【1994】
◇
視界に映る夜の街の景色が塗り替わり、燦々と輝く太陽の光が降り注ぐ荒野へと姿を変える。陽光を受け黄金に輝く砂が見渡す限り一面に広がる金世界、地平線まで続くそれはライダー・イスカンダルが持つ固有結界。彼が生前駆けてきた世界、最果ての海オケアノスを目指した征服の風景そのものだ。
「アイリスフィール、私の背後に」
己がマスター、アイリスフィールを守護するように、セイバーは一歩前に出て剣を構えた。相対するは万の軍勢、死してなお征服王に付き従う勇士たち。それらの威容は、セイバーから見てただの兵士一人取ってもサーヴァントとして成立しうるほどである。
『
生前、万を超えるピクト人やローマ兵を相手にしてきたセイバーにとって、数の大小は脅威ではない。彼女の持つ星の聖剣は対城宝具、それは地平全てを薙ぎ祓い『
軍団とは、単なる武装した集団ではなく指揮が行き届く集団のことを言うのだ。現代において軍事兵力の三割の消耗が全滅と扱われるのもそれが理由だ。軍とは三割を消耗した時点で、もはや統率を失い軍としての体を失うのだ。
故に、いかな征服王イスカンダルであってもそれが『王の
アイリスフィールは優れたマスターだ。莫大な魔力消費量を誇る聖剣も、彼女の魔力量ならば連続で数回、少し間を置けば二桁台まで解放可能。できないことはない。
(だが敵は騎兵、隙を見せればマスターに危険が及ぶか……?)
ライダーが両刃剣を掲げて号令をかけた。その野太く雄々しい声が戦場に轟くと、土煙を上げて戦士たちが進軍する。
敵はたった一人の騎士、だが侮ることなかれ。その騎士は一人にして万の軍勢に勝る、赤き竜の化身であるのだから。
「セイバー、私のことは良いわ。行ってちょうだい」
迫る敵軍に一切怖気づくことなく、アイリスフィールはセイバーの背中を押した。“しかし”と言い淀むセイバーに対し、彼女は決意の籠もったその赤い瞳を向ける。
「どうか私たちに、約束された勝利を」
澄んだ瞳だ。生前セイバーの側にいた、理想に目を焼かれた盲目的な臣下たちのような曇った目ではなく、真に対等であり、セイバーを心の底から信頼するような瞳。
その視線の先、真っ赤な鏡には、少女なれども清廉なりし騎士の姿が映っている。花のように凛として、鋼のように硬い意志を思わせる立ち姿。セイバーには一瞬それが自分だとは思えなかった。だが、アイリスフィールの目に己がそう映っているのだとすれば。
「──はい、マスター」
彼女はその期待に応えてみせよう。
主の激励を受け、騎士もまた駆け出した。
セイバーに万の軍はない。けれど、少なくとも彼女には一人、頼りになるマスターがいるのだ。大軍を前にしようとセイバーには、己を信じてくれる彼女一人で十分だった。
「『
嵐のドレスを纏い、黄金の髪を靡かせ敵中へと躍り出る。砂塵を巻き上げ解かれた不可視の鞘から、星の剣が姿を現した。セイバーが聖剣の柄を強く握りしめると、彼女の意志に応えるかの如く光が迸る。
「私を小娘と言ったな、征服王ッ!」
天に昇った騎士の姿を、夢に焦がれた
征服王が見せた夢──最果ての海オケアノス。彼らは共にその景色を見ようと、東へ東へと突き進んだ。たとえ生前にその誓いを果たすことなく夢破れようとも、信じたその路は決して嘘でも幻でもなく、本物である。
そうであるからこそ。
「ならば貴様は、小娘以下と知れッ!」
騎士王が人々に見せた理想もまた、決して偽物でも間違いでもなかったのだ。
理想もまた夢と同じく、形なきものだ。理想があろうと腹は膨れぬ、飢えは消えぬ、寒さはしのげぬし、病も治せぬ。理想は現実にないからこそ理想であり、現実にある不幸を上書きすることなんてできやしない。
けれど、それでも、人は心に夢や希望を抱くからこそ、人たり得るのだ。
