憑依者しかいないゲマトリアがキヴォトスの破滅を回避しようとする話   作:シャンタン

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「解釈違い──あぁ、解釈違いだ!!」

 

「認めよう。認めようとも。小生の愚かさを、小生の浅慮を、小生の傲慢を」

 

「だが、それでもなお叫ばずにはいられぬ」

 

「ファウストは、そのような言葉を紡がない······宣う筈がない!?」

 

「誰であろうと、その魂を尊ぶ彼女が!

『端役』などという檻を、他者へ押しつけるはずがないだろうが!!」

 

「ましてや、自らを脇役と認めるなど······」

 

「あり得ぬ。あり得ぬ!あり得ぬ!!」

 

「彼女は足掻く

 届かぬと思いながらも手を伸ばし、

 叶わぬと思いながらも夢を抱き、

 報われぬと思いながらも······それでもと友のために歩む」

 

「その一歩こそが、ファウストという存在ではないか」

 

「それを」

 

「それを、それを、それを······!」

 

「あの場面で」

 

「あの文脈で」

 

「あの温度で」

 

「あの魂の欠片すら宿らぬ台詞を吐く?」

 

「笑止」

 

「三流にも届かぬ──いや、三流と比較するのも烏滸がましい!!」

 

「······あぁ」

 

「だから小生は愚かなのだ」

 

「綻びは綻びのままで良かった。黙って目を逸らせばよかった」

 

「継ぎ接ぎの舞台に、継ぎ接ぎの役者、継ぎ接ぎの脚本」

 

「そんなものに、何を期待した」

 

「······違う」

 

「違うな」

 

「今は、それではない」

 

「問題は──"先生"だ」

 

「何故」

 

「何故」

 

「何故」

 

「何故」

 

「何故」

 

「何故、小生ごときが干渉できる」

 

「それは、あってはならぬ。それだけはあってはならぬ」

 

「"先生"は"先生"なのだ」

 

「舞台へ立つが、先頭に立つものではない。自己犠牲などと······」

 

「導き手のはずだ」

 

「救世主のはずだ」

 

「聖人のはずだ」

 

「終幕となる可能性を孕む者のはずだ」

 

「その存在へ」

 

「その高みに」

 

「この泥に塗れた、小生の指先が届く?」

 

「······そんなはずがあるものか」

 

「あぁ」

 

「あぁ、あぁ、紛い物だ」

 

「また小生は間違えたのか」

 

「期待した」

 

「希望を見た」

 

「だから"雷帝"に嗤われる」

 

「夢を見る愚か者だと」

 

「他人へ未来を託す臆病者だと」

 

「その通りだ」

 

「嗤えばいい」

 

「蔑めばいい」

 

「だが」

 

「それでも」

 

「それでも小生は祈ろう」

 

「どうか」

 

「どうか憐れみ給え」

 

「舞台へ突き落とした罪を」

 

「救済を求めた愚かさを」

 

「希望を捨てきれなかった、この醜さを」

 

「······小生には、もう」

 

「縋ることしか、残されていない」

 

 

 

 

 

 

 

 

第八話 崩壊

 

 

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ホシノの笑みが消える。

誰も言葉を発せず、重苦しい空気だけがその場に漂っていた。

その沈黙の中で、ペロロ仮面の肩が不意にぴくりと震えた。

最初は誰も気づかなかった。

だが、その震えは少しずつ大きくなり、両手がゆっくりと頭へ伸びていく。

 

 

「いや、待て待て待て」

 

 

押し殺したような声が漏れた。次の瞬間、その声は悲鳴へと変わる。

 

 

()()()()()()()()()()!?」

 

 

その叫びに、その場の全員が息を呑んだ。先生も思わず目を見開く。

さっきまで冷静だった少女とは思えない。

呼吸は浅く、肩は震え、仮面の奥から聞こえる声には隠しきれない恐怖が滲んでいた。

 

 

「何で僕はブラックマーケットなんかに来た······?」

 

「限定グッズを探しに?本当に、それだけか!?親友に迷惑を掛けない方が大事だろ!?」

 

「違う······違う······何かがおかしい······!」

 

 

ヒフミが戸惑いながらも必死に声をかける。

 

 

「大丈夫ですか!?」

 

 

 

しかし返事はない。

少女は、自分自身へ問い掛け続けていた。

ヒフミがペロロ仮面の体を揺する。

 

