『すべての国家権力は、個人の自由と権利を擁護する一点において、はじめてその存在を認められる』
自由惑星同盟最高評議会議長 ヤン・ウェンリー
……宇宙暦八二三年、バーラト星系第四惑星ハイネセンからフェザーン星系第二惑星フェザーンに政治的中枢を移した
同盟が息を吹き返した転機は、宇宙暦七九九年におけるバーミリオン星域会戦であったと、後世の歴史家は口をそろえる。すなわち、全戦線への艦隊展開により雄途に就く銀河帝国軍を、寡兵にて退けた同盟軍の奇跡の勝利。その決勝点こそが、ヤン・ウェンリー提督率いる一個艦隊による、銀河帝国軍元帥ラインハルト・フォン・ローエングラム率いる本営艦隊への奇襲であった。乾坤一擲の同盟軍は激闘の末に、帝国軍宇宙艦隊総旗艦ブリュンヒルトを撃沈。同艦座上のローエングラム元帥は一命をとりとめるも意識不明の重体となり、指揮系統と補給線に麻痺をきたした帝国軍は完全撤退を余儀なくされた。以降、銀河帝国は元帥府諸提督による政争に明け暮れ国家体制は分裂。彼らは毒を盛られたかのごとく弱り果てたのである。他方で薄氷の勝利を勝ち取った同盟は、名声を得たヤン提督の下で国防力を回復。自由の旗を仰ぐ民主共和政体は、不死鳥のごとき復活劇を遂げるに至った。
かくして。以降も少なからぬ政治的変遷を経ること四半世紀。足掛け一七〇年にもわたった同盟対帝国――二大勢力の国家主義戦争などという古びた価値観は終焉を迎え、時代は新たな局面をむかえていた。その象徴こそが、同盟の最高権力にまで押し上げられた救国の英雄ことヤン・ウェンリー率いる自由惑星同盟新政権であることは論を俟たない。
ヤン新政権は、絶対的な民衆支持を背景に、同盟のあらゆる国家機構を刷新した。その手腕は、さながら魔法。艦隊司令官時代に謳われた「魔術師ヤン」の異名は、旧首都ハイネセンポリスが支配した同盟政財界という戦場においても存分に示された。剛腕議員シェーンコップや政商コーネフの影がうごめいた、などとまことしやかに語られるも、いずれにせよヤン・ファミリーと呼ばれる出自人材の面目躍如というべきだろう。
議長としてのヤンは、ことあるごとに「個人」「自由」「権利」とつぶやいた。個人の自由と権利とは、こういうものであって……。個人の自由と権利こそが、たいせつなものであって……。彼の弁舌や立ち振る舞いは世辞にも政治家の水準に達していなかった。元軍人であるのに雄々しさ凛々しさとは無縁で、万事に理屈じみており、そのうえ(穏当な正論だとしても)論客や政敵を言い負かしてみせるなどの痛快さはなく、情熱で訴えるべき政治理念すらも語るときはぼそぼそというかうつむきかげんというか、それでいてヒートアップした支持者には露骨に嫌悪感を示して冷や水を浴びせる発言をする始末である(それが良いとする支持者も根強いが)。しかしそれら欠点を補って余りある英雄的実績と、政策通キャゼルヌ率いる実務チームによってヤン政権は危なげなく成立していた。
首から上は深慮遠謀のヤン。
首から下は即断即決のキャゼルヌ。
事実、ヤン政権下での政策実行はキャゼルヌの独壇場であった。ヤンの喋り方からは不可思議にも思える高支持率も、市民の息をつかせぬキャゼルヌ流同盟改革劇によるものであった。いわゆる「四つの自由化」である。