理想なき人など、ただの獣である。
夢なき人など、ただの屍人である。
そこに格の違いなど語れるはずもない。故に今、この場で二騎の英霊に勝敗をつけるのは。
「『
人類誕生前からの自然界の絶対ルール、弱肉強食──つまるところ、純粋な強さをおいて他にない。
「『
かくて、少女の手に束ねられた理想の光が、地上全てを蹂躙せんと邁進する征服王の軍勢へと降り注いだ。
◇
エクスカリバー、伝説において騎士王が振るったとされる黄金の剣。物語上同名のものが二本登場するが、その剣にはこのような逸話が存在する。
曰く、引き抜いた者はブリテンの王となる。
曰く、決して刃毀れせず、あらゆるものを両断する。
曰く、その鞘はあらゆる傷を癒し、呪いを防ぎ、持ち主を不老不死にする。
そして曰く、その剣身は千の松明を束ねた程の輝きを放つと。
「なにが松明だよ、こんなのもはやビーム兵器じゃないかぁ……っ!」
降り注ぐ光の帯を避け、雷と共に宙を駆ける戦車の上でウェイバー・ヴェルベットが憤懣籠もった声で吠えた。
千の松明だなんて、過小評価も良いところだ。あれはまるで太陽の光そのもののようじゃないか。触れたもの全てを焼き尽くす光を目にしたウェイバーは、蝋の翼で太陽に近づき焼き焦げたイカロスのような気分だった。
彼のサーヴァント、イスカンダル──アレキサンダー大王も小男だなんて言われてたくせに実際は大男だったし、伝承なんてまったく当てにならないものだ。あれをたかが松明を単位に例えようなんて行為がそもそもナンセンスである。
騎士王が放つ聖剣の一振りで、長い長い光の雨が地上に降り注ぐ。威力もそうだが、何より一撃の持続時間が異常だ。SFにあるビーム兵器、というよりもレーザー光線といったほうが例として正しいかもしれない。
矢も銃もその威力は瞬間的なもので、一度当たってしまえばもう持続することはない。けれどあれはそんな瞬間的なものではなく、まるで大津波のように連続した攻撃だ。一度避けても、その流れに飲まれてしまってはどうしようもない。
だからこそ、ウェイバーの隣で手綱を握るライダーには一度のミスも許されないのだ。
「坊主、頭を引っ込めておれ。お主の唯一の取り柄がポロっと戦車の外に落ちても余は拾ってやらんぞ?」
こんな状況にあっても豪快に笑い飛ばすところは流石大王と呼ばれた男だ。もともとオケアノスというあるかどうかも分からぬロマンに取り憑かれた男だから、敵が派手であれば派手であるほど滾るのだろう。
「唯一ってなんだ、唯一って! だいたい僕の心配なんかしてる場合じゃないだろ! 余計なお世話っ……お、おわ──っ!?」
ライダーの戦車『
「くそぅ、シートベルトとかないのかよ!」
「たわけ! 戦車に
神牛の駆る戦車は宙を征き、見えない道のインコースを攻める。とても古代の戦車とは思えない華麗なドリフトをかますライダーの直ぐ側を光柱が貫き、靡いた赤いマントが焼け焦げた。
「しかし騎士王め、先の会合の
“ちと焚き付け過ぎたか?”と首を傾げるライダー。だが手綱を握るその手は少しも揺らぐことはない。豪快にして繊細な操作で聖剣の光を紙一重で避けていく。
「それにしても変わりすぎだ! 少なくとも、セイバーはあんなバンバンビームぶっ放すヤバい奴じゃなかっただろ!」
「うむ! 余もまさかあやつめの真価が騎士としての能力ではなく、砲兵としての能力にあるとは見抜けなかったわ!」
ぽかぽかと威力不足なパンチで肩を殴ってくるマスターに、ライダーは返礼としてバシンバシンと背中を叩いた。ウェイバーは“ごふっ”と呻き、反撃の痛みで撃沈した。
セイバー、騎士王アルトリアは剣士のクラスであるが、しかし剣技で名を馳せた英霊ではない。その真価は聖剣の威力そのものにあるのだ。純粋な白兵戦能力で言えば、彼女は率いた部下たちに一歩劣る。筋力は太陽の騎士に、技量は湖の騎士に。