その姿を見つめながら、先生の胸に、言葉にならない違和感が浮かぶ。

 

 

──どうして、こんなに怖そうなんだろうか。

 

 

他人事のように、ぼんやりと思考が浮かぶ。

 

 

少女は、ただ混乱しているだけではない。

まるで、自分自身が信じられなくなったかのようだった。

ペロロ仮面の肩は小刻みに震えており、仮面の奥から漏れる呼吸は浅く、荒い。

何か外敵に怯えているのではない。自分自身の思考を恐れているように思えた。

 

その姿から、先生は目を離せなかった。

──違う。ただ混乱しているわけじゃない。

 

思い出そうとして、思い出せないことに恐怖している姿。

胸の奥がざわつく。理由は分からない。けれど、その姿が妙に他人事には思えなかった。

ゆっくりと、自分の記憶を辿る。

 

 

シャーレへ届いた、一通の依頼。

助けを求める手紙。

 

 

だから向かった。

先生として、間違った判断ではない。

困っている生徒がいる。その事実だけで動く理由になる。

 

 

······そう。そうでなければならない

 

 

理由には、なる。

だが、

 

 

("私は······")

 

 

胸の奥で何かが引っ掛かる。

 

 

("依頼を疑ったことは?")

 

 

ない。だが、生徒を疑うべきではない

 

 

("差出人を調べようと思ったことは?")

 

 

ない。だが、生徒を疑うべきではない

 

 

("偽物かもしれないと考えたか?")

 

 

······ない。だが、生徒を疑うべきではない

 

 

そう思っていた。

いや、疑うという選択肢そのものが、最初から存在しなかったように思える。

その事実に、背筋が冷たくなる。おかしいのだ。私は慎重な人間ではない。

 

それでも生徒を信じるが、疑問を持たないことは違う。なのに、私は、疑問を抱かなかった。

 

その違いに、今になってようやく気付いた。私は、その違和感に自力では気付けなかったのだ。

ペロロ仮面の少女が叫んだから。彼女が、自分を疑ったから。ようやく、私も違和感へ辿り着けた。つまり、私も干渉を受けていた。

完全ではない。だが、確かに、最初から······

 

ぞくり、と寒気が走る。

視線が自然と、アビドスの面々へ向いた。

誰もがおかしい。いや、おかしいのではない。今までのおかしいことを、おかしいと思えなかっただけだ。

 

 

「"······アヤネ"」

 

 

自分でも驚くほど静かな声だった。

アヤネが、小さく肩を震わせる。

 

 

「えっ······?」

「"ごめん。少しだけ、思い出してほしい"」

 

 

先生は自分の言葉を慎重に選ぶ。

責めてはいけない。思い出させるだけでいい。

 

 

「"どうして、シャーレへ依頼を送ろうと思ったんだい?"」

「それは······」

 

 

アヤネは俯いた。

 

 

「ユメ先輩が、シャーレへ依頼をって。ちょうど相談したいことはあって、でもユメ先輩には相談できなくて······」

 

 

そこまでは淀みなく答える。

だが、その先で言葉が止まる。

眉が寄る。呼吸が少しずつ浅くなる。

 

 

「それで······」

 

 

沈黙。

 

 

「相談しなきゃって······」

 

 

また止まる。

 

 

「"どうして、私を頼ろうと思ったんだい?"」

 

 

問い掛けた瞬間だった。

アヤネの肩が再度震えた。

 

 

「え······」

 

 

先生は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 

この反応は違う。思い出そうとしている人間のものではない。

思い出そうとしてはいけない、と身体が拒絶している反応だった。

 

 

「先生······?」

 

 

ユメはペロロ仮面を気遣っており、急に始めた先生とアヤネのやりとりを見て、不安そうな声をこちらへ漏らす。

それでも先生は止められなかった。止めるべきなのかも分からなかった。

 

 

「"私も、気付けなかったんだ"」

 

 

静かに呟く。

 

 

「"依頼の内容には違和感を覚えても、依頼そのものには違和感を持たなかった"」

 

「"でも、今になって思う"」

 

「"アビドスの状況を知った今だからこそ思う"」

 

「"どうして、見ず知らずの大人へ助けを求める結論になったんだろうって"」

 

 

その一言が、決定打になった。

 

 

「っ······!」

 

 

アヤネが頭を押さえる。

息が乱れる。

 

