貴方は淫魔の国へ渡る   作:ばばばばば

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B2 3-41 工場長の襲来

 彼女との帰り道は、来た時よりもずっと短く感じた。

 

 彼女は何も言わない。

 

 ただ、壁の奥を這う導管の共振音を置き去りにするような速度で、工場の通路を飛んでいく。

 

 貴方は振り落とされぬように、彼女の体へ強くしがみ付いていた。

 

 

 ――やはり急いでいるようにみえる――

 

 

(現場を空けすぎたっスからね)

 

 

 

 彼女の返事はいつもの調子だった。

 

 

 しかし、角を曲がるたびに、彼女の尾が小さく跳ねる。

 

 すれ違う淫魔達が何事かと顔を向けるが、彼女はそれに目を向けない。

 

 

 その行動の端々から彼女の焦りが滲んでいるようだ。

 

 

 ――本当に、本当に問題はないのだろうか?――

 

 

 貴方の言葉に彼女はほんの少しだけ逡巡してから答える。

 

 

 

(……安心するっス、人間ちゃんのことはバレてないっス、ただ……)

 

 

 ――ただ?――

 

 

(自分は……、工場長の首輪付きみたいなもんでしてね、……最近の不正がバレてるとすると、ちょっと厄介なことになってるかもしれないっス)

 

 

 彼女の緊張した顔のまま短く貴方へ声をかける。

 

 

(降りたら私の後ろに隠れて欲しいっス)

 

 

 彼女に言葉を返す前に、彼女はさらに加速する。

 

 

 やがて、飛翔の先に第六炉の光が見えてくる。

 

 

 紫がかった明滅。

 

 低く重い稼働音。

 

 

 先ほどまで背にしていたはずの現場の気配が、再び近づいてきた。

 

 

 

 

 静かに現場へ近づく彼女の背で貴方は違和感を覚えた。

 

 

 音が少ない。

 

 

 作業員たちの罵声や軽口、工具の鳴る音。

 

 さきほどまで絶え間なく響いていたそれらが、まるで薄い布をかけられたように遠い。

 

 

(……行くっスよ)

 

 

 

 彼女は高所から現場を見下ろすように速度を落とした。

 

 作業員達は持ち場にいる。

 

 作業そのものは止まっていない。だが、作業している者達の口数は少ない。

 

 

 

 彼女が作業員の脇を通った時、目線は合わせず絞られた声を呟く。

 

 

 

「工場長がきた」

 

 

「……助かるっス」

 

 

 他の作業員の淫魔達も、いつものように軽口を返さなかった。

 

 代わりに、彼女がそこを通ると視線だけで詰所の方を示す。

 

 

 

「炉詰所にいるぞ。……気を付けろ」

 

 

 貴方には、その言葉の重さが分からない。

 

 だが、現場の空気がそれを教えていた。

 

 工場長。

 

 ただの上役が来たというだけではない。

 

 この場所にいる淫魔達がここまで露骨に恐怖を示すほどの存在。

 

 

 

 彼女はやがて事務所へ向かう道で、ほんの一瞬だけ目を閉じる。

 

 それから、いつもの笑みを顔に貼り付けた。

 

 

 

 

(人間ちゃん、私の後ろから出ないでくださいっス、それと、何を聞いても声を出さないこと)

 

 

 ――分かった――

 

 

 事務所の扉が見える。

 

 

 その前に、二人の淫魔が立っていた。

 

 

 現場の作業服ではない。

 

 汚れていない外套。

 

 磨かれた靴。

 

 この場所の熱も、埃も、焦げた魔力の匂いも、何一つ身に受けていないような姿。

 

 

 彼女達は貴方達が近づくと、無言で扉を開けた。

 

 しかしその目には尊敬や敬意といった感情はなく、ただ冷たく前だけを見据えていた。

 

 

「管理人が戻りました」

 

 

 その言葉に、開いた扉の内側から、低い声が聞こえた。

 

 

 

 

「戻ったか」

 

 

 

 

 その声を聞いた瞬間、彼女の背中がわずかに硬くなる。

 

 

 貴方はその背中越しに、扉の奥を見る。

 

