憑依者しかいないゲマトリアがキヴォトスの破滅を回避しようとする話 作:シャンタン
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薄暗い廃ビルへ足を踏み入れると、湿気を含んだ冷たい空気が肌を撫でた。
壁一面にはひび割れが走り、剥がれ落ちたコンクリート片が床へ散乱している。窓ガラスの多くは砕け、吹き込む風が鉄骨を震わせるたび、どこか遠くで金属が軋む音が響いた。
その静寂を破るのは、三人の足音だけだった。
先頭を歩くヘルメット団のリーダーは、落ち着かない様子で何度も肩越しに振り返る。周囲を警戒しているというより、この先に待つ人物を思い出すだけで落ち着かない──そんな様子だった。
「······言っとくが、私は案内するだけだ。余計なことはしない」
ぶっきらぼうな声音。
先生は軽く肩をすくめながら頷く。
「"分かったよ······とはいっても、何も理解できてないんだけどね"」
その隣を歩くホシノは、薄暗い廊下を見回し、小さく欠伸を噛み殺した。
「おじさんも完全には理解出来てないよ、先生。だから、わざわざここに来たんだ」
「"だいぶ強引だった気がするけど······電話切って良かったの?"」
「これ以上巻き込みたくないからね~。それにしても、ずいぶん人気のない場所だね」
露骨な話題転換であったが、先生はそれに付き合うように、天井を見上げる。
崩れかけた蛍光灯が一本だけぶら下がり、風に揺れて小さく軋んでいた。
「人気がある場所を避けてんだよ」
リーダーは振り返ることなく答える。
「あの人にも拠点はある。だけどその場所は、連邦生徒会に属する大人が来るべきじゃねぇ。少なくとも今はな」
「"···来るのが分かってたみたいな口ぶりだね"」
「分かっててもおかしくないぜ?こんなアビドスの僻地にある廃ビルに案内されるぐらいだからな。······安心しろ。あの良く分からん場所よりマシだぜ?」
「"······メゼラだっけ?非公認自治区だとか、連邦生徒会もどう扱うべきか困ってるとかいろいろ聞いたよ"」
「ああ、あってるぜ。このキヴォトスで唯一、弱者であることが許される場所だ。いろんな自治区含めてな」
その言葉に、ホシノの歩調がほんの僅かに緩んだ。
「······あの子達は弱くないよ」
穏やかな声だった。
怒気も敵意もない。ただ、自分の知る彼女たちを否定されたくないという意思だけが、静かに滲んでいる。
それに対して、リーダーは鼻で笑う。
「いいや、弱者だ。少なくとも、一人で何かを為せる程の力を、あいつらは持ってねぇ」
ホシノは少しだけ目を伏せる。
「あの子たちには、心の強さがある。どれほどの過去があったって、今に向き合う強さや、明日を見る強さがある」
「それは強者の意見だ。暁のホルス」
リーダーはホシノの視線から逃れるように、前を向きながら言った。
「弱者の心がどれほど強くたって、現実はいつも無情で無慈悲だ。てめぇは強いからこそ、心の強さなんていう不確かなものに目を向けられる」
ホシノは何も返さない。
その沈黙が、否定よりも重く廊下へ落ちた。
「······あいつらは、メゼラって鳥かごの中にいるから自由なんだよ」
リーダーは自嘲気味に笑う。
「もっとも、そんな場所に私達も辿り着くなんて、人生分からねぇもんだけどな」
先生は二人の会話を静かに聞きながら口を開く。
「"君はなんで、ホシノのことを、『暁のホルス』って呼ぶの?"」
リーダーは一瞬だけホシノを横目で見る。
「······暁のホルスってのは、そこのピンクの化物のコードネームだ」
「うへ~。うら若き乙女に、化物なんて酷いよ~」
ホシノは肩を竦め、困ったように笑う。
リーダーは振り返らずに続ける。
「裏社会で恐れられてる傭兵──破壊者のコードネームだ」
先生は目を丸くした。
「"凄いコードネームだね······もしかして、キヴォトスでは傭兵とか一般的だったりする?"」
「あん? 本当に何も知らねぇんだな」
リーダーは少し呆れたように笑う。
「学園に通えねぇ奴らは、大抵ヘルメット団かスケバン、傭兵になる。学生証も無けりゃ、まともに金なんて稼げねぇからな」