 

「どうして······」

 

 

苦しそうに息を吸う。

 

 

「なんで······」

 

 

先生は、一歩踏み出しかける。

だが、足が止まった。

 

 

──怖かった。"先生"はそんな感情を生徒に抱かない

自分の問いが、この子を苦しめている。"先生"が生徒を苦しめることがあってはならない

それでも、目を逸らしてはいけない気がした。

 

 

「なんで······」

 

 

アヤネは震える声で呟く。

 

 

「考えようとすると······」

 

 

呼吸が詰まる。

 

 

「これ以上······」

 

 

目に涙が浮かぶ。

 

 

「これ以上考えちゃいけないって······」

 

 

小さく、本当に小さく、助けを求めるような声で。

 

 

「思うんですか······?」

 

 

先生の思考が止まる。

 

"考えてはいけない"という言葉が、何よりも恐ろしかった。誰かに「考えるな」と命令されるのではなく、自分自身の思考のように思える。自分自身が、自分の意思で、考えることを拒絶している。そう感じてしまう。

それは洗脳よりもずっと静かで······だからこそ、底知れない恐怖だった。

 

 

「アヤネちゃん」

 

 

誰よりも早く動いたのは、ホシノだった。

しゃがみ込んだアヤネの隣へ静かに膝をつき、その細い肩へそっと手を添える。

 

 

「もう十分だよ」

 

 

穏やかな声だった。

責めるでもなく、問い掛けるでもなく、ただ安心させるように。

 

 

「ホシノ······先輩······」

 

 

アヤネは焦点の合わない瞳をゆっくり向ける。

呼吸は乱れたまま、胸を押さえる手も、小刻みに震えていた。

 

 

「ご、ごめんなさい······わたし······」

「謝らなくていいんだよ」

 

 

ホシノは静かに首を横へ振った。

 

 

「アヤネちゃんは、少し疲れちゃっただけなんだよ」

 

 

そう言いながら、優しく頭を抱き寄せる。幼い子どもをあやすように、ゆっくりと背中を撫でる。

 

 

「だから今は、何も考えなくていい」

 

 

その言葉を聞いた瞬間。

張り詰めていたアヤネの身体から、力が抜けた。

 

 

「······ホシノ、先輩······」

 

 

震える声で呼び掛けながら、そのまま力なくホシノへ身体を預ける。

アヤネの瞼がゆっくり閉じられていく。

 

 

「おやすみ」

 

 

ホシノは、小さく微笑んだ。まるで最初からこうなることを知っていたかのように。先生は、その横顔から目を離せなかった。

 

 

("どうして······そんなに落ち着いていられるんだ?")

 

 

他のみんなと違う。

彼女は、慌てていない。

彼女は、驚いてもいない。

まるで、この異常そのものを受け入れているようだった。

少なくとも、そう見えてしまった。

 

 

「············」

 

 

静寂の中に、小さく息を呑む音が混じった。

先生は反射的に顔を上げる。その音の主は、セリカだった。

 

彼女は俯いたまま微動だにせず、片手で自分の頭を押さえている。指先には力が入り、白くなるほど強く髪を掴んでいた。

その姿を見た瞬間、先生の胸がざわつく。まるで、ほんの数秒前までのアヤネを見ているようだった。

 

 

「セリカちゃん?」

 

 

異変に気付いたノノミが、おずおずと声を掛けるしかし、返事はない。

セリカの肩が小さく震えて、その唇がわずかに動く。

 

 

「······違う」

 

 

呟きは、風に紛れてしまいそうなほど小さかった。だが、その一言は確かに先生の耳へ届く。

 

 

「違う······違う······違う······」

 

 

繰り返される否定。回数を重ねるごとに、その声は震えを増し、呼吸も乱れていく。

 

先生は、思わず一歩踏み出す。だが、足は止まってしまった。

 

 

何を言えばいいのか分からない。

 

何を言うべきなのかも分からない。

 

 

そんな先生をよそに、セリカはゆっくりと顔を上げる。その瞳はどこにも焦点が合っていなかった。

 

 

「私は······ずっと思ってたのよ」

 

 

途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

 

「大人なんて······信用できないって」

 

 

先生の胸が、ずきりと痛んだ。それはきっと、彼女の本音だ。

だからこそ、その続きを聞くのが怖くなった。

 

 

「なのに······」

 

 