 

 

 詰所の中。

 

 彼女の机の前。

 

 そこに、一人の淫魔が立っていた。

 

 

 

 汚れひとつない外套。

 

 静かな目。

 

 現場の誰とも違う、踏まれていない靴。

 

 

 その淫魔は彼女を見ると、薄く笑った。

 

 

「随分と忙しそうだな」

 

 

 彼女は一拍だけ遅れて、いつものように笑う。

 

 

「はい、一応はここの責任者ですので……」

 

「工作室に行っていたそうだな、で、一体今まで何をしていた?」

 

「いえ、それは……」

 

 

 工場長は彼女へ視線を落とす。

 

 

「私を誤魔化すのか?」

 

 

 その高圧的な言葉に、彼女の喉がわずかに詰まる。

 

 彼女は懐から修理を終えた道具をのろのろと取り出した。

 

 

 

「外殻制御核の損傷のため。修理をしていました」

 

「知っている」

 

 

 震えるような彼女の手を見て、その淫魔はつまらなそうに視線を外す。

 

 そして工場長は静かに言った。

 

 

「私は“何をしていた”と聞いたのだが?」

 

 

 その一言で、貴方は空気がさらに冷えるのを感じた。

 

 

「お前は有用だ。よく指示を聞き、ノルマを達成している。そうだな……、便利と言ってやってもいい」

 

「……お褒めに預かり光栄です」

 

 

 感謝の言葉を述べる彼女の口調は酷く重い。

 

 しかしそれを聞いて目の前の淫魔は笑みを深めた。

 

 

「お前は得難い。管理人というものは、どうにも余計な欲を持つ。出世、評価、裁量、……どれも邪魔だ」

 

「私が欲しいのは、迷わず、考えず、止まらずに動く歯車だ」

 

 

 彼女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。

 

 

「その点、お前はそこが良かった」

 

「はっ……」

 

「私の命令に迷わず、逆らわず、責任だけをよく拾う……、私を押し上げる実に有用な部品だ」

 

「だが、部品には条件がある」

 

 

 工場長は一歩だけ彼女へ近づいた。

 

 

「勝手に動かないことだ」

 

「……」

 

「まさか、自分が替えの利かない部品だとでも思い上がっているわけではあるまい?」

 

 

 現場の稼働音が、やけに遠くなる。

 

 

「便利な者は、よく名前が残る……、どうも最近、私の耳にお前の名を聞くことが多い」

 

 

 

 彼女は何も答えなかった。

 

 

「さて、では君が私の知らない所で何をしているか教えてもらえるかね?」

 

 

 

 貴方は彼女の背後で、息を殺す。

 

 隠匿魔法に包まれているはずなのに、今だけは自分の鼓動すら聞こえてしまう気がした。

 

 

 

 

「……ですから、業務上申請が通らないだろう部品の修理を無断で行っていました。今日のようなことは珍しくもないので……」

 

 

 彼女はもう一度、手の中の部品を示した。

 

 複雑な光を内側で反射する、修理を終えた制御核。

 

 

 

「お前は私がそんなことを聞いていると本当に思っているのか?」

 

 

 工場長は少し声のトーンをあげて笑みを深めるが、それを聞いた彼女の背筋は僅かに震える。

 

 

 工場長は近くの机に置かれていた管理盤へ指を滑らせる。

 

 空中に、幾つもの記録が浮かび上がった。

 

 

「ここ一か月、工作魔法陣の使用履歴を洗った。これらの日に何か覚えは?」

 

「……ありません、数値にも異常は……」

 

「それだ」

 

 

 貴方にはその意味の殆どが分からない。

 

 だが、そこに並ぶ数値の一つを指さし、工場長は笑みを深めた。

 

 

「どれも帳尻は合っている」

 

「使用時間も、消費魔力も、成果物の構成値も。申請された作業に対して、実に過不足がない」

 

「……なら、問題はないはずです」

 

「合いすぎている」

 

 

 その一言に、彼女の喉が小さく鳴った。

 

 

「数値は嘘をつかんよ、特に今の魔力炉建造のように納期がひっ迫している現場なら、もっと無駄が出るはずだ」

 