「ヘルメット団とかスケバンも、最近は依頼を受けて生活してる所が多いけどね」
ホシノが補足するように付け加える。
「てめぇの大好きな黒服たちのおかげでな」
一瞬だけ、空気が凍った。
ホシノは笑顔のままだ。
それでも、その笑みの奥に宿る圧だけは隠れていなかった。
「ヘルメットをかち割られたいなら、そう言ってよ?」
その一言だけで、リーダーの肩が跳ねる。
「わ、悪かった」
ラインを越えたことを悟り、素直に謝るリーダー。
先生は苦笑しながら話題を戻した。
「"その······結局のところ、黒服ってどういう人なの?"」
その質問に、リーダーの足がぴたりと止まりかける。すぐに歩き出したものの、その一瞬の間だけで、何か感じていることが分かるのに十分だった。
反応を見たホシノが、先に口を開く。
「おじさんにとっては······恩人かな」
「"恩人?"」
「うん。実はユメ先輩が昔、アビドスで遭難したことがあって」
ホシノは少しだけ懐かしそうに笑う。
「あの人が助けてくれたんだよ」
「"······ユメって、昔からおっちょこちょい?"」
「生まれた時からだと思うよ?」
思わず先生も苦笑する。
黒服とホシノにパパ活疑惑があることも、カヤが黒服を疑っていたのをおくびにも出さずに、先生は心に留めることに決めた。
ホシノの表情を見てしまっては、少なくとも本人に確認する気が起きなかった。
しかし、それが功を奏し、緊張していた空気が、一瞬だけ柔らかくなる。
「"······君にとっては?"」
別口から情報を得ようと、先生はリーダーへと質問をする。
リーダーは少しだけ黙り込んだ。
「······私達の新しい雇い主だ。それ以上でも、それ以下でもねぇ」
低い声だった。感情を見せまいとする、何かを圧し殺した声だった。
「金払いはいい。約束も守る。アビドス生徒に白々しい演技してこいなんていう、変な命令さえなければ優良だ」
「"なら、いい雇い主じゃない?"」
「普通ならな」
リーダーは首を横に振る。
「でも、あの人を見てると、自分まで実験動物になった気分になる」
歩きながら、リーダーは無意識に腕をさする。
「あの目が嫌なんだ。人を見る目が、完全に壊れてやがる。
怒鳴りもしねぇ。脅しもしねぇ。笑いはする。そんな不気味な大人で······逆らう気だけは綺麗になくなる」
ホシノが興味深そうに首を傾げる。
「怖いから?」
「違う」
即答だった。
「怖いっていうより······自分が何を考えてるかまで、全部見透かされてる気になる」
その言葉と同時に、吹き抜ける風が割れた窓を鳴らした。
リーダーはぽつりと呟く。
「『信頼なんて見えない絆はいらない。必要なのは目に見える結果だけ』──それが、あの人の言葉だ」
先生は少し考え込む。絆を否定しているにしては、ホシノからは一定の絆を感じる。
「"······ユニークな人だね?"」
「ユニークなんかじゃねぇ」
リーダーは苦々しく吐き捨てる。
「口が上手いだけだ。なのに、不思議と嘘を吐いてるようには聞こえねぇ。だから目を合わせたくない」
「······それでも従うんだね」
「契約だからだ」
短く答える。
「それに、生きるには金が要る」
ホシノは肩を落として苦笑した。
「うへ~······世知辛いねぇ」
リーダーは乾いた笑みを浮かべる。
「きっと私は、人間じゃない何かと仕事してるんだ」
その独白だけが、廃ビルの静寂へ吸い込まれていく。
先生は前を見据える。
「"······会えば分かる、ってことかな?"」
「会っても分からねぇよ」
リーダーは静かに首を振る。
「だから私は、あの人が怖いんだ」
やがて三人は廊下の突き当たりへ辿り着く。
そこには、他の部屋とは違う重厚な鉄扉が静かに佇んでいた。
リーダーは小さく息を呑み、その取っ手へ手を伸ばす。
「······この先だ」
喉を鳴らしながら、ゆっくりと振り返る。
「あの人が待ってる」
その瞬間、廃ビル全体が息を潜めたかのような静寂が訪れた。
まるで、この扉の向こうだけが現実とは異なる世界であるかのように。
重い鉄扉が、長い悲鳴のような軋みを上げながらゆっくりと開いた。