選挙制度改革により腐敗金権政治を破壊した「政治の自由化」。規制緩和政策により財閥寡占市場を破壊した「経済の自由化」。通信技術開放により既存報道機構を破壊した「信条の自由化」。そして……。軍事防衛改革により同盟軍の肥大化傾向を破壊し、その任務の多くを営利企業に競わせた「軍隊の自由化」。これらにより同盟社会は革命的変化を遂げ、ヤンが唱えてキャゼルヌが実行する「自由化」は遍く銀河に広まりつつある。
ヤン政権は二期目の半ばを迎え、盤石の長期政権に見えた。
ヤン自身は慣例により三期目を固辞するにせよ、ヤン路線の本流たるキャゼルヌが次期議長に収まるのは日を見るよりあきらかであった。そのうえ、ヤンの養子として薫陶を受けたユリアン・ミンツ国務委員会次席委員や、改革途上にあった新生同盟軍を過不足なくまとめ上げたスーン・スールズカリッター統合作戦本部長をはじめとして、次代政権の陣容も底堅いものがある。
しかし長期政権への真なる審判は、果断の熱狂が冷め、実行の裏や負の側面に視座が投げられかけたときに時に初めて下されるものである。彼らの判断が、同盟の未来にもたらしたものは何か。そして代償として、何を切り棄てたのか。
それは皮肉にも、ヤンが引退後にライフワークとすることを望む「歴史の検証」と同じように……。
『うそつきヤン! くびきりキャゼルヌ! たすけてトリューニヒト!』
『個人の自由と権利 ← おまえのせいで壊れた』
自由惑星同盟旧首都ハイネセンポリス グエン・キム・ホア広場の落書きより。
あれはハイネセンポリスの、グエン・キム・ホア広場の、年末炊き出しに並んだ寒空の夜のことだったか。怪しいくらいに羽振りのいい人間の、あんなうさん臭い求人に引っかからなければよかったんだ。せっかく良い大学を出たのに、出世の道をふいにして定職がなくても、自分一人ぐらい食いつなげればなんとかなったのに。貧すれば鈍する、か。
「これより! 成績報告っ!」
粗暴に響く大男の銅鑼声が、青年の意識と鼓膜をつんざく。
周りは無機質な事務室。所在地は宙域にして旧帝国貴族領外延部の、とある小惑星基地。ここは青年の職場で、作業着の若者が二〇人。そしてこの職場は民間軍事請負業者。業務の「やりかた」はしごき軍隊とギャングの合いの子であり、現場のリーダーである戦務長が繰り出す顔面へのパンチは「みなさん、おはようございます」の意味であった。
「損失三八! てめえやる気あんのか!」
一発目の挨拶である。瘦せぎすの眼鏡男。拳をくらう。
「損失四三! 最前線でなあ! 帝国の残党と戦ってなあ! ガキが死んでんだよなあ! てめえの指揮で!」
二発目の挨拶。ギャングくずれ。鼻が曲がったらしい。
「損失九〇! カス! ゴミ! てめえが死ね!」
三発目。殴られたのは肥満体の男だったが、壁までふっとばされる。人目をはばからず泣きべそをかきはじめた。新入りは大抵こうなってしまう。無論、死なないだけ御の字なのだが。
そして幾たびかの「みなさん、おはようございます」が飛び交った後、戦務長はのっしのっしと巨体を誇示しながら、青年の前に立つ。そして。
「部隊の損失は――」
青年には、どういうわけか挨拶は飛んでこない。
そればかりか、戦務長は満面の笑みで青年の肩をたたいた。よくやったと、まるで労をねぎらうかのように。恐怖を振りかざして部下を統制する悪漢のくせに、それはもう不気味なほどににこにこであった。
「損失ゼロ。
そうこうするうちに定例報告は終わり、一同は標語を唱える。背筋を張って誠意を込めて、腹から声を出す。
圧制! 倒せ! 帝国! くたばれ!
自由! 守れ! 同盟! ばんざい!
