからない。だから、お前だけは綺麗ごとで考えろ」
日々は変わらない。
役割も変わらない。
明日からはいつものように宅配をするだけだ。
そして、一月ほど経ったら僕はまたお客様の死に出会うのだろう。
それが僕の役割。
孤独に亡くなったお客様を発見する役目。
彼らの魂を、お迎えに上がる役目。
綺麗ごとでもいい。
自分の苦痛を紛らわすための都合のいい考えだとしてもいい。
それでも、僕はこの役割に向き合うと決めた。
これは、僕にしかできない仕事だ。
お客様の笑顔を見て、向き合い、その魂に安寧をもたらしてあげる役割。
例えこれが僕の勝手な想像だとしても、せめて尊厳を持って、この仕事に携わりたい。
偽善の正義感で構わない。自分の中にあるこの心を大事にしたい。
それが僕に出来る、亡くなった方たちへの誠意だと思うから。
「ありがとう。これからもこの仕事、頑張るよ」
立ち上がり、空の缶をゴミ箱に投げ入れた。
インターホンを鳴らす。
無機質な音と、続けて家主の声が返ってくる。
「すいませーん、宅配です!」
笑顔でカメラに向き直る。
何回も配達して常連となった家だ。応対も丁寧で、こちらとしても気分がいい。
荷物を渡し、エレベーターに乗って建物を出る。
冷気が僕の頬を撫でる。
春の陽気は、まだ訪れては来ない。