 

 工場長は、浮かぶ記録を一つずつ目でなぞる。

 

 

「まるで、後から見られることを前提に整えられているようだな? そうは思わんか?」

 

 

 工場長の声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

 

「丁寧に隠しすぎる。大事にしまえばそれが秘密だと簡単に分かってしまうだろうに」

 

 

 

 工場長は言葉に詰まった彼女を執拗にのぞき込んだ。

 

 

 彼女の肩がわずかに震えた。

 

 

 

「忘れたのか? お前に“存在しない物”の作り方を覚えさせたのは、私だ」

 

 

 

 貴方には、その一言の意味が分からない。

 

 だが、彼女はその言葉を聞いて怯えたように身を竦ませていることに気づいてしまう。

 

 

「だというのに何故勝手に道具が動く? お前は一体この日何をしていた?」

 

「それは。その……、申し訳ございません、魔力欲しさについ――」

 

「何度も言わせるな、そんな誤魔化しはどうでも良い」

 

 

 

 貴方は息を殺したまま、彼女の背中を見る。

 

 彼女は微動だにしない。

 

 いや、動かないことに必死になっているのが分かってしまう。

 

 

 

「何をしたかではない、何故お前がそうしたかを私は問うてるんだ」

 

 

 ゆったりとしたリズムで机を叩く工場長に、彼女は完全に委縮していた。

 

 

「お前のことだ。自分のためではあるまい、なら何のために? 何故不正をした」

 

 

 自身の考えを口に出しながら工場長は少しだけ首を傾げた。

 

 

「ふむ、思えばお前は誰かのためなら愚かになるきらいがある。あぁ……本当に愚かしいことだが、まさか――」

 

 

 工場長は机を指で叩くのを止めて小さく呟いた。

 

 

「また、余計なものを抱え込んでいるのか? ……ならもう一度“修理”してやってもいいぞ」

 

「……ッ!!」

 

 

 彼女はその言葉を聞いて弾かれたように顔をあげる。

 

 

 だが、顔をあげた彼女は工場長と目を合わせるとその怒気を萎ませる。

 

 

「誰が顔を挙げろと言った?」

 

 

 感情の色を見せない無情な目。

 

 その表情は、部下を見るものではなかった。

 

 動かなくなった部品の型番を確かめ、何を換えるべきかを考えているような、冷えた目だった。

 

 

()()()()()()()()()」 

 

「……っ、ぐ……」

 

 

 次の瞬間、空気が甘く濁った。

 

 香りではない。

 

 音でもない。

 

 

 この言葉は彼女に向けたものであり、貴方が直接受けたものではない。

 

 

 しかし、貴方の皮膚の下へ薄い蜜のようなものが入り込み、思考の輪郭を撫でていくような感覚があった。

 

 

 そして貴方の体は意思に反し、地面へ押しつぶされた。

 

 せめて物音を立てないようにするのが限界で、ただ床にへばりつくことしかできない

 

 

「聞こえなかったのか? 私は話せといったんだ」

 

「……っ」

 

 

 一方で彼女はその支配に一人抗っていた。

 

 

 彼女の爪が、掌に食い込む。

 

 ギリギリと万力を締め上げたような、彼女の歯を食いしばる音と呻きだけが聞こえた。

 

 

「……報告しろ。従え。私の管理下へ戻れ」

 

 

 

 彼女の膝が落ち、背筋が勝手に折れ、頭が勝手に下がろうとしている。

 

 まるで、見えない手が彼女の関節を一本ずつ折り畳んでいるようだった。

 

 

 貴方は思わず声を上げそうになるのを必死にこらえた。

 

 しかし、圧倒的な支配に対して貴方が出来ることは彼女の意図をくみ取り、口を塞ぐだけ。

 

 貴方はただ必死に激情に耐え、口を閉じ、息をひそめる。

 

 

「グッ……、ガァッ……!!」

 

 

 彼女の苦悶に満ちた短い悲鳴。

 

 

 ボキボキと骨が砕ける音と湿った音が鳴る。

 

 彼女は糸が絡まった操り人形のようにその場で身を捩らせる。

 

 

 

