数奇な出会いから世界の英雄となった沖ノ島は、正気と狂気の間で答えを探す。
▽本筋じゃないからカットした部分で、何が起こっていたかの一部始終です。
00
これは、私がかつて経験した、あまりにも滑稽で、それでいて致命的なほどに孤独だった、空白の二年間についての記録です。
今、こうして日常に戻り、愛しい人の隣でペンを取っている未来の私から見れば、あの出来事は怪異がもたらした、わるふざけのような災害だったのだと理解できます。ですが、あの泥濘の中で当時の自分が感じた、積み上げてきた正しさが剥がれ落ちていく絶望だけは、今もこの肌が鮮明に覚えているのです。
もし、遠い未来で同様の災厄に見舞われた誰かが私の手記を資料とし、危機を脱する一助となるのならばと。一部始終を詳らかにし、当代の部長が記す膨大な記録の一端に添付するものです。
オカルト部 部員 沖ノ島ジェシカ
01
意識の深淵から這い上がってきた自分を待っていたのは、安らぎとは程遠い、焼けた鉄と硝煙の入り混じった暴力的なまでの死の気配でした。
つい先ほどまで自分の鼻腔をくすぐっていたはずの、極亜久高校オカルト部の部室に漂う埃っぽい匂いや、部長が淹れる安っぽいコーヒーの香りは、どこにもありません。代わりに自分を包み込んだのは、肺に重くのしかかる湿った泥の臭気と、鼻の奥を刺すような焦熱の感覚。遠くで響く重低音は、鼓膜より臓腑を先に揺らすようでした。
指先に触れるのは、愛用の筆記具でも、部室の冷たい机の感触でもありません。ザラついた布地の感触と、肌を締め付ける無機質なナイロンの重み。私は、自分という存在をこの世界に繋ぎ止めるために、以前の経験から作っておいた『チェックリスト』の一行目を、必死に脳裏で手繰り寄せようとしました。
「名前……沖ノ島ジェシカ。極亜久高校、三年。オカルト部所属……」
泥に塗れた唇を震わせ、心の中でその文字列をなぞります。それは自分を自分たらしめるための防壁。けれど、その言葉を反芻すればするほど、いま自分の皮膚が感じている現実が、それらを無慈悲に否定しにかかるのです。
この震える身体が感じているのは、湿り気がもたらす寒さなどではありません。自分が築き上げてきた『正しさ』という価値観が、塵一つ分も通用しない異界へ放り出されたという、根源的な恐怖でした。
周囲には、自分と同じ迷彩服に身を包んだ兵士たちが数人、身を寄せ合うようにして蹲っていました。彼らの間から漏れ聞こえてくるのは、勇ましい作戦会議などではなく、喉の奥で震える弱音と苦悩の断片です。
交わされる彼らの会話を、息を殺して拾い集めました。彼らが怯え、呪文のように繰り返すのは、空から降り注ぐ滑稽なほど巨大な海産物────『デッドシャコ大師団』の恐怖についてばかりでした。
そして、その断片的な情報の中に、自分のパパとママの名前を見つけました。英雄ウィリアムと、洋子。
もし同姓同名の二人組でない限り、両親で間違いないでしょう。
この世界において、私の両親は人類を救うために命を散らした、過去の殉職者として定義されていました。
私は、現在いる場所が虚構だと確信しています。特異な設定を与えられ、異界をさまよう経験は片手で数えられないほどです。
今朝も父とランニングをし、母に行ってきますと挨拶をして家を出たのですから、これが何者かによる悪戯に違いないと主張できます。
それでも、胸を締め付けるような喪失感は消せません。取り乱しそうになりながらも『私にとって重要な人間について言及される場』ならば、と。じっと耳をそばだて続けます。
しかしどれだけ待っても、兵士たちの口から、求めた名前が出ることはありませんでした。