……そんな一本調子の、中身のない叫び声。楊青年にとってはとりわけ共感もしない、もう一年は唱えて久しい標語。それは事務室に壁掛けされた肖像画に――同盟軍制服を着こなした若き日の救国の英雄、ヤン・ウェンリーに捧げられていた。
民間軍事請負会社。それはヤン政権主導の「軍事の自由化」によって生まれた新市場を争う新興企業群である。金銭契約で動く派遣戦力。ひらたくいえば傭兵であり、西暦地球史においてはむしろ、主権国家が保有した常備軍の歴史よりもはるかに長く普遍的であった。
そのような営利組織が、同盟対帝国なる巨大な二項対立が崩壊したことと合わせて、軍縮の世相とともに脚光を浴びたのは自然の流れと言えるだろう。同盟軍はスリム化と職業軍人化を推し進めることで即応性と練度を高め、自由の旗の下に解放すべき旧帝国貴族領辺境部においては前述の民間軍事請負会社が先兵となって、
軍事の天才ヤン・ウェンリーは、戦争の本質を見通す才覚ゆえに、誰よりも戦争の不条理性を理解していた。ゆえに彼は戦争を終わらせて「個人の自由と権利」の時代を築きつつある。今現在、我々の享受する豊かさこそが、現在のヤン政権のもたらしている「平和の配当」であろう……。云々。
『紙の本が、おすきなんですね』
静謐な、それでいて年端もいかない少女の声。
読書に没頭していた
そこは外航商船改造式の戦闘艇母艦の管制室。楊青年はたしかに艦長であり戦闘艇部隊の指揮官なのだが、彼の艦は世辞にも褒められたものではない。管制室は軍隊仕様とはかけはなれており、建設現場の足場やら民生品の計測器やらで間に合わせの設備に囲まれた、さながら即席の檻。艦中枢にもかかわらず一人乗りしか想定されていない切り詰めた造り。艦内容積はすべて戦闘艇の整備運用能力に割り当てられているためだ。戦闘艇さえ帝国残党部隊に投げつけられればよしとするような、名ばかり指揮官にふさわしい巨大な棺桶。防護機能や機動性はもちろん劣悪で、同盟軍の宇宙母艦などと比べるべくもない。
だが楊青年にあてがわれた装備ですら、この会社の「実働部隊」においては最上級の部類。いわんや、戦務長に殴られるような即席指揮官が率いる他部隊の装備状況は推して知るべし、であった。
「本は、いいよ」
『どのように、ですか』
「所有感が満たされるんだ。紙だと目も疲れないし。……いや、ちがうよなあ。もっと知的なことを言おうとしたんだけど、思いつかなかったよ。ははは……」
『言葉には表せない良さなのですね。きっと』
楊青年が交信している少女は、この職場では憚られず「ガキ」と呼びすてられる装備品――孤児であった。孤児である理由は単純。逆らわないから。機械と違って面倒なメンテナンスも不要。電子戦のたぐいでコントロールを奪われることもない。なにより、きわめて安価。もういうことなしの装備なので、主に中小規模の民間軍事請負会社に好評を博している。民間軍事請負会社などという無法な商売人が使う道具は、やはり無法なのだ。
『その本は、おすきなのですか』
「どちらかというと、書いてあることは嫌いかな。いや、好き嫌いじゃなくて、僕と主張が違うだけか」
『……探知針に反応。最大望遠。詳細、送ります』
「わかった。そろそろだ」
モニタに情報。帝国軍残党のパトロール部隊。駆逐艦が一二隻。二列縦隊で巡航中。
特段、警戒しているそぶりはない。
楊青年は、すでに宙域へと
その戦力は、民間に払い下げられた
しかし部隊にあてがわれた戦力が、敵に一度でも照射できればよし、という機体ならば。
指揮官はまともに戦ってはならない。敵に一度でも照射できればよし、という用兵を行うしかない。
ならば、手段は一つ。
戦う前にすべての準備を済ませること。すべてを生かし、そして勝つ。楊青年は驚くべきことに、その術を知っていた。
「伏撃部隊、撃て」
小惑星の影から、敵縦列にビーム照射。
その数、四八。光条は二隻の駆逐艦に突き刺さり、たちまち戦闘不能に。残るは一〇隻。
これが同盟軍巡航艦による攻撃であれば一方的な戦況を演出できるが、楊青年の手勢はさにあらず。
「伏撃部隊、物理デコイ射出せよ。航路、事前入力値そのまま」
楊青年は次の手を繰り出す。帝国軍に偽りの戦力を誤認させるためであった。