セリカは苦しそうに眉を寄せる。

押さえた頭へ、さらに力が入る。

 

 

「違う」

 

 

一度、否定する。

 

 

「違うって思う私がいる」

 

 

もう一度。

 

 

「先生は違うって」

 

「助けてくれたって」

 

「信用してもいいって」

 

「ユメ先輩と······同じだって」

 

「人には人の事情があるって」

 

 

先生は息を呑んだ。

その言葉は、明らかに不自然だった。

 

 

一緒に戦い、一緒に笑い、一緒に悩みながら少しずつ育ってきた信頼。

そんな信頼がなければ、悩まないはずの言葉だ。

 

今の先生に、そんな信頼はありはしない。

しかし、歪な信頼を催した思考が今、彼女を苦しめている。

 

 

「でも······」

 

 

セリカの呼吸が大きく乱れ始める。胸を上下させながら、必死に空気を吸う。

 

 

「それは······私の考え?」

 

 

小さな呟き。その一言だけで、先生の背筋に冷たいものが走る。

 

 

「誰かに······そう思わされてるだけ?」

 

 

その問いは、誰に向けられたものでもなかった。自分自身へ向けた問いだった。

 

 

「違う!」

 

 

叫ぶ。

しかし、次の瞬間には、

 

 

「違わない!」

 

 

と、自分自身で否定する。

 

 

「どっちよ!」

 

 

悲鳴にも似た声が響いた。

その勢いのまま、セリカは立ち上がる。

 

 

「セリカ!」

 

 

シロコがすぐに駆け寄り、その腕を掴んだ。

だが、セリカは乱暴に振り払おうと身体を捻る。

 

 

「離して!」

 

 

その声には怯えと苛立ちが入り混じっていた。

 

 

「全部おかしいのよ!」

 

 

必死にもがきながら叫ぶ。

 

 

「だったら最初から誰も信用しなきゃよかった!」

 

 

涙が溢れる。

 

 

「そうすれば!」

 

 

その先の言葉は出てこない。まるで何かに喉を塞がれたように、口だけが震えていた。

 

 

「セリカちゃん!」

 

 

今度はノノミが反対側から身体を抱き止める。

暴れようとするセリカを、シロコと二人で必死に支える。

 

 

「落ち着いてください!セリカちゃん!!」

「落ち着けるわけないでしょ!」

 

 

セリカは叫ぶ。

その目からは、大粒の涙が次々と零れ落ちていた。

 

 

「頭の中で······!」

 

 

息を荒くしながら、自分の頭を叩く。

 

 

「二人の私が喧嘩してるの!」

 

 

震える声。

 

 

「信用するな!」

 

 

叫ぶ。

 

 

「信用していい!」

 

 

すぐに別の答えが口を突く。

 

 

「疑え!」

 

「信じろ!」

 

 

まるで、自分の中で誰かと言い争っているかのように。相反する言葉が、次々と溢れ出していく。

 

 

「うるさい!」

 

 

耳を塞ぐ。

それでも止まらない。

 

 

「うるさい!」

 

 

涙で視界が滲む。

 

 

「うるさいっ!!」

 

 

とうとう悲鳴へ変わる。

 

 

「うるさいっ!!!」

 

 

その絶叫は、ブラックマーケットの喧騒さえ一瞬遠ざけたように思えた。

 

先生はまたも動けなかった。

 

 

助けたい。

 

止めたい。

 

今すぐ抱き締めて、大丈夫だと言いたかった。

 

 

けれど今、この口から出る言葉は、本当に自分の意思なのだろうか。

その確信が持てない。自分もまた、知らぬ間に思考を誘導されている可能性がある。

その事実を知ってしまった今、自分の「大丈夫」という言葉にすら責任が持てなかった。

 

 

足が、鉛のように重い。

 

何もできない。ただ立ち尽くすことしかできない。

そんな先生の視線が、自然とホシノへ向く。ホシノは静かにセリカを見つめていた。

慌てる様子はなく、焦る様子もない。

その瞳に浮かんでいるのは、驚きではなく、深い痛ましさだった。

 

まるで、目の前で起きている光景を受け入れながら、それでも止められないことを知っている人のように。やがてホシノは、小さく、本当に小さく息を吐く。

 

 

「······もっと早く気付ければ」

 

 

その呟きだけが、不思議なほど鮮明に先生の耳へ届いた。先生は思わずホシノを見た。

 