考えてみれば、当然のことです。彼女は、有事下ともなれば歴史に名を残すような英雄でも、戦士でもありません。オカルトを愛する、どこにでもいる女子高生なのです。この戦火に包まれた世界において、一兵卒が彼女のような一般人の少女を知っているはずがありません。ましてや、自発的に口にするなど、望むべくもない。
ならば、自分で探すしかない。ここで泥に塗れて蹲っていても、青樹格の元へは辿り着けないのです。
「まずは、生きなきゃ」
私は覚悟と共に、身体に巻き付く平布を手繰り、冷たく重い自動小銃を強く握り直しました。立ち上がるために必要なのは、今は祈りではなく、この無機質な鉄の塊です。
今思えば、あの時の自分はまだ、「生きなきゃ」と口では言いながらも、心のどこかでは、この戦火も硝煙も、すべてはたちの悪い白昼夢に過ぎないと信じたがっていたのでしょう。
あるいは、この場をやり過ごしていれば、遠からず彼女が助けに来てくれるのだと、期待していたのかもしれません。
ですが、世界は私の覚悟が追いつくのを待ってはくれませんでした。
思考を停止させ、今はただ生き残ることが正解だと自分に言い聞かせていた、その時です。空を覆っていた灰色の雲が、内側から爆ぜるようにして引き裂かれました。
「全員伏せろ! 降下艇が来るぞ!」
誰かの、喉を潰したような絶叫が泥濘に響き渡りました。直後、鼓膜を暴力で叩かれるような轟音が世界を塗りつぶし、私の視界は舞い上がった土砂によって一瞬で奪われます。
地響きは、もはや地震などという生温いものではありません。大地そのものが恐怖に打ち震え、悲鳴を上げているかのようでした。私は反射的に地面へ這いつくばり、泥の混じった鉄錆の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、自動小銃を抱きしめることしかできませんでした。
やがて、土煙の向こう側から『それ』は姿を現しました。
天から降り注いだのは、巨大な鋼鉄の塊ではありません。それは、私の知るどんな生物学の範疇にも収まらない、滑稽で、おぞましく、そして圧倒的な質量を持った巨大な海産物の群れでした。
自分の目を疑いました。そこにいたのは、高さ数メートルにも及ぶ多層構造の甲殻に身を包んだ異形の歩兵軍────『デッドシャコ大師団』の先遣隊です。彼らの持つ巨大なカマが空気を切り裂くたび、周囲にいた兵士たちの絶叫が、無惨な肉塊の弾ける音へと変わっていきました。
「撃て! 撃ちまくれ! ここで止めなければ、人類に明日はないぞ!」
怒号に弾かれるようにして、私も引き金に指をかけました。銃身から伝わる衝撃は肩を砕かんばかりに激しく、硝煙の熱気が肌を焼きます。けれど、放たれた弾丸は彼らの硬質な装甲に弾かれ、火花を散らすだけで、その進撃を止めることは微塵も叶いません。
これが、戦場。
知識として、あるいは戦場に身を置く者の体験談として。ある程度知っている、同年代より近い場所にいるという認識は、大きな誤りでした。
私の信じていた『正しい世界のルール』が、巨大な暴力によって無価値な屑鉄へと変えられていく場所。砲火に目を灼かれながら、私はただ、生の終わりがすぐそこまで迫っているのを感じていました。
「格────」
祈りにも似た呟きは、巨脚が大地を踏み抜く轟音にかき消されました。逃げ場のない波濤の中で、私は人類が、そして自分自身が蹂躙されていく破滅の当事者として、その最前線に立たされていたのです。
「逃げろ! 退け!」
その悲鳴に近い叫びを最後に、私の横で小銃を構えていた兵士の頭部が、巨大なシャコの拳によって容易く弾け飛びます。