「伏撃部隊。全艇静穏モード。別命あるまで待機」
すると。ここで残り一〇隻の駆逐艦部隊は、その場での応戦ではなく一斉回頭。最大戦速で即時撤退を選んだ。
初撃のビーム照射量と退役戦闘艇(に欺瞞した物理デコイ群)の展開量から、複数隻の同盟軍巡航艦との会敵だとみたのだろう。だとすれば帝国軍視点では、個艦規模のエネルギー出力量において決定的に劣る。このうえ戦闘艇に組み付かれてしまえば全滅は必至。手遅れになるくらいなら、戦力保全を優先すべき。火力を引き出した時点でパトロール隊としての任務は最低限果たしている。結論、全速力で本隊に帰投が上策……。
そのような帝国軍残党の思考パターンを、楊青年は経験則や情報網から精緻にトレースしていた。もちろん、同盟軍巡航艦などのような装備はこの戦場に存在しない。本来なら退避目的にしかつかえない物理デコイにしても、本物の戦闘艇と誤認させたがゆえの計略。敵指揮官の視点なら、圧倒的優位な初撃に続いて、無意味なハリボテを突っ込ませるなど思いもしないからだ。
楊青年はほくそ笑む。
そうだ、帝国軍残党。そのルートで逃げろ。
『当艇は、デコイ群と並走。観測を継続します』
「任せる」
物理デコイ群のリーダー艇として航行する純白の、とある有人の一艇。
少女搭乗の
すべての外付け装備を直進推進能力と偵察通信能力に割り振った強行偵察型。少女の高い知能や冷静さも含めて、いびつな戦闘艇母艦に籠るほかにない楊青年の耳目であり、指揮上欠くべからざる要。
ともあれ楊青年と少女の関心事は、帝国軍の航路と速度であった。
一か月前からもたらされた帝国軍残党本隊の観測情報と、パトロール部隊を支援する前方補給拠点、そして現座標を一つの線で結べば……。あと三分後に、駆逐艦部隊が特定の座標を通過するその瞬間。楊青年の計略は完成する。
楊青年は微かに祈る。そのままだ。帝国軍の指揮官よ、きまぐれなど起こさずに、その最大退避速度のまま進んでくれば。
他の帝国軍残党より鹵獲し、前回の補給で回ってきた珍しい代物にして、決定的火力。
指向性ゼッフル粒子。
展開速度や滞留時間から用途は限られるものの、さしあたって楊青年の作戦にとっては、一筋の航路、一瞬の爆発力で充分であった。
『敵。全艦、航路に入りました』
「付帯の機雷。起爆せよ」
航路をなぞるようにほとばしったのは、真空宇宙の爆発光。
帝国軍残党のパトロール部隊は、楊青年の魔法のごとき用兵を前に、字義通りに全滅した。
ヤン政権の安全保障戦略は「バランシング・アプローチ」と呼ばれる。
軍民、政経、いずれの次元においてもオリオン腕勢力(旧銀河帝国版図)への対外的結びつけを図り、彼らのうちの一勢力が強硬路線に走るならば、他勢力に働きかけることで硬軟織り交ぜた牽制へと動く、という論理である。
国内政治では愚鈍のきらいがあるヤン議長とはいえど、外交防衛上の戦略眼と構想実現については持ち前の明晰さをいかんなく発揮するものであった。
旧帝国勢力に対しては「分立平和、統合阻止」。内乱期を経て誕生したいくらかの勢力には、そのいずれにも「国家」としての主権を認め、前時代では考えられない「貿易条約」を結ぶに至った。親同盟であろうと旧帝国に属そうとも各国は名実ともに利害関係者となり、一大勢力への糾合は未然に阻止される。よって国家間の大規模艦隊戦は過去の概念となり、いまだ絶えない未帰属領域の争いや小部隊同士の衝突も、日常茶飯事な戦争未満の小競り合い、といったものとなった。
宇宙暦八二三年時点において、銀河の構図は一変していた。ヤン政権率いる自由惑星同盟は言わずもがな、ベルンハルト・シュナイダー首相率いるイゼルローン立憲帝国や、新皇帝オスカー一世が率いるロイエンタール朝銀河帝国。しかし三者の版図を合わせても、なお全銀河の領域には半分も及ばない。宇宙暦七九九年のバーミリオン星域会戦以降に、旧帝国内の内乱にともない発生した広大な未帰属領域――旧銀河帝国貴族領である。新時代はこれらの獲得を競っての……。云々。
「一同! 損害ゼロで大戦果を挙げた楊くんに拍手!」
楊青年は、嫌気がさしたときには読んだ本の内容を反芻することにしている。嫌気がさすものは諸々あるが、定例報告はその代表格だ。いつもとおりに挨拶と、わざとらしい賞賛。