 

「"······ホシノ?"」

 

 

先生自身でも驚くほど掠れた声だった。しかし、そんな先生をおいて、ホシノはセリカの傍らへゆっくりと歩み寄る。

暴れ続けるセリカは、シロコとノノミに押さえられながらもなお苦しそうに身を捩っていた。

 

 

「離して!」

 

「嫌······嫌よ······!」

 

「考えたくない······!」

 

「セリカちゃん······」

 

 

ノノミの声も震えている。

シロコも必死だった。

 

力任せではない。

傷付けないよう、逃がさないよう、細心の注意を払っているのが先生にも分かった。

それでも、セリカは止まらない。頭を振り、涙を零し、自分自身と戦い続けている。その様子を見つめながら、先生はホシノへ問い掛けた。

 

 

「"······君は"」

 

 

喉が乾く。

 

 

「"何か、知っているのか?"」

 

 

ホシノはすぐには答えなかった。ただ、苦しむセリカを静かに見つめる。

 

その横顔には迷いがあった。決断を迫られている者だけが見せる、痛みを押し殺した表情だった。

 

やがてホシノは、小さく頷く。

 

 

「······先生」

 

 

穏やかな声だった。

 

 

「アヤネちゃんをお願い」

 

 

先生は目を見開く。

 

 

「"え?"」

 

 

返事を待たず、ホシノはセリカの前まで歩み寄った。先生は、何とかホシノから預けられたアヤネを抱き寄せる。

 

 

「セリカちゃん」

 

 

その声だけで、暴れていたセリカの動きが一瞬止まる。涙で濡れた瞳がホシノを映した。

 

 

「ホシノ······先輩······?」

 

 

震える声だった。

そんなセリカを見つめて、ホシノは優しく微笑む。

まるで、いつもの昼下がりのような穏やかな笑みだった。

 

 

「ごめんね」

 

 

短く呟き。

次の瞬間。

トン、と。

指先がセリカの首筋へ触れる。

 

力強く叩いたわけではない。

神秘を乗せた、極めて正確な一撃。

 

 

「······ぁ······」

 

 

セリカの瞳から力が抜ける。全身の緊張が解け、その身体がゆっくりと崩れ落ちた。

 

 

「セリカ!」

 

 

シロコが慌てて支える。

ノノミも息を呑む。

 

ホシノは倒れ込むセリカの頭を静かに撫でた。

 

 

「······ごめんね。セリカちゃん」

 

 

その声は、誰よりも苦しそうだった。

少しだけ目を閉じ、それから顔を上げ、皆を見渡す。

 

 

「状況が変わった」

 

 

その一言だけで、空気が張り詰めた。

 

 

「一度、アビドスへ戻るよ」

 

 

誰も反論できなかった。今、この場で考え続ければ、アヤネもセリカもどうなるか分からない。その事実だけは全員が理解していた。

ホシノは視線をヒフミとペロロ仮面へ向ける。

 

 

「ヒフミちゃん」

「······は、はい」

「それと、そっちの仮面ちゃん」

「···なんだい」

 

 

ペロロ仮面はまだ頭を押さえながら、小さく顔を上げる。

 

 

「アビドスで良ければ、休める場所くらいは貸せるよ。今は二人になるより、その方がいいと思う」

 

 

ヒフミは迷うようにペロロ仮面を見る。

ペロロ仮面はゆっくり頷いた。

 

 

「······お願いします」

「ありがとう······お願いするよ·········」

 

 

ホシノは小さく笑った。

 

 

「じゃあ、急ごっか」

 

 

一行はブラックマーケットの通りを引き返し始めようとするが、シロコだけが足を進めない。

 

 

「······待って」

 

 

シロコの声が低くなる。全員が立ち止まった。

 

 

「どうしたんですか、シロコちゃん?」

 

 

ノノミが尋ねる。シロコは口にするのを躊躇いながらも、小さく呟く。

 

 

「······そもそもの話に戻るけど」

 

 

その目には鋭い警戒が宿っていた。

 

 

「私たち、どうしてあのヘルメット団を信用したの?」

 

 

その一言は、ペロロ仮面が提示した疑問であった。

再度言われなければ気付けなかったのは、自身の誤りなのか、また介入を受けているのか分からない。

 

先生は、自分の思考を信用できなくなりつつある。

 

 

「味方になったみたいにお店にいて」

 