「しかしううむ、やはり欲しいな。あれほどの火力があれば、あのいけ好かぬ金ピカともまともにやりあえそうなものだが」
「まだ言ってるのかよお前、もう諦めろよ」
ライダーは征服王の名の通り、ありとあらゆる行為の根底に『征服』を置いている。だからこそ敵サーヴァントであっても、下して己のものにしようとする。ウェイバーは、目の前の起源が『征服』の二文字なんじゃないだろうかと疑っているが、それは定かではない。
「何を言うか、セイバーを余の戦車に乗せればそれはもう陸上戦艦だぞ? アドミラブル大戦略で言えばコスト一千超の戦略兵器ユニットになるのだぞ? B-29爆撃機にも引けを取らんのだぞ?」
「知らないよ!」
確かに、空を飛ぶライダーの戦車の後ろにビームを放つセイバーが乗ればそれはもう最強だろう。戦車というのは得てして体当たりが基本攻撃であり、遠距離攻撃に乏しい。守りの戦車と攻めの聖剣が揃えば、矛盾を乗り越えた最強の盾と矛が揃ったも同然なのだ。
「ら、ライダー! 前見ろ前!」
「ぬぅ──ッ!」
口は災いのもと。セイバーを戦車の外部パーツかのように扱ったのが悪かったのか、幾度目かの聖剣の光が真っ直ぐライダーへと伸びる。
間違いなく直撃コースだ。これが地を駆る並みの戦車ならば、横に避けようとも避けきれなかっただろう。
「坊主、しっかり捕まっておけ!」
だが、彼の戦車は宙を駆る。手綱を真っ直ぐ上に引けば、車体が上向きに、まるで川を遡上するかのように光の橋を登り始めた。
物理的な運動法則を無視した軌道、それを可能とするのはおそらく令呪、それも一画を能力の底上げに使用したからだろう。
ウェイバーは小心者だ、自分が戦場において冷静に状況判断をするタイプではないと自覚している。だからこそ、彼は常に戦場の外で行われる準備に気を使うのだ。戦闘前の令呪使用という判断も、その一環である。
「丁度良い、このまま突っ込むとしよう!」
「は、はぁ!? 待て待て待て、敵の魔力が尽きるのを待った方が──」
「悠長に戦っておれば余の軍勢が尽きる。その前に、やつを大地に叩きつけてやらねばならん!」
きゃんきゃんと子犬のように吠えるマスターの頭を押さえつけ、ライダーは天に座すセイバーに向けて戦車を走らせる。
「征くぞ騎士王よ、我が覇道を見るが良い!
ライダーが咆哮を上げれば、戦車はそれに呼応し雷撃を放つ。その殺人的加速度に見舞われたウェイバーは内臓をかき回されるような感覚に吐き気を催すも、しかとその目に二人の王の姿を焼き付ける。
「来るか征服王、ならば私はその覇道を迎え撃とう! 『
ウェイバーとそう歳が変わらないか、あるいは下の年齢にしか見えない英雄が剣を振りかぶる。聖剣はその名の通りの勝利を担い手に捧げるべく、再び熱を帯びた。
(まずい、このままじゃ直撃だ……!)
戦車の速度から接敵までの時間を算出したウェイバーは、それが聖剣の再装填に間に合わないことを悟った。このまま行けば、ライダーと自分は光の中を突っ切ることになる。
打開のため、彼はその手に宿る令呪を握り締めた。時計塔に自分の価値を認めさせるために参加したウェイバーにとって、聖杯戦争の参加者の証たる令呪はその証明だった。けれど今ではそれは、ライダーの隣に座るための資格でもある。
残る令呪は二画だ。故に、ウェイバーの胸の内に迷いが生まれる。
使うべきは一画か、二画か。
二画であれば、聖剣の光を突っ切って肉薄することもできるかもしれない。だが、その際の消耗は回復不可能なものになる可能性が高い。何よりも、ウェイバー自身が耐えられず焼き焦げてしまうかもしれない。ライダーの戦車に身を潜めたとして、あの光から逃れることは果たして可能だろうか?