閉ざされていた空気が外へ流れ出す。
湿ったコンクリートの匂い。積もった埃の匂い。誰も寄り付かない廃墟特有の冷気が、肌を這うように三人を包み込む。
部屋の奥には、古びたデスクが一つ。
割れた窓から差し込む斜陽を背に、一人の異形が静かに立っていた。
こちらが部屋へ入る、その瞬間を最初から知っていたかのように。
異形──黒服は、ゆっくりとこちらへ身体を向ける。
スーツの裾を軽く払う。
ネクタイの位置を整える。
そして、一歩だけ前へ。
まるで舞台の幕が上がる瞬間を待っていた役者のように、寸分違わぬ所作で。
口元には、芝居がかった微笑。
「──ようこそおいでくださいました」
穏やかな声が、静かな部屋へ響く。
「本日は、このような場所まで足を運んでいただき──」
その瞬間だった。
ホシノの中で、何かがぷつりと切れた。
平静に努めようとしてたホシノの努力が無に帰したともいう。
「"······え?"」
先生の口から、間の抜けた声が漏れる。
隣にいたはずのホシノが、視界から消えていた。
違う、消えたのではない。
先生の認識が追いつかなかっただけだ。
次の瞬間には、ホシノは黒服の目前まで踏み込んでいたのだから。
「──っ!?」
空気が弾ける。
床を蹴った勢いのまま身体を捻り、迷いも躊躇もなく放たれる一撃。
容赦という概念を最初から捨て去ったようなドロップキックが、黒服の胸へ真っ直ぐ叩き込まれた。
鈍い衝撃音。
肺の奥まで響くような一発だった。
黒服の身体は紙細工のように吹き飛び、床を滑り、壁へと激突する。
「ぐっ······!」
背中がコンクリートへ叩き付けられる。
鈍い音が部屋いっぱいに反響し、その余韻だけが異様に長く耳へ残った。
先生は、その場で固まっていた。
敵の奇襲ではない。
罠でもない。
ホシノが、何の前触れもなく黒服へ飛び掛かった。
ただ、それだけだった。
リーダーは何も見なかったことにして、部屋をでて扉を閉じ、ホシノへ逆らわないことを誓った。
「ホ、ホシノ······さん?」
返事はない。
ホシノの視界には、もう黒服しか映っていなかった。
ゆっくりと立ち上がろうとする黒服へ、一定の歩幅で近付いていく。
先程までの眠たげな少女の面影は、どこにもない。
静かで。
冷たく。
そして、底知れないほど怒っていた。
「これは······また、随分と手荒い歓迎で──」
「一つだけ聞く」
黒服の言葉を、ホシノが切り捨てる。
その声は低い。
怒鳴っているわけではない。
だからこそ、先生の背筋に冷たいものが走った。
ホシノは止まらない。
カツ、カツ、と靴音だけが部屋へ響く。
「······これは、お前の仕業?」
黒服は壁へ背を預けたまま、ゆっくりと目を細めた。
「さて。『これ』とは、何を指しておられるのでしょう」
「答えろ」
「情報というものは、順序立てて説明してこそ価値が──」
「答えろ」
「"落ち着いて! まず話を──"」
先生が割って入ろうとする。しかしホシノは振り返らない。まるで先生の声が聞こえていないようだった。
先生は思わず息を呑む。
昼寝ばかりして。
面倒くさそうに笑って。
おじさんだから、と肩を竦める少女。
("
先生は突如として浮かんだ疑問に思考を遮られる。
しかし、そんなことはお構いなしに話は進む。
黒服は胸元の埃を軽く払い、乱れたネクタイを整えた。
「なるほど」
穏やかな口調だった。
「どうやら、この演出はお気に召していただけなかったようですね」
その一言が、決定打だった。
ホシノの眉がぴくりと動く。
「······演出?」
「ええ」
黒服は悪びれる様子もなく頷く。
「こうした場の雰囲気というものは、相手の心構えにも影響しますので──」
ホシノは最後まで言わせなかった。
散弾銃の銃口が、黒服の額へ叩き付けられる。
壁へ頭がぶつかり、小さな鈍い音が響く。
先生の心臓が大きく跳ねた。
「ホシノ!落ち着い──」
「今」
ホシノの一言だけで、先生の声は止まる。
ホシノは黒服だけを見据えていた。
「お前に許されてるのは」
静かな声だった。
怒りを押し殺し過ぎて、感情の輪郭すら見えない。
「言い訳か」
一歩。
