貴方は、逃げなかった。
彼女の意思に逆らったのではない。
ただ、彼女が自分を選択肢から外したまま出した答えを、受け入れられなかった。
静かに熱を持っている石を握ったまま、貴方は息を殺した。
動けない。
今、動けば全てが終わる。だが、逃げることもできなかった。
工場長は彼女を見下ろしたまま、思案するように手を口に当てる。
「お前は何かを作った。……それはいつだ?」
工場長は彼女の返答など考えていないように、独り言のような確認を繰り返す。
「閉じる前に作った……そう考えていた。だが、ならばなぜお前は消えかけている? 工場の魔力を使えば済んだはずだ」
「……」
黙り込む彼女を無視し、工場長の指先が腕を叩く。
そしてそのリズムは次第に早まっていった。
「つまりお前は外部供給を断たれた後に、自分の魔力で陣を動かした。ならば、作成物は私がここに入った時点で存在する」
「そりゃ――」
彼女の言葉を無視し、工場長の呟きは加速していく。
「だが、お前の手にはない。体内に隠した? いや、手間はかかるが腑分けすればいいだけだ。これがそこまで読めん淫魔だと?」
工場長は弾かれたように顔をあげる。
「……お前、先ほど私へ何かを投げたな」
何かに気づいたような工場長は、すぐさま視線を背後の床へ移した。
砕けた壁の破片。
粉塵。
鈍く光る床の欠片。
そこに、石はなかった。
「……ない」
工場長の声が、さらに冷えた。
「ネズミが身を隠していたのか……!」
「……へへっ、帳面を見るのは上手いのに、目の前のものは見逃すんスね」
工場長は彼女を無視し、穴の外へ向き直るなり、ほとんど罵声のように命令を飛ばした。
「近くに身を隠した者がいるはずだ! すぐに見つけろ!!」
「はっ!」
「感知に長けた淫魔を動員しろ! ネズミはまだ付近にいる!! この場にいる淫魔の持ち物は全て検めろ!!」
「ただちに!」
外の淫魔達が慌ただしく動き出す。
工場長はそれを見届けると、低く息を吐いた。
「……くだらん」
「へへ……、そんな怖い顔しないでくださいっスよ。……たかが石ころっスよ、たかがね……」
「黙れ……!」
その声には、今までの冷たさとは違う苛立ちの熱が混じっていた。
彼女の言葉により工場長の思考は狭められ、工場長の思考を外へ向けさせた。
だからこそ、彼女は見誤った。
工場長の指が動く。
手がかりを壊すわけにもいかず、しかし怒りを発散せずにはいられないほど、工場長が追い込まれていることを。
「やめ――」
彼女の声は間に合わなかった。
次の瞬間、見えない衝撃が部屋の中を薙いだ。
それは、彼女の周囲へ向けて放たれた、怒り任せの乱雑な一撃だった。
それは貴方を狙ったものではなかった。
工場長はまだ、貴方がそこにいるなどとは思っていない。
――だが、衝撃は貴方を避けてはくれなかった。
貴方が受けたのは、攻撃のほんの端。そこからさらに零れた余波に過ぎない。
それだけだった。
ただ、それだけのはずだった。
だが、貴方の体にはそれで十分だった。
貴方はガラクタのように吹き飛び、気づけば地に伏していた。
そこでようやく、全身に熱い痛みを感じるだろう。
「……ッ!」
彼女が声を上げた。
ほんの一瞬。
ほんの僅か。
だが、その動揺は隠しきれなかった。
工場長の目が、彼女を見て、それがどのような意味を持つか、冷静に判断を下す。
「……なに?」
その声に、先ほどまでとは別の色が混じった。
驚き。
そして、ゆっくりと膨らむ歓喜。
「そうか」
「違ッ――!?」
工場長は、静かに笑った。
「いるんだな? ここに?」
その確信は、氷のように部屋へ広がった。
「ネズミはまだこの部屋にいる」
瞬きすらせず、縫い付けるような棘の視線。
隠匿魔法はまだ貴方を覆っている。
だが、それはもう安心を意味しなかった。