体組織が、私の頬を熱く濡らします。立ち込める血霧は海水のように塩辛く、吸い込むたびに拒絶反応を起こし、ひどく咳き込ませました。
視界の端々で勇ましさや、生きる意思が、絶望へと塗り替えられていきます。巨躯を震わせる『デッドシャコ歩兵』たちは、その見た目に反して、地上生物としての性能が飛び抜けて優れているようです。彼らが一歩踏み出すたびに飛び散る泥砂が視界を遮り、音速を超えて放たれる打撃は、衝撃波だけで装甲車を紙細工のように破り散らしていきます。
こんなものは知らない。あっていいはずがない。
私は震える指で、もはや空になった自動小銃の引き金を何度も引き続けました。カチ、カチ、と空虚な金属音だけが、喧騒の中で明瞭に響きます。背後には、かつて私が過ごした街並みの無惨な残骸。目の前には、空を埋め尽くす侵略者の艦隊が陣を成して。そして、この地獄を止めてくれるはずのヒーローも、どこにもいませんでした。
ふと、巨大な影が私を覆いました。見上げれば、一匹のデッドシャコ歩兵が、その禍々しい複眼で私を捉えています。ゆっくりと、死の宣告のように鋭利な鎌が振り上げられました。
意識が急速に冷えていき、最後に残ったのは、名前を呼ぶことさえ許されないほどの底なしの絶望でした。ですが、その漆黒の淵で、私の脳裏にある声が、まるでつい先程のことのようにリフレインしました。
『死ぬことは許しません』と。
そうだ。私にはまだ、格との約束がある。
それは、後に私が誓うことになる『支えたい』などといった大層な覚悟ではありませんでした。もっともっと個人的で、自分勝手で、切実な衝動です。
ただ、嫌われたくない。彼女の願いに背き、落胆されたくない。
死の淵に立たされてなお、私の中に熱い塊が込み上げてくるのを感じました。それは良識などという脆い言葉ではなく、ただ裏切りたくないという、一途な執着。
振り下ろされる鎌の風圧が、私の頬を撫でたその瞬間。私は、もはや鉄屑同然の銃身を、振り上げられた鎌へと力強く叩きつけました。生存への渇望。約束への意地。一介の二等兵が、巨大な不条理に対して、明確な拒絶を示した刹那。
世界を覆っていた灰色の絶望を、一筋の黄金の閃光が切り裂きました。
「────どけぇッ! 雑魚どもがッ!!」
暗澹たる世界に似つかわしくない、粗野で、どこか投げやりな、それでいて不敵な男の怒号が響き渡ります。
直後、空から『質量』が降り注ぎました。轟音と共に大地が爆ぜ、私の目の前にいた巨大なデッドシャコ歩兵が、更に巨大な『石の足』によって文字通り木っ端微塵に圧し潰されました。あまりの衝撃に、私は地面を無様に転がります。
「……な、に……?」
咳き込みながら顔を上げた私の前に立っていたのは、人類の最新兵器でも、正規の救援部隊でもありませんでした。
そこには、苔むした歴戦の装甲を纏い、古代の戦士を彷彿とさせる無骨な造形をした、巨大な石造りの巨人が屹立していました。
後に知る事になるその名は、太陽戦士ソベルカー。
その巨像の胸から、溶け出すように身を乗り出していたのは、チンピラのような風貌の青年でした。彼はこの絶望的な戦場においてなお、大学の講義をサボって遊びにきた不良のような、不遜で気だるげな笑みを浮かべていました。
「ハ! 海産物が陸で粋がってんじゃねえよ。目障りなんだわ」
彼が再び巨像の中に溶け込むと、ソベルカーの石の関節が、咆哮のような音を立てて軋みました。
巨像の腕が振るわれるたび、絶望的な物量で押し寄せていたデッドシャコの大師団が、ひとたまりもなく蹂躙されていきます。砲弾を弾く彼らの甲殻も、ソベルカーの圧倒的な質量の前では何の意味も成しません。
「サン、ブレイイイイイイクッッッ!!」