「解説か」
また一歩。
黒服は壁際まで後退する。
それでも微笑だけは消えない。
いや、消せないのかもしれない。
「······そのどちらかだけだよ」
ホシノの指が、ゆっくりと引き金へ触れる。
「それとも」
銃口が額へ食い込む。
「私の鉛玉が欲しい?」
部屋から音が消えた。
先生は二人の間へ割って入るべきか迷う。
だが、張り詰めた空気は一歩踏み出すことすら拒んでいた。
黒服はしばらくホシノを見つめ──やがて小さく肩を竦める。
その笑みは変わらない。
けれど、先程まで芝居の一部だった余裕は、僅かに薄れていた。
「······なるほど」
ゆっくりと両手を上げる。
「順番を誤りましたね」
黒服は一度だけ息を吐き、芝居じみた調子をほんの少しだけ抑える。
冷や汗が滝のように流れている気もするが、勘違いであろう。
「結論から申し上げましょう」
「──シナリオが、崩壊いたしました」
黒服は両手を上げたまま、まるで今日の天気でも報告するかのような穏やかな口調で告げた。
その声音には焦りも、怒りもない。
ただ一つの事実を確認するような、あまりにも淡々とした響きだけがあった。
しかし、その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が目に見えない何かへ塗り替えられたように感じられた。
先生は思わず息を呑む。
──シナリオ
その言葉が何を意味するのか、先生には理解できない。
理解できないはずなのに、不思議と聞き流してはいけない言葉なのだと、本能だけが告げていた。
一方、ホシノは微動だにしない。
散弾銃の銃口は黒服の額へ押し付けられたまま。
引き金へ添えられた指も、一切揺らがない。
その視線だけが、『続きを話せ』と無言で命じていた。
その目線だけで、黒服には十分だった。
小さく頷き、上げたままの両手を少しだけ開く。
「説明を続けましょう」
その口調は、まるで講義でも始める教師のようだった。
あるいは、自らの研究成果を淡々と発表する学者のようでもある。
「二日前までは、全て理解可能な過程でした」
黒服はまるで黒板へ数式を書き並べるように、一つひとつ言葉を積み重ねていく。
「先生がアビドスへ赴任されること」
先生の反応を伺うように僅かな間を置く。
「対策委員会と出会われること」
そのまま、一定の調子を崩さない。
「廃校寸前のアビドス高校を救うため動き始めること」
先生は知らず知らずのうちに息を潜めていた。
黒服はなおも淡々と続ける。
「そして幾つもの障害を乗り越え、最終的に辿り着く結末まで」
そこで初めて言葉を区切り、先生を静かに見据えた。
「それら全ては、私が知る結果へ収束すると考えておりました」
先生の喉が小さく鳴る。
未来を知っている。
そう言いたげな口ぶりだった。
あまりにも荒唐無稽な話だ。
それでも、この男が冗談を口にしているようには到底思えなかった。
「もちろん」
黒服は一拍置き、穏やかな声音のまま続ける。
「多少の誤差は発生します。人という存在は意思を持つ以上、常に揺らぎ続けますから」
ゆっくりと人差し指を立てる。
「予定外の感情」
次に、中指を添える。
「予定外の出会い」
薬指が続く。
「予定外の選択」
そこで手を下ろし、小さく肩を竦めた。
「その程度の誤差は、あらかじめ織り込み済みでした」
わずかな沈黙が流れる。
部屋には風が窓枠を鳴らす音だけが響いていた。
「ですから、二日前までは修正可能な範囲だったのです」
黒服は笑みを崩さない。
「物語というシナリオそのものを壊すほどではなかった」
先生は思わず眉を寄せる。
「"······物語?"」
「ええ」
黒服は穏やかに頷く。
その笑みはどこか懐かしいものを眺めるようでもあり、貴重な標本を観察する研究者のようでもあった。
「あなた方は人生と呼びます」
視線は先生から外されない。
「ですが、私どもにとってはシナリオです」
その一言に、部屋は再び静まり返る。
誰も口を挟まない。
ホシノだけが、銃口を押し当てたまま黒服を見据え続けていた。
「ですから」
黒服は穏やかな調子を崩さない。
「私は急ぐ必要がありませんでした」