「ブラックマーケットまで案内するって言われて」

 

「私たちは彼女達を信用して付いてきた」

 

 

シロコはゆっくり首を振る。

 

 

「······本当に、信用できる?私たちの考えは、本当に私たちの考え?」

 

 

間違いなくヘルメット団は、2日前には確実に攻撃してきた存在だ。それなのに、自分たちは彼女たちの発言を罠だと疑わなかった。

いや、疑おうとしても、別の考えに阻害されていたのかもしれない。

 

ホシノは静かに振り返る。その表情には迷いはなかった。

 

 

「そのことなら」

 

 

ホシノが一歩前へ出る。

 

 

「事情には心当たりがある」

 

 

シロコがホシノを見る。

 

 

「事情?」

「うん」

 

 

ホシノは短く頷いた。

 

 

「じゃあ、説明して」

「······全部は、まだ話せない」

 

 

少しだけ申し訳なさそうに笑う。

 

 

「ふざけないで、ホシノ先輩!こんな状況になっているのに──」

 

 

シロコの言葉を遮るように、ホシノはシロコの正面まで歩み寄る。

 

 

「私を信じて」

 

 

その一言には、不思議な重みがあった。

 

 

「シロコちゃん」

 

 

シロコは何も答えない。ただ、ホシノの瞳を見つめ返す。その視線を受け止めながら、ホシノは静かに続けた。

 

 

「少なくとも私の予想が正しければ、あの人たちは今は敵じゃない。車に戻ってからそれを確認する。だから信じて」

 

 

短い沈黙が流れる。

やがてシロコは、小さく息を吐いた。

 

 

「······分かった」

 

 

完全に納得したわけではない。それでも、ホシノだけは信じる。そんな答えだった。

ホシノもまた、小さく頷く。

 

 

「ありがとう。シロコちゃん」

 

 

そう言うと、一行は再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホシノを先頭に、一行はブラックマーケットの雑踏を抜けていく。耳障りに感じていた喧騒は近く、周りから伺う声が聞こえる。

先生は、ユメが背負ったアヤネの様子を何度も窺う。

 

アヤネは意識こそはっきりしているものの、顔色は悪いままだった。

何かを考えようとするたび、眉を寄せ、苦しげに息を詰まらせる。

 

だから先生は、何も聞かなかった。今は休ませることが先だ。

そう自身に言い聞かせながら歩く。

そして、しばらくすると通りの外れに見覚えのある車列が見えてきた。

 

黒塗りの車体。

武装したヘルメット団の面々。

 

ブラックマーケットまで送り届けてくれた彼女らは、約束通り、その場で待機していた。

こちらへ気付いた一人が手を上げる。

 

 

「おう、戻ってきたぜ。リーダー」

 

 

その声を聞きつけたリーダーの少女が、車から降りてくる。

 

 

「あん?やけに早い帰りだな。それに、そいつらは──」

 

 

 

リーダーが言い終わる前に、ホシノが迷いなく歩み寄る。先生たちを一瞥したあと、ヘルメット団リーダーのすぐ目の前まで近付き、そのヘルメットへ口元を寄せる。

 

 

「黒服はなんて?」

 

先生には、ホシノの発言が聞こえなかった。シロコたちにも聞こえていない。

ヘルメット団リーダーだけが、その言葉を受けて、数秒の沈黙が訪れる。

 

 

「······はぁ」

 

 

深く息を吐いた。

 

 

「詳しくは車内で聞かせてくれ」

 

 

そう言うと、リーダーは一度だけ先生たちへ視線を向ける。

 

 

「連中も連れていくのか?」

 

 

ホシノも振り返る。

 

セリカを支えるシロコとノノミ。

 

まだ苦しそうなアヤネを背負ったユメ。

 

頭を押さえ続けるペロロ仮面。そして、その傍らに寄り添うヒフミ。

 

その全員を見渡し、小さく頷いた。

 

 

「うん、アビドス高校までお願い」

「······了解」

 

 

リーダーはそれだけ答えると、周囲の団員へ手短に指示を飛ばした。

 

 

「お前ら、後ろの車を空けろ。怪我人······というか、支えられてる()()()が優先だ。運転は慎重にな」

 

 

その指示を聞き、団員たちは慣れた様子で動き始める。後部座席を倒し、毛布を広げ、水や簡単な救急用品を運び込んでいく。

 