戦場に響く男の声に呼応し、ソベルカーの掌から白熱の光線が放たれました。一瞬にして視界を埋め尽くした黄金の閃光は、戦場を覆っていた湿った死臭と絶望を、その熱量で根こそぎ焼き払っていきます。光の奔流が過ぎ去った後には、あれほど恐ろしかった侵略者たちの残骸すら残っていませんでした。
私は、ただ尻もちをついたまま、その光景を呆然と見上げていることしかできませんでした。自分が信じてきた良識も、この世界の不条理も、すべてを置き去りにして笑う不良の青年と、その駆る石の巨人。
心に浮かぶのは、理不尽への非難ばかり。
けれど、その圧倒的な力が、希望の火を灯したのです。これが、私とソベルカー。そして、私の運命を大きく変えることになる先代パイロット、馬場芭蕉との出会いでした。
02
デッドシャコ大師団の先遣隊を文字通り粉砕した巨像が、重々しい音を立ててその膝をついたのは、前線の残骸が燻ぶる、酸鼻を極めた撤収作業の最中でした。
日が傾き、暗くなっていく中で私は、ひん曲がった自動小銃を傍らに置き、適当な瓦礫に腰を下ろしました。不安に波打つ心拍を整えながら、自分をこの世界に繋ぎ止めるための、元の世界の前提を連ねたチェックリストを脳内で広げ、現状の不明な点をひとつひとつ整理しようと試みます。
しかし、整理すればするほど、自分の用意したチェックリストは、この世界のどこにも当てはまりませんでした。
そこへ、先程の石の巨像・ソベルカーから飛び降りてきた青年が、威嚇するような足取りで歩み寄ってきました。派手な柄シャツを乱暴に着崩し、とても軍人には見えない風貌の彼は私を一瞥すると、どこからか取り出した煙草に火をつけ、廃車は間違いない装甲車の上に腰を下ろしました。
「……あなた、これに乗っていたの?」
私は震える声を絞り出しました。彼は煙を吐き出し、投げやりな笑みを浮かべます。
「まあな。アンタはよくそんな装備でアレの前に立ち向かったな」
「自分は、ただ……」
嘲っているのか、褒めているのか分からない言葉に反論しようとして、そのような場合ではないと思い直しました。この状況で彼が、キーマンでなければ嘘なのですから。
「ここは、一体どこなの? アレは何?」
必死の問いかけ。けれど、彼から返ってきたのは、期待していたような明確な答えではありませんでした。
「さあな。詳しいことは俺にもわからねえ。気づいたらこの石っころと一緒にここにいたんだ。海産物には嫌な思いをさせられた事があるからよ、気まぐれに、首を突っ込んだだけだっての」
彼は自分の手首に巻かれていた、不気味なほどに黒く重厚な輝きを放つ、黒曜石の数珠を外し始めました。
「しかし長居もできそうにねえな。落ち着かねえんだ。空気が重いっていうか、世界が俺を弾き出そうとしてる気がする。悪いが、俺の出番はここまでらしい」
「待って。そんな無責任な……! 説明して。これからどうなるの!?」
「だからわかんねえって言ってんだろ。聞き分けのねえ……だが、一つだけ確かなことがある」
彼は立ち上がると、血と泥に汚れた私の手を取り、そして、拒む間もなくその数珠を押し付けてきたのです。
「コイツは、アンタに反応してる。理由は知らねえが、俺が持ってるより、アンタが持ってる方が、まだマシな結果になりそうだ。あとのことは自分で考えろ」
彼の姿が、夕闇の向こうに溶けるように薄れていきます。
「あ、待って!」
ふらつく足で慌てて追いすがるも、気がつくと、目の前には誰もいませんでした。手の中に残されたのは、氷のように冷たく、それでいて心臓のように脈動する数珠の感触だけ。
何が起きているのか、自分はどうすべきなのか。誰も答えを教えてはくれない。自分の正しさが通用しない。指針のない、孤独な戦場。私は数珠を強く握り締め、誰もいない虚空に向かって、自分を鼓舞するように呟きました。