何よりも、この先にはアーチャーとの対決が控えている。令呪を全て失うのは避けたかった。
そして一画であれば、突撃はできずとも今すぐにここから転移して戦闘から離脱することが可能だ。ここは臥薪嘗胆の構えで、次の戦闘に勝機を見出すか。
ウェイバーは迷った。そしてその迷いに費やした一瞬は、この戦場においては致命的な隙だった。
「『
ウェイバーが令呪に命ずる前に、既に目の前には光が迫っていたのである。
「令呪をもって──な、ライダー……っ!?」
そしてウェイバーの視界が白い光に飲まれる前に、彼はライダーの腕に突き飛ばされた。
真っ逆さまに地面に落ちていくウェイバーが最後に聞いたのは、光の中で燃やされながらも果敢に吠えるライダーの声で。
「──AAAALaLaLaLaLaieッッッ!!!」
そして最後に見たのは、光の中で剣を振るい、しかし紙一重で敵を斃すこと能わず。燃えて塵と消えながらもセイバーの左腕を奪って見せた王の姿だった。
◇
「申し訳ありません、アイリスフィール……」
ライダーの固有結界が解かれた夜の街の中、左腕を失った肩を抱いて、セイバーが面目なさそうに告げる。
ライダーに勝利した。だが同時に、セイバーは敗北したも同然だった。
両手がなくば、聖剣は使えない。聖剣が使えなければ、アーチャーには勝てない。ランサーによって呪いの傷を受けたときとは話が違うのだ、失った腕は、たとえ令呪を使おうと戻ることはない。
最後の瞬間、直感が働かなければ切られていたのはセイバーの首だっただろう。ライダーは命と引き換えに、セイバーをサーヴァントとして殺して見せたのだ。
「良いのよ、セイバー。ライダーは強敵だった、傷を負うのも想定内だもの」
「ですが、このままではアーチャーに」
勝てない、そう思うのも無理はない。アーチャーは数え切れぬほどの宝具を所有する英霊だ。これに対抗するには同じく同等の数で応えるか、あるいは究極の一で対抗するかの二択。そしてセイバーが持ち得るのは究極の一だけだ。
しかし、片腕を失った今ではその一は失われた。この状態でアーチャーと相対すれば、反撃する間もなく蜂の巣にされて終わりだ。
「セイバー、手を出してちょうだい」
「……?」
険しい表情で思い悩むセイバーに対し、アイリスフィールが穏やかな表情で手を差し伸べた。不手際をしたサーヴァントを叱っても良いだろうに、彼女は慈母のように微笑みを浮かべている。
「ほら、早く」
急かされるまま、理由も分からずセイバーは手を出した。
「これは──!?」
甲冑が解かれ、露わになったセイバーの片腕に光が灯る。それは徐々に形を成していき、やがて見覚えのあるものへと姿を変えた。
「『
「なぜ、あなたがこれを……」
失われたはずの聖剣の鞘。今の今までアイリスフィールの体内に秘められていた黄金に輝くそれが、ついに本来の持ち主へと返還された。
「なぜと言われても、アインツベルンが頑張って発掘したからと言う他ないわね」
金持ちアインツベルンの名は伊達ではない。彼らは大惨事になった第三次の反省から、血眼になってコーンウォールの湖の底からそれを発掘したのだ。捜索、発掘にかかった費用は、もはや天文学的な数字である。
「まさか! マーリンでさえ見つけられなかったというのに、そんな簡単に……?」
持ち主を不老不死にし、あらゆる傷、呪いを受け付けないという破格の効果を持った鞘だ。生前それを失ったとき、当然だがセイバーも必死に捜索した。現在全てを見通す眼を持ったマーリンの力を借りて。
けれど、それは結局見つからなかった。聖剣の鞘は星の内海に浮かぶアヴァロン島そのものであり、それは凪いだ水面の権能を持つ。つまるところ、鏡であるそれはありとあらゆる魔眼の要素を受け付けないのだ。したがって探し物がマーリンの眼に映ることはなく、では物理的に探そうと試みても、魔女モルガンが隠したそれを円卓は誰も見つけることができなかった。