しかしこの日は、違うことが起こった。
もちろん、楊青年の気分をさらに害する方向で。
「あなたも、楊くんと同じくらい、よくできました!」
ほかのメンバーも成果を上げたらしい。ここにきて二か月は経つ、やせぎすの眼鏡男か。
べつにそれ自体はいい。他人の成功をいちいち僻むほど楊青年のモラルは堕ちていない。自らの隊に必要な人員と装備が回されるのなら言うことはない。
とはいえ。そのように余裕げに考えたところで、楊青年は自省した。この異常で非人道的な労働環境のなかで余裕ぶるなど馬鹿げている。ここは人命がゴミ捨て場のように積みあがる、戦争未満戦場以下という詭弁で成立した「自由な労働市場」だ。いくらか指揮が上手くて人死に少なく成果が上げられるといって、なにも立派じゃない。おまえ自身も、粗暴な戦務長や、その上の経営層とも、なにも変わらない。地獄の加担者ではないか。
「損害はそこそこだったが、敵雷撃艇部隊を追い払って資源小惑星を確保! 人間はやればできる!」
褒められた眼鏡男は、当初は面食らったようにおびえるも、戦務長から「挨拶」されないとわかると次第に笑みを浮かべ始める。
この職場の常套手段。アメとムチ。
いつもどおりなら、賞賛の次は報酬もあるのだが……。
「特別報酬は、これだ」
事務員に連れられてきたのは、ひとりの少女であった。
歳は一二、一三ほどか。両足には電流錠が着けられ、寒々しい下着姿であった。
楊青年は思い出した。ああ、このパターンか
「抱いてみろ。いま、ここでだ」
戦務長は笑顔で、眼鏡男を誘う。
当然、眼鏡男は戸惑う。
常識ゆえか。良心ゆえか。
「これはチャンスだ。男を見せろ。皆、応援しているぞ」
戦務長はささやく。これは正当なご褒美なのだ、と。
眼鏡男は、おそるおそる聞いた。私も……、男になれますか? と。
「なれるとも! きみも男になれるっ! それとも、好みじゃなかったか?」
眼鏡男は、歪んだ笑みをもらしながら言った。
どうせなら、私立学校の制服姿が良かった、と。
それを聞いた戦務長は豪快に笑い飛ばした。なかなか通だな! と。
そこからは単純であった。眼鏡男は羞恥心を脱ぎ捨て、獣になった。彼が持っていたはずの徳性の堤防は決壊した。汚らわしい欲望の濁流が、無抵抗の少女になだれかける……。
その有様をながめて。楊青年の心は絶望に曇った。
眼鏡男は、もうダメになってしまった。この瞬間を成功体験として、加虐の連帯心を膨らませて、成果のためならなんでもする人間になり果てる。これは、イニシエーションだ。現にこの場を誰も止めない。責めない。むしろ喜ばしいとら思っている人間もいるだろう。
いいや、止めないのは自身もそうなのだ。
楊青年は無表情の皮の下で静かに恥じ入る。どうしようもない無力な自分自身を。
楊青年の心胆は凍え切った。やはりここにいてはだめだ。整えた手筈通りに、一刻も早く、この職場から逃げなければ。なにもやってやれないことはない。楊青年の手には偶然手にした「切り札」があるのだから……。
『楊。お前の部隊は負け知らずだそうじゃないか。こっちの隊でも有名だぞ。ミラクル・ヤンってな』
商船改造式戦闘艇母艦の管制室。楊青年のプライバシーが確保されるのは、檻のようなこの座席だけだ。紙の本の読書も、信頼できる相手との通信も、ここでしか行わない。
「楊なんて苗字、どこでもいるよ。それよりこの通話の秘匿は?」
『……大丈夫だ、回線には、ほかの奴との偽のログを流している。俺、同盟軍にいた頃は電子技術士官でね。ここの連中欺くなんざ楽勝だよ』
「知ってるよ。上官不祥事のなすりつけで不名誉除隊に遭った、不運な現場士官様だって」
『まったく、なにが新生同盟軍だ。軍縮で席が減ったせいで、すっかり足の引っ張り合い集団だよ。あいつらは糞だ! 俺がこんなところに流れ着いたのもあいつらのせいだ。平和主義者気取りのヤン政権はもっと糞だ!』
信頼のおける同僚との通信だが、楊青年はいきなり本題には入らない。とりとめのない愚痴を聞くところからだ。ちなみにこの通信相手の名は、ダグラス・ウィルバーといった。