「……了解だ。やってやる」
私は、これを、今のルールだと受け入れる事にしました。
これもまた、部長の教え。
怪異のルールには無策に抗わず、突破口を探すべし。
戦う事でしか道が開かれないのなら、どこまでも戦い抜いてやるのだ、と。星の明かりをかき消す投光器の光に誓ったのです。
03
薄暮の中で黒曜石の数珠を託されたあの日、私はまだ、この戦いが一時的な悪夢であることを信じて疑いませんでした。ですが、降り注ぐデッドシャコの刃と、鳴り止まない警報音が、私の正気という名の防壁を一日ごとに、確実に削り取っていったのです。
あれから、一年が経過しました。
世界は相変わらず、冗句のように巨大で、全容もわからない海産物の軍団、デッドシャコ大師団によって蹂躙され続けていました。見慣れていた商店街の舗装は大きく陥没し、建物には無数にブルーシートがかけられ、人々の暮らしは生存という最小単位の営みへと切り詰められていました。
私は、もはや自分が何者であるかを思い出すために、あのチェックリストを開くことすら少なくなっていました。鏡の中に映るのは高校の制服ではなく、泥と硝煙に汚れた地球防衛軍のパイロットスーツ。そして、その背後には常に、苔むした石造りの巨人。太陽戦士ソベルカーの影が寄り添っています。
「沖ノ島ジェシカ。次の防衛ラインへ向かってくれ。市民たちが君を待っている」
上官の言葉には、もはや一兵卒に向ける命令ではなく、『救世主』という名の部品を調整するような、どこか不自然な敬意が混じっていました。
街のいたるところに、私の顔を描いた看板が掲げられていました。赤々しい背景に、指を差して市民を鼓舞する私のイラスト。その下には、繰り返し、呪文のようにこう記されています。
『沖ノ島ジェシカは人類最後の希望です』
それを見るたび、私は胃の底が冷たくなるのを感じていました。自分は英雄ではない。ただ、チンピラから強引に数珠を押し付けられ、得体のしれない力を行使しているだけの、ただの女子高生に過ぎない。けれど、世界はそれを許しませんでした。
戦死した父、そして母。この世界において、英雄の子という血統は、私に戦う理由を与えるための、あまりにも便利な装置でした。人々は私の中に両親の面影を見出し、絶望の淵で私の名を呼びます。私は彼らの期待に応えるために、ソベルカーに乗り込み、白熱の太陽光を放ち続けるしかありませんでした。
戦いが終わるたび、数珠を握る指先が震えます。幸いなことに、己の命が直接危機にさらされるようなことは、そこまで多くはありませんでした。しかし、デッドシャコの軍勢を塵に変えるたび、自分の内側にあるモラルが、その破壊の快楽に少しずつ染まっていくのが怖くてたまりませんでした。この指針のない戦場で生き残るためには、私は自らを新たなる英雄という名の虚像に作り替えていくしかありませんでした。
人々の称賛も、軍のプロパガンダも、すべてが砂を噛むような虚無として私を通り抜けていきます。終わりのない戦火の中で、自分を繋ぎ止めていたのは、もはやリストの最後の一行。『青樹格』という名前に対する、執念にも似た祈りだけでした。
私は、自分がいつか壊れてしまうことを予感しながらも、ただ無機質なコックピットの中で、次なる戦場への合図を待っていたのです。
自分こそが唯一運命に選ばれし者だ、等と思い上がるつもりはありません。ソベルカーを誰かに押し付ける事も出来たのかもしれませんが、そうしなかった理由があります。
ソベルカーの操縦権を持つ私には、数々の特別待遇が許され、その中の一つとして、軍内部でも高位の情報閲覧権限が与えられていたからです。