その様子を見ながら、先生は少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも、この場では協力してくれるらしい。

そう思った矢先に、声をかけられる。

 

 

「先生」

 

 

ホシノが振り返る。

 

 

「アヤネちゃんとセリカちゃんは、しばらく横にさせてあげたい。それで、みんなには看病に付いててもらおう」

 

 

先生もアヤネとセリカを見る。確かに、彼女達に事情を説明させるより、看病をして貰っていた方が良いだろう。

 

 

「"それがいいね"」

 

 

ホシノは頷くと、視線をもとに戻し声を掛けた。

 

 

「ノノミちゃん、シロコちゃん」

「はい!」

「ん」

「アヤネちゃんと、セリカちゃんのこと、お願い」

「もちろんです!」

「もちろん」

 

 

ノノミは優しく笑い、アヤネの肩を支え直した。ヒフミもすぐペロロ仮面を支え、別の車両へ移る。

 

 

「私たちは別の車に乗りますね」

 

 

ペロロ仮面も静かに頷いた。

 

 

「······そうした方が良いだろうね。ある程度冷静になれたら、僕たちは迎えを呼ぶことにするよ」

 

 

その姿を確認すると、ホシノはリーダーの車へ視線を向ける。

 

 

「先生」

「"うん?"」

「私たちは、前の車に乗ろう。私以外にも、説明する人が欲しいんだ」

 

 

先生は少しだけ首を傾げる。

 

 

「"もちろんそのつもりだったけど。説明は私だけでも──"」

「ううん」

 

 

ホシノは静かに首を横へ振った。

 

 

「今は看病できる人が一人でも多い方がいいのは確かだよ。でも、先生一人だと万が一がある。

 ユメ先輩だと、先生を庇いながらいろいろ動くのは無理だろうしね」

 

囁くようなその言葉に、先生も自然と納得してしまった。

アヤネとセリカはユメが率先して看病はしており、シロコとノノミも上手くフォローしているように見える。必ずしも、ホシノが後ろに乗る必要はないだろう。

······そのはずだ。

 

 

「······分かった」

 

 

先生が頷くと、ホシノも小さく笑う。

 

 

「ありがと」

 

 

そのまま二人はリーダーの車へ向かう。ヘルメット団リーダーは無言で扉を開け、二人が乗り込むのを待っていた。

その様子を見送りながら、シロコは一瞬だけ視線を細める。

 

 

 

 

 

車のドアが閉まる。鈍い音とともに、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。エンジンが低く唸りを上げ、ゆっくりと車体が動き出す。窓の外では、後続の車両も順に走り始めていた。

 

 

少なくともアヤネとセリカは、何かしらの影響を受けていた。そして、先生も思考が信じられなくなってきていた。

 

そう先生が思考に潜ろうとした瞬間だった。助手席で、ホシノがポケットから携帯端末を取り出した。慣れた手つきで番号を呼び出し、何の躊躇もなく発信する。

先生は横目でその様子を見守る。

 

 

誰へ掛けるのだろうか。そう思いながらも、数回の呼び出し音を聞き流す。やがて、聞き慣れた明るい声が車内へ響いた。

 

 

『──どうしたの? ホシノちゃん?』

 

 

ホシノは短く息を吸う。

 

 

「ユメ先輩」

 

 

一拍置いて、淡々と続ける。

 

 

「ここから別行動するから、みんなをお願いね」

『······え?』

「それと」

 

 

ホシノの表情は変わらない。まるで最初から決めていたことを伝えるだけのように。

 

 

「言い訳もお願い」

『えっ!?』

 

 

電話の向こうでユメの声が裏返る。

 

 

『ちょ、ちょっと待ってホシノちゃん! 別行動ってどういう──』

 

 

その続きを聞くことなく。ホシノは静かに通話を切った。電子音だけが、短く車内へ響く。先生は思わずホシノを見た。

 

 

「······ホシノ?」

 

 

何が起きているのか理解できない。

 

 

「今のは、一体······?」

 

 

問い掛けようとした、その時だった。運転席のリーダーがバックミラー越しに二人を見る。

 

 

「それで」

 

 

今までの態度が演技だと思える低い声。

 

 

()()()()()()()()の目的地は?」

 

 

その問いには、一切の驚きが含まれていなかった。まるで、最初から予定されていた確認事項を口にしただけのように。

先生の思考が止まり、口を開くより早く。ホシノは窓の外へ視線を向けたまま、噛み締めるような表情で声を出す。

 