さもありなん、そもそも術者であるモルガン本人をついぞ捕まえることができなかった円卓が、どうして彼女が本気で隠した鞘を見つけることができようか。
だが、現代になってアインツベルンはそれを発見した。千五百年も経てば、魔女の封印も解かれたのだろう。時を超えて、鞘はセイバーの手に舞い戻ったのだ。
「預かります、マスター。聖剣の鞘よ、今再びその力を示せ……『
真名を告げれば、セイバーが生きた時代に満ちていた神秘以上のモノが体の内側に溢れた。地上から既に消え失せた神代の空気が、赤き竜の化身の身を癒していく。
切り落とされた腕はみるみるうちに再生し、もとの白く美しい腕に戻る。ライダーが命を賭けて奪った腕をただの一瞬で癒やしてみせる、あまりにも法外な能力。もはや権能の域にあるそれは、一個人が持って良い力ではない。
かつて、聖剣の真価は鞘にあると魔術師マーリンは言った。セイバーはそのときは剣にこそ真価があると考えたが、今まさにその効果を目の当たりにしてみれば、その考えは改めざるを得ない。
手を握ったり、開いたりしてみても違和感はない。鎧を纏い、剣を振るっても問題はない。時間が巻き戻ったかのように、セイバーの傷は完治していた。
「ありがとう、アイリスフィール。これならばきっとアーチャーにも」
勝てる、そう言おうとしたその時、セイバーの目の前でアイリスフィールの体が揺らめき、大きく傾いた。
「アイリスフィール!?」
慌てて彼女を抱き留める。息が荒く、高熱を発しているのか体が異常に熱い。まるで炉で熱せられた鉄のような熱さは、人間という生き物がおよそ耐えられる温度ではない。
「アイリスフィール、アイリスフィール! どうしたのですか、目を、目を開けてください……!」
セイバーは悟る。聖杯戦争が終われば終わる命、不自然な胸の痛み、そして、何故今の今まで鞘を所有していることを黙っていたのか、その理由を。
彼女の体はとっくに、ナニかに侵されていたのだと。
「『
騎士としての体裁をかなぐり捨てた少女の慟哭が、
「なぜだ、どうして、鞘はあらゆる傷を癒せるはずなのに……!」
それは生命の権能、古今東西に語られる理想郷の逸話そのものだ。アヴァロン、ティル・ナ・ノーグ、アルカディア、エデンの園、ヘスペリデスの園、桃源郷……いずれにせよ、それは
人からモノへと変わりつつあるアイリスフィールの魂、その変化を抑制することはできても、時間を巻き戻すことは不可能なのだ。
「セイバー、良いのよ……私は、これで正常なの。だから、あなたはアーチャーとの戦いだけを考えて……」
セイバーは苦しそうに顔を歪めるアイリスフィールを抱き上げ、風を背に受け駆け出した。目指す先は、生涯己を追い詰めた魔女の座す場所だ。
「良いはずがない……っ! どうか気をしっかり保ってください。モルガンなら、姉上ならばきっと何か、あなたを治せる手立てがあるはずだ!」
セイバーには魔術のことなどてんで分からない。マーリンは優れた魔術師であったが、セイバーは風の魔術と剣の腕、そして帝王学を教わったのみで、神秘の何たるかは十分に教わらなかった。故に、それを学んだ姉弟子にして半分血の繋がった姉の彼女ならば、『
「こうなることは、生まれる前から決まっていたのよ。それにね、今さら足掻いたってもう……」
「遅いなんてことはないはずだ、アイリスフィール。あなたは今を生きているのだから、たとえ運命がその滅びを定めたのだとしても、生きることを諦めて良い理由にはならない……!」
アイリスフィールは言った、これが初めて見る外の世界だと。冬の城に閉じ込められていた彼女は、生まれて初めて自由を得たのだ。一月にも満たぬ、ほんの僅かな間の自由を彼女は生き生きと楽しんでいたではないか。
ならば、たとえその果てに死が待ち受けていようと、セイバーが足を止めることはない。
「たった今決めた。マスター、聖杯戦争の果てにあなたが死ぬと言うのならば、私は聖杯など求めない……!」
英霊アルトリアにとって、今を生きる人の未来が奪われることなど、一人の少女の明日が奪われるようなことなど、決して認められることではないのだから。