「なぜ隠れている? 動く隙など、いくらでもあった。……つまりネズミは、本当に
工場長の声が、愉快そうに細くなる。
「ならば、炙れば出る」
再び、空気が揺れた。
「やめろっス!!」
彼女が叫び、工場長の掌に収束する術式へ手を伸ばす。
「ダメッ……! 止められな――ッ!? 伏せて!!!!」
その声は、工場長を止めるものではなく、答え合わせだった。
工場長の笑みはさらに歪む。
次の衝撃は、先ほどよりも弱かった。
工場長にとっては。
淫魔にとっては。
この工場の壁や床にとっては。
だが、貴方にとっては違った。
見えない力が、倒れ込んだ貴方の体を吹き飛ばす。
ペキペキと体の中から枝を踏むような音が聞こえる。
目鼻から血が吹き出し、顔を濡らす。
貴方は体の輪郭そのものが砕かれるような痛みを全身に受けた。
衝撃で、魔力タンクと鈍石が指の間から抜け落ちる。
貴方はとっさに手を伸ばそうとする手は針金のように曲がっていた。
砕け飛んできた瓦礫が貴方の握りしめていたそれらを打ち据える。
硬い音が二つ、続けて鳴った。
鈍石は砕け、魔力タンクは床を転がり、その輝きを失う。
貴方を隠す隠匿魔法の膜が、破れかけた薄布のように揺らいだ。
床に広がる血が、貴方の姿の輪郭を濡らしていき、隠れていたものが、少しずつ、形を持ち始める。
「……そこか、貴様は……、なに?」
工場長の声が止まる。
「なっ……、は――?」
工場長は体を震わせる。それは怒りではない。
「――は、ハハッ……、ハハハハハハッ!!!!」
工場長は誘蛾灯に引き寄せられた蛾のように、ゆっくりと貴方へ歩き出す。
「やった! やったぞ! そうか人間っ!! 人間だと!!」
工場長の口元が歪む。
「そうだな! これなら何を差し出しても釣りが来る!! 上級淫魔どころではない! もっと、もっと高みへ行ける!!」
「人間ちゃんッ!! 人間ちゃんッ!!!!」
工場長の言葉を彼女は無視し、這うように傷ついた貴方へ手を伸ばす。
しかし、貴方の目はかすみ、既に音は遠く、夢のようにぼやけた意識を保っていただけでも、奇跡であった。
「よくやったぞ! お前は本当に……! 最後まで私を押し上げてくれる。最高の部品だった!」
「あ、あぁ……! あ゛ぁ!! いいから! いいから早く人間ちゃんを治してッ!!」
貴方の耳に届く取り乱した彼女の声は、音の形すら曖昧にぶれていた。
それを聞いてしかし、貴方は何かに突き動かされるように動こうとした。
だが、身体が動かない。
あれ程感じていたはずの痛みが遠くなり、代わりに、意識だけが冷たく沈んでいく。
「あたりまえだ。この機を逃すわけがない……!」
工場長が近づく。
「人間ちゃんッ……!! はやく……! 早く助けて!」
彼女が床を這おうとする。
だが、動けない身体は、彼女自身の意思を裏切るように地面に爪を突き立てるだけであった。
貴方の首は動かない。
感じるのは貴方に近づいてくる硬い靴音の振動。
それと目の前に転がる割れた石。
鈍石は、衝撃で欠けていた。
その隙間から、紅い光が漏れている。
それは、彼女が命を削って渡してくれた紅い石。
「クッ……クク! お前は私のものだ……!!」
足音の振動が近づくにつれ、空気が甘く濁っていく。
香りではない。
音でもない。
だが、貴方は知っている。
これは、彼女を折ろうとしたあの力だ。
貴方は最後の力を振り絞り、それに手を伸ばす。
のろのろと突き出す貴方の腕。
だが、それは抗いがたい虚脱感で地に落ちた。
意識が暗闇に落ちる。
暗い、とても静かな夢の底。
「私に――」
(赤い石のAA 隠しリンクあり、フラグを満たしてる場合正規ルート、満たしてない場合は工場長にその手を抑えられ失敗)
工場長の口が動く。
「――従え」
貴方は――