絶え間なく続くデッドシャコ大師団との防衛戦。戦闘が一段落し、ソベルカーの石の装甲が熱を冷ますわずかな合間が、私の本当の戦いの時間です。
前線基地の奥深く、限られた高官しか立ち入りを許されない情報処理室の端末に向き合っていました。
指先がキーを叩くたび、心臓が痛いほど脈動しました。この世界のどこかに、彼女が生きているという記録さえあれば。難民リストでも、負傷者名簿でも構わない。彼女が存在しているという事実さえ確認できれば、すぐに会いに行く事が難しくとも、正気を保っていられると信じていたのです。
ですが、端末の画面に非情な文字列が躍るたび、私の期待は冷たい灰となって崩れ落ちていきました。
『該当者なし』
地球防衛軍が管理する十数億人の生存者データ。戦死者、行方不明者、さらには過去の戸籍情報に至るまで、私は持ち得る最大の権限を行使してアクセスしましたが、『青樹格』という名前は、この世界のどこにも存在していませんでした。
私は視点を変え、母校の学籍名簿を照会しました。学校自体の記録は残っていました。私が通っていた教室、覚えがあるアウトドア用品の在庫、仔細すべてがデータの向こう側に存在しています。
しかし、オカルト部の部室があるはずの場所は備品倉庫として処理されており、非正規の部員名簿には私の名前だけが、戦死した英雄、ウィリアム沖ノ島の娘として、ぽつんと記されているだけでした。
誰もいない情報処理室で、私は自分の記憶さえ疑いそうになる恐怖に襲われました。周囲の大人たちは、私を女神と崇め、その一挙手一投足に未来を託しています。けれど、その偶像の内側にあるのは、誰の記憶にも残っていない少女の影を追い続ける、致命的な孤独だけでした。
どれだけ権限を増やし、どれだけ多くのデータに触れても、彼女へと繋がる道は見つからない。
この一年は、私が知る世界が少しずつ死に絶えていく、緩やかな処刑のような時間でもあったのです。
私は震える手で、前任者から託された黒曜石の数珠を握りしめました。データが彼女を否定するなら、不条理で、不条理をねじ伏せるしかない。
画面を閉じ、私は再び戦火の渦中へと戻っていきました。己が魂に侵蝕する絶望を、ソベルカーの咆哮で塗りつぶすために。
04
情報処理室に通わなくなり、更に半年ほどが瞬く間に過ぎ去ります。
ふと、ソベルカーのコックピットの中で、私は気付きました。
この一年半、私は数え切れないほどのデッドシャコをサンブレイクで焼き払い、何千人という市民の歓喜と絶望を一身に浴びてきました。もはや、軍服の重みも、硝煙の匂いも、私の日常の一部となっていました。
戦場を渡り歩いた一年半という月日。かつて私が青樹格と共に過ごした、あの輝かしい放課後の時間と、ついに並んでしまったのです。
かつての私なら、目を閉じればすぐに思い出せたはずの光景。部室に差し込む西日、部長が淹れるまずいコーヒーの苦味、胡乱な議題が踊るホワイトボード。けれど、今ではそれらの記憶が、まるで昔見た映画の断片のように色褪せ、現実感を失っていました。代わりに私の脳裏を占拠するのは、巨像の関節が軋む轟音と、増えていく勲章の名前ばかり。
「格。あなたは……」
無意識に呟いた声が、石棺のような内壁に跳ね返ります。その続きは、言葉にできませんでした。
いつしか、私は戦場の中に、彼女の幻覚を見るようになっていました。
廃墟と化した商店街の角に、赤いリボンを揺らす少女の背中が見える。デッドシャコの返り血で真っ赤に染まった視界の端に、あのツートンのマフラーが翻る。焦ってソベルカーの眼を最大出力で向けても、そこにあるのは崩れたコンクリートの塊と、異形の怪物の死骸だけでした。