 

「決まってるでしょ?」

 

 

その声には、迷いも躊躇いもなかった。

 

 

「貴女たちの雇い主のとこだよ。もう我慢の限界なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パソコンに共有されたテレビの場面が切り替わり、ホシノと先生を写す。

 

 

薄暗い部屋。規則正しく並ぶ機器が低い駆動音を響かせ、青白い光だけが空間を照らしていた。そんな状況で、静かにパソコンのモニターを見つめる異形。

 

ゲマトリアメンバーにのみ共有された画面の中では、一台の車がブラックマーケットを離れ、砂漠の道路を走っている。

 

 

『貴女たちの雇い主のとこだよ。もう我慢の限界なんだ』

 

 

 

カメラがいらない、監視装置。映像は非常に安定しており、運転席では、ヘルメット団のリーダーが黙々とハンドルを握っている。

その隣の助手席には小鳥遊ホシノがおり、後部座席には、先生が見える。

 

 

「ミスターオーウェルには感謝しなければいけませんね。おかげ様で、状況が把握しやすく助かります。しかし、どこまで信用したものか······いえ、今は先生のことです」

 

 

先生は何度もホシノへ視線を向けていた。

 

 

『先生。今のうちに状況を整理した方が良いよ。まだ何か見落としてるかもだから。少なくとも、私には心当たりが一つある』

 

 

先生の表情には戸惑いが色濃く残っている。ようやく、自分自身の思考へ違和感を抱き始めたのだから当然だろう。

 

これを不甲斐ないと評するのは傲慢だろう。自分という存在を疑うことほど、人間にとって恐ろしいものはない。

後で『どうしてそんな思考をしたのか?』とは思っても、『どうしてそんな思考をしたのか?』と疑うことは難しい。

 

あらゆる状況が、本人の意思なのか確信が持てなくなっている。そんな今の状況は、精神的な負荷は計り知れないだろう。

私は小さく息を吐いた。

 

 

「違和感を持てれば十分でしょうか?今のところ、思考を塗り潰すような干渉は観測できておりませんが······どこまで影響を与えられるのか想像がつきませんねぇ」

 

 

先生は、自力で異常へ辿り着いた。正確にはペロロ仮面を切っ掛けにしてだが、重要なのはそこではない。

少なくとも先生は、今後自らの意思で疑問を抱ける。

 

それだけで価値はある。視線をパソコンモニターに写るホシノへ移す。

彼女は窓の外を眺めたまま、一言も話さない。

焦りは見えず、迷いもなく、手を貸してくれた、原作とはかけ離れてしまった少女。

 

本当に、予想以上に動いてくれた。

 

 

「······ありがとうございます」

 

 

誰へ向けた礼なのか、私自身にも分からなかった。

小鳥遊ホシノか、この状況に至るまでの幸運にか、あるいはその両方なのかもしれない。

 

映像の中で、先生が何かを考え込むように俯く。何度も何度も、自分の記憶を辿るような表情だった。

その姿を見ながら、私は椅子へ深く身体を預ける。

 

「さて」

 

 

思考誘導とも言える現象が綻び始めた以上、次の段階へ移る可能性が高い。

時間はもう残されていないだろう。だからこそ先生には、私自身の口で説明しなければならない。初の対話がこんなことになるのは、予想だにすらしていなかったが。

 

 

「原作には登場しない何か。先生には事態を解決してから接触したかったのですが······そこは割りきりましょうか」

 

 

本当に、本当にままならない。気づいた時には手遅れで、何とか違和感を持てるであろう干渉を続けるしかなかった。

先生達との戦闘へと仕向けられる可能性が残っている以上は接触できず、吉野ニコが近くにいる以上は戦闘になってしまう可能性が高かった。

 

そして、なんとか釣り出すことには成功したのだが······対応については双子に任せることになってしまい、とても酷なことをしてしまった。 

 

 

「ククッ。皮肉ですねぇ。信用や信頼はいらないと宣いながらも、今から信用勝負になるのですから。それも、自身の思考より私を信用して欲しいなどと······欺瞞でしかない」

 

 

負担を考えなければ勝算はある。しかし、反動が無視できない。

 

 

「世界を賭けるには、少々手札が心許なく······不甲斐ない限りです」

 

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