「話せ」

 

「……や、だ……!!」

 

 

 ――だが、それでも彼女は倒れることなく、前を見据えていた。

 

 

「……貴様、消滅するぞ」

 

 

 

 工場長の声に、初めてわずかな揺れが混じった。

 

 心配ではない。

 

 高価な工具を折りかけた時のような、不快そうな確認だった。

 

 

 しかし、それでも彼女は床に片手をついたまま、歯を食いしばった。

 

 

「嫌っス……!」

 

 絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 

 

「……そうか、貴様、そこまで愚かだったか」

 

 

 その瞬間、甘い空気はもはやむせ返るほどに部屋に充満した。

 

 まるで空気に蜜のような粘度が加わったように、貴方は息をすることすらできなくなる。

 

 

「壊れても構わん。死ぬ前に答えろ」

 

「グギャッ! ギッ、ギギィッ……! ギヒッ!!」

 

 

 

 彼女の身体がまた沈む。

 

 腕が震え、へし折れ、潰れる。

 

 肩が踏みにじられるように落ちる。

 

 床についた指が一本ずつ滑り、爪が剥げるような音を立てる。

 

 

 とうとう彼女の額が床に叩きつけられ、彼女は口から夥しい血反吐をまき散らす。

 

 

「最後のチャンスだ。――私に従え」

 

 

工場長は、もはや死に体の彼女を冷酷な表情で見下ろしていた。

 

 

「それッ……、それだけは……! 死んでも、イヤっスね……!」

 

 

 

 ――だが、彼女は顔を上げ続けた。

 

 

 

 工場長は不快そうに眉を顰め、苛立たし気な目で彼女を見下ろす。

 

 

 怒りではない。

 

 部品が規格外の音を立てた時のような、冷えた不快。

 

 

 

「誰に許可を得て逆らっている?」

 

 

 工場長は静かに問う。

 

 

「ふ、フっ……、反抗って……許可制だったんスか?」

 

 

 彼女は笑おうとした。

 

 だが、上手く笑えなかったのか、唇の端が震え、笑みの形になりそこねる。

 

 

「……申請書っ、出し、忘れたっスね……!」

 

 

 吸い込んだ呼吸は引きつり、声はかすれていた。

 

 たった一言言葉を吐き出すことすら苦しそうだった。

 

 

「……そうか」

 

 

 工場長は無感情に彼女を見下ろした。

 

 

 まだ使えるか。

 

 直せるか。

 

 捨てるには惜しいか。

 

 ただそれだけを測っている目だった。

 

 

 

 ――そして不意に工場長は威圧を解いた。

 

 

 

「今日のところは問わない」

 

 

 その言葉に、彼女の肩がわずかに動く。

 

 

「ただし、工作魔法陣の管理規定を改める」

 

 

 工場長は淡々と告げた。

 

 

「今後、貴様の行う工作魔法陣の使用については全て私の承認を通せ。例外はない」

 

「……げ、現場が、回らない、っスよ……」

 

「回せ」

 

「……事故が、出る、……っス」

 

「出すな、そのためにお前を置いている」

 

 

 工場長の命令は、貴方達の計画にとって致命的な制約であった。

 

 悔しげに顔を歪める彼女に、工場長は顎をあげて歪んだ笑みを浮かべる。

 

 

「困るか?」

 

 

 彼女は何も言わない。

 

 だが、その沈黙は答えだった。

 

 

 

 

「困るようだな」

 

 

 工場長は満足そうにそう呟く。

 

 

「ならば、正しい処置だったということだ」

 

 

 工場長は地に這う彼女を横目に、悠々と扉の方へ歩き出す。

 

 

「私に逆らって許されるなど思うな、貴様には必ず報いを受けさせる」

 

 

 すれ違いざま、そう低く告げ、工場長は出ていった。

 

 

 

 

 扉が閉まる。

 

 部屋は静まり返った。

 

 聞こえるのは、魔力炉の低い音と、時折混じる外の淫魔達の作業音だけ。

 

 

 

 しばらく後、貴方の体に自由が戻った時、貴方は――

 

 

 

何よりも早く彼女に駆け寄った。

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