黒服は、わずかに間を置いた。その沈黙は思案ではない。
まるで、すでに結論の出ている計算式をもう一度なぞるような、確認に近い間だった。
やがて、何事もなかったかのように口を開く。
「先生という存在には、大変興味を抱いておりました」
静かな声だった。
だがその“興味”という言葉には、温度がない。
人に向けられる感情というよりも、未知の現象に対する観測記録のような響きがあった。
「ですが、それでも慌てる理由は存在しなかった」
黒服は淡々と続ける。
その語り口には、迷いも、揺らぎもない。
ただ確定した前提だけを積み上げていくようだった。
「先生のシナリオは、まだ始まったばかりだったからです」
その言葉に合わせるように、彼は視線だけで先生を一度だけ見やる。
評価でも観察でもない。
まるで“進行状況の確認”のような視線だった。
「いずれ私どもの期待する地点へ到達する。
そう信じるだけの根拠が、私にはありました」
そこで一度、黒服は小さく肩を竦める。
その動きは芝居じみていて、あえて舞台の所作をなぞっているようにも見える。
だが、そこに感情の誇張はない。
むしろ逆だった。
“感情がないからこそ、人間の動作だけを模倣している”ような、歪な違和感があった。
「ですので、私は少しずつ干渉する予定だったのです」
その一言だけは、わずかに重さを帯びていた。
計画を語っているというよりも、すでに失われた予定表を読み返しているような響きだった。
「先生がアビドスへ来られる」
わざとらしい一拍。
その間、黒服の視線は空中の一点に固定されている。
そこに誰もいないのに、何か“既に決まっている場面”を見ているように思えてしまう。
「先生の状況を観察する」
話す言葉は説明ではなく、順序だった記録の再生に近い。
「必要最低限の接触を行う」
「必要最低限の導きを与える」
「必要最低限の情報だけを提示する」
言葉が重なるたびに、部屋の空気がわずかに薄くなっていくような錯覚があった。
先生はその全てを聞きながら、無意識に呼吸を浅くしている。
理解できる内容なのに、理解してはいけない構造のように感じられた。
そして黒服は、最後の一文を静かに落とす。
「必要な局面でのみ、姿を現す」
そこで再度、黒服は視線を先生へ戻した。
その目は、今までと同じように穏やかだった。
しかし、“人を見る目”ではない。
何かを観察対象として固定したまま、そこに感情を挟まない視線だった。
「焦る理由は、どこにもありませんでした」
淡々とした断定。
その言葉に、時間の流れそのものが遅くなったような錯覚が生まれる。
先生は気づかないうちに息を止めていた。
この男は、アビドスへ赴任する以前から。
対策委員会と出会う以前から、まるで“すでに起きた出来事”として語っている。
未来を予測している、という次元ではない。
出来事そのものを“既知の結果”として扱っている語り方だった。
「······ですが」
黒服の声が、ほんのわずかに変質する。
音量は変わらない。
抑揚もほとんどない。
それでも、その一瞬だけ、言葉の奥に“ずれ”のようなものが混じった。
それは怒りでも動揺でもない。
予定外のノイズを検出したときの、純粋な認識の歪みだった。
「先日、その前提が崩れました」
黒服の視線は先生ではなく、どこか“遠く”を見ている。
部屋の音が消える。
風すら、一瞬だけ止まったように感じられた。
黒服はゆっくりと先生へ視線を戻す。
そこにあるのは、怒りでも困惑でもない。
ただ、“理解できない現象を前にした観測者の静かな確信”だった。
「先生」
その呼びかけに、先生は反射的に息を吸う。
次の言葉を待つ身体になっていた。
「あなたと、連邦生徒会防衛室長──不知火カヤとの会話」
その名前が落ちた瞬間、先生の肩が僅かに跳ねる。
黒服は、その反応を一切逃さない。
観察は継続されている。
そこに感情はない。
ただ“記録”だけがある。
「私は、あの会話によって一つの重大な事実を知ることになります」
先生は喉を動かし、ようやく声を絞り出す。
「"······何を?"」
その問いに対し、黒服は一拍置く。
その沈黙は演出ではない。