それにしても、新生同盟軍。楊青年が生まれる前の同盟軍は一二個正式艦隊を誇ったというが、時代を経た現時点では四個艦隊まで削減されている。新型艦艇への更新や拠点インフラ整備によって能力は向上しているとの政府発表なのだが、その実は戦略環境上、数を誇る必要がなくなっただけである。イゼルローン回廊は立憲帝国の防衛艦隊と、国土自体が難攻不落のイゼルローン要塞が固めている。フェザーン回廊も新首都として機動戦力が構えている以上、サジタリウス腕の同盟領については
では、力の空白地帯であり最前線でもある旧銀河帝国貴族領は? 民間軍事請負業者が矢面に立つ。それで問題解決という理屈らしい。戦争でなければ戦死者もでない。市民は平和を謳歌し、政府はめんどうな補償をせずにすむ。八方笑顔の冴えたやり方。
「……同盟軍もだろうけど、ここはもっと狂っているよ。ダグラス」
『ここって、俺らの職場のことか?』
「もちろん。子供の命をなんとも思わないばかりか、慰み者にまで……」
『使い捨てのコマなのは俺らの待遇も変わらないだろ。撃破成績優秀なミラクル・ヤンさんの事情はしらないけどなあ』
「いや、そんな言い方はないだろ。好き好んで戦っているわけじゃない」
『……悪い。俺も近頃イラついてて。こんな糞溜めみたいなところも、とっととおさらばしなきゃな。それが本題だ』
ダグラスはモニタ越しに謝罪すると、楊青年との共謀に戻る。
共謀とはもちろん、この民間軍事請負会社からの脱出。
『楊。お前がスパイに仕立て上げた例の、帝国残党の中佐。本当に信用できるのか?』
楊青年の戦場常勝の鍵の一つ。戦場の成り行きで一時的に捕虜にした際に、関係構築に成功したスパイだ。所帯持ちの中年で、イゼルローン立憲帝国への亡命を希望している。
「全部が全部というわけじゃない。ただ、彼の自由への切望は本物だと思った。僕が紙の本を手渡したとき、彼は食い入るように読み込んでいた」
『自由を信じてるくせに、亡命希望先が立憲帝国つうのはね』
「僕が勧めたんだ。あそこは福祉が手厚い。一家が食べていくには不自由しない」
『まあ妥当だな。この俺からすらおまんま取り上げる自由の国よか全然ましだぜ』
もちろん、このスパイは帝国軍残党の動向対策として必須ではあるが、脱出策の中核ではない。
楊青年にとっての「切り札」は、とある画像にあった。
「とにかくこの画像を見てほしい」
楊青年が開示した画像。場所は小惑星をくりぬいた応急の補給所跡。哨戒任務にあたっている際に、部隊指揮役の例の少女が偶然観測したものだ。係留されているのは、一隻の戦艦であった。しかも大量建造式の標準戦艦ではなく、より巨大で高性能な旗艦級戦艦。
問題は、自分たちの手で動かせる代物かどうかだ。技術的検証ができるのは、楊青年の信頼の置ける人間の中では脱出の共謀相手――ダグラス・ウィルバー元同盟軍中尉だけであった。
「どう思う。素人目には、使えると思ったけれど」
『使うってのは、逃走用の足としてってことか?』
「それが第一義だけど。できれば、戦闘も含めて」
楊青年の問いに、ダグラスはさして間を置かずに答えた。
『……一応は、準稼働状態。帝国の奴らが隠してるみたいだな。しかし知らねえ艦だ。最新技術実装のテストベッド艦かもな』
楊青年は秘匿艦についての推測を受けるも、ハードウェアの込み入った知識には門外漢だ。ただただ専門家ダグラスの話に耳を傾けるだけであった。
聞くに、秘匿艦はイゼルローン立憲帝国保有の艦に似ている。同盟領で建造された友好国向け供与艦。しかしダグラスの見るに電装系が不可解らしく、最新型にもかかわらず艤装が帝国式を兼ねた折衷形式。政策と装備の両面で同盟軍との一体化を推し進める立憲帝国が、わざわざ時代に逆行した旧帝国規格を並立して採用する道理がない、とのこと。まるで秘匿艦が最初から、反同盟勢力(すなわち旧帝国側)に引き渡される算段だったのではと疑いたくなるほど。
「結論は?」
『現物触らなきゃわからねえよ。はやいとこ案内してくれ。で、これ発見した例の女の子は生きてるんだよな?』
「生きてるけれど、どうして」
『いや、なら大丈夫だ。また連絡する』
楊青年とダグラス。
二人の脱出案は、静かに着実に、現実のものへと近づいていく……。