◇
夜間、一人の老人が誰もいなくなった洋館の中を徘徊している。洋館の持ち主たる遠坂が仕掛けた、侵入者に対するあらゆる魔術式は老人に対して機能しない。何故なら彼──隻腕となった言峰璃正は第三次聖杯戦争の頃から遠坂家と友誼を結んでおり、対侵入者用の魔術式の対象からは自動的に除外されているのだから。
聖杯戦争の本来の監督役である彼の日常は、その役職とは裏腹に穏やかなものである。というのも、本来彼の担うべき役割をどこぞの魔女が奪ってしまったものだから、彼のすることと言えば遠坂の陣営が勝利することを祈り、そして己の息子たる言峰綺礼が無事に生還することを祈るくらいであった。
「……やはり、無人か」
老人は一人、洋館の廊下で呟いた。
屋敷一帯を見回っていたが、この屋敷には今人はおろか使い魔一匹存在しなかった。おかしな話だ、魔術師たる者が己の城とも言うべき工房をぬけぬけと無人にするはずもない。
そもそも、遠坂時臣は自分から打って出るような役柄ではない。常に余裕を持って優雅たれの家訓通り、チェスの差し手が盤面の外にいるように、彼は常に戦場の外にあって全てを見通そうとする人物であった。屋敷を留守にすることなど、尋常のことではない。
璃正は屋敷を出ると、夜空に浮かぶ月を眺めた。月には人を狂わせる力があるというが、こんなにも月光が眩しいと、地上で何か良からぬことが起きているのではないかと思わざるを得なかった。
ルーラーにより制裁を受けてから、璃正は時臣と綺礼との連絡が取れていない。故に今、彼らが何をしているのかを断片的な情報から判断するしかなかった。
残るサーヴァントは二騎だ。彼の息子が喚び出したアサシンはとっくの昔に敗退しており、そして盟友遠坂時臣が喚び出したアーチャーは生存している。そして生き残ったもう一騎はセイバーで、そのマスターはアインツベルン。つまるところ、この戦いはアインツベルンと遠坂という御三家同士の対決で幕を閉じることになる。
璃正にとって望ましい結末は、遠坂時臣が勝利することだ。彼の目的は聖杯という手段でもって『 』への道を開くことであり、その願いは教会の教義と抵触せず、そして周囲に破滅をもたらすこともない穏当なものだ。
一方アインツベルンの願い、第三魔法『
第三は紀元前夜に消え、第一はその直後に生まれたという。その成立時期から察するに、魔法は神の子と関係していると言われているが、定かではない。だが三番目の名がヘブンズフィール、すなわち『
それが達成されたとき、『
かつて地上の人々は不遜にも『 』に挑戦し、天高く伸びるバベルの塔を築き、その傲慢さにより塔は砕かれた。退廃都市ソドムとゴモラはその堕落によって全てを焼き払われた。
ならば人類が不老不死という禁忌を手にしたとき、一体どのような試練に直面するのか。人は知恵の実を喰らい、原罪を背負って楽園を追放された。その際に生命の実を喰らうことを禁じられているのだ。およそ魔術師が言うところの世界の剪定が起こるか、あるいは『 』が人類に最後の試練を下すかもしれない。
「……いや、『 』を推し量ろうなどと傲慢にも程がある。まったく何を考えているのだ私は」
きっと月の光に惑わされたのだと、彼は頭を振ってその思考を霧散させた。
こうも嫌な予感を覚えるのは、きっと我が子の安否が未だ分からぬためであろう。
彼が齢五十を超え、跡継ぎを諦めかけていたそのとき、ようやく彼のもとに来てくれたのが息子たる言峰綺礼だ。もはや孤独に老いぼれ死んでいくだけだったはずの璃正が初めて、愛するべき家族を得ることができたのである。
だから、璃正にとっては生涯を捧げた信仰と比肩するほどに、息子を愛さずにはいられなかったのだ。
「綺礼、お前は今、どこで何をしているのだ……」
その言葉に返事はない。老人の呟きは夜の闇に消え、冷たい風に揺れる葉の音だけが辺りに響くのみである。
味覇くんは固有結界から弾かれて生還しました。