言葉を選んでいるのでもない。
“事実をどの順序で提示すれば、最も正確に伝わるか”を機械的に計算しているような間だった。
そして、静かに結論を提示する。
「SRT在校生──吉野ニコの従姉妹という双子が」
その瞬間、黒服の視線がわずかに揺れる。
「私の治験者の中に、存在していました──本来、
一瞬だけ、笑みが深くなる。
だがそれは喜びではない。
理解不能なものを前にした観測装置の、擬似的な反応だった。
「突如として、この世界へ発生したのです」
「······どういうこと?あの子たちがどうしたの?」
「そのままの意味です。しかし、これは私があなた方へ干渉を強めた理由であって、アビドス生の異変には関係ありません。ようは、二つの全く異なる問題が重なったため、説明しづらいのです」
「······納得できるとでも?」
「把握している部分は、後で説明します······今は、現状をより正確に把握するために、先生へ私から一つだけ質問を」
黒服は両手を上げたまま、まるで思い出したように付け加える。
その口調には先ほどまでの説明の続きというより、むしろ“最後の確認事項”のような軽さがあった。
廃ビルの静寂の中で、その声だけが妙に整って響く。
ホシノは諦めたように銃口を降ろす。
先生は黒服を見る。
視線を向けた瞬間、胸の奥に理由のない警戒が走る。
理屈はなく、ただ“この人物は危険だ”という前提だけが、最初から用意されているような感覚だった。
それを自覚した瞬間、先生はほんのわずかに違和感を覚える。
("どうして、危険だと思ったんだ?")
目の前の男は、今のところただ話しているだけだ。
敵対行動を取ったわけでも、明確に害をなしたわけでもない。
それなのに、最初から『敵として扱うべき存在』だと認識している自分がいる。
その不自然さが、頭の片隅に引っかかった。
黒服は、そんな先生の逡巡を待つように微動だにしない。
そして静かに問いを落とす。
「あなたには、私がどう見えていますか?」
その言葉は、試すようでも、探るようでもなかった。
ただ事実として、認識を確認しているだけの声だった。
先生は一瞬だけ言葉に詰まる。
怪しい。
危険。
そう答えるべきだという結論だけが、すでに頭の中に用意されている。
しかし同時に、その“結論が最初からあること自体がおかしい”という感覚も、確かに存在していた。
先生は短く息を吐く。
「"黒い顔を持った、人間とは思えない見た目で······なんか、最初から『敵みたいに思え』って言われてるみたいで"」
そこまで口にして、先生は自分の言葉に一瞬だけ違和感を覚える。
黒服は表情を変えない。
ただ、黒服の視線だけが静かに先生へ向いている。
「"でも······"」
先生は言葉を続ける。
「"
そこで一度、言葉が途切れる。
確信と違和感が同時に存在している。
その矛盾をうまく説明できないまま、先生は小さく肩を落とす。
黒服はわずかに目を細める。
それは納得でも失望でもなく、ただの記録の更新のような動きだった。
「ありがとうございます。先生」
黒服は穏やかにそう言うと、わずかに目を細めた。
それは礼儀としての感謝というよりも、得られた回答を静かに分類するような反応だった。
「これこそが、小鳥遊ホシノへの回答になります」
その言葉に、空気が一段階だけ重くなる。
ホシノの眉が、ほんの僅かに動いた。
先生も思わず眉をひそめる。
「······どういうこと?」
黒服はすぐには答えない。
一拍、まるで“説明の順序”を整えるような間を置く。
そして、静かに視線をホシノへ向けた。
「貴女には以前、少しだけお話ししたはずです」
その声音は変わらない。
だが、その内容だけが妙に現実から浮いている。
「──“雷帝”と、“地下生活者”が手を組んでいます」
その一言が落ちた瞬間、廃ビルの空気がさらに冷えたように感じられた。
先生には、その名称の意味がすぐには結びつかない。
「うへ~·········違う可能性ないかなって期待したんだけど」
だがホシノは、理解したくないという面持ちだった。
無意識のうちに、ほんの一瞬だけ、銃を再度身構えていた。