私の精神を支えていたチェックリストは、今や呪いへと変貌していました。リストの最後の一行をなぞるたび、内なる声が私を嘲笑います。
それは、孤独に耐えかねたお前が作り出した、ただの美しい妄想ではないのか? と。
自分が大切にしていた宝物の山は、一年半という時間の重みに耐えきれず、音を立てて崩落し始めていました。もし、彼女との日々が私の妄想だとしたら。この不条理な世界で生き残る私の戦いには、一体どんな意味があるというのか。
精神の崩壊は、目前まで迫っていました。私は、幻覚となった彼女の影を追いかけるようにして、再びソベルカーを起動させました。今の私を繋ぎ止めているのは、もはや愛でも希望でもなく、自分は狂っていないという証明を求める、執念にも似た悲鳴だけだったのです。
05
一次防衛線がデッドシャコ大師団の猛攻によって瓦解し、一時撤退を余儀なくされた、ある嵐の夜のことでした。
私は、戦場の隅に放置された廃ビルの屋上で、ソベルカーの石の装甲に背を預け、僅かな休息を取っていました。
その時にはもう、青樹格という少女は、自分の作り出した仮想の希望だと認めざるを得ない状況でした。
気の迷いで非公式部活動の名簿に名を刻んだ私は、誰とも心を通わすことの無いまま、宇宙人の襲来により強引に学生としての時間を断ち切られ、両親を喪ったショックで寄る辺を作ったのだと。世界の全てがそうだと主張しており、そして何より、自分自身がそう考えたほうが自然だと考えていました。
守りたかった正解は、戦の熱に溶けて、雨と共に流れていく。
もう、正気に固執する必要もありません。与えられたルールの通り、与えられた期待の通り。英雄として生涯を終えようと、目を雨で洗っている。
その時でした。
─────ぽ、ぽぽぽぽ…………
雨音に混じって、場違いなほどに透き通った、不気味で奇妙な音が聞こえてきたのです。
私は反射的に拳銃を抜き放ち、暗闇の中を凝視しました。デッドシャコがまた現れたのかと、グリップを強く握りしめます。
ですが、そこに立っていたのは、甲殻に覆われた侵略者ではありませんでした。
「ぽぽ。お久しぶりです、ジェシカさん。やはりお一人のようですね」
暗闇の中から優雅に現れたのは、黒いワンピースに身を包んだ、異様に背の高い女性。かつて鬼子母神社の山中で出会い、名刺を差し出してきた異星の外交官────M八尺星特務大使F242号。
そして、その背後から、同じような巨躯を無理やり縮めるようにして、白いワンピースの少女がおずおずと顔を出しました。
二人の鍔広帽から雨水が筋になって、つるりと滑り落ちるのを見て、警戒も馬鹿らしくなり、銃口を下ろしてしまいました。
「ぽ……ぽぽ……っ!」
Z39号。かつてお友達になった、あの巨大な八尺様。
私は言葉を失いました。彼女たちは、私の『妄想の中』で出会った怪異。この狂った戦場には存在しないはずの、けれど間違いなく私の記憶の中に刻まれている非日常の象徴でした。
自分が精神を安定させるための安全弁を否定したことで、今度はその証人として、都合よく過去の怪異までもを呼び出したのではないか。軍のデータが彼女を否定しているのに、なぜ、この怪物たちは彼女を知っているかのように振る舞うのか。
「あなたたち。本当に、そこにいるの? それとも、私が見ている新しい悪夢なの?」
「ぽぽぽ。失礼なことを仰る。再会を約束したではありませんか」
F242号の穏やかな「ぽぽぽ」という声。それが、私の正気を繋ぎ止めるための救いなのか、それとも狂気へ誘うための最後の一押しなのか、当時の私には判別がつきませんでした。
視界が、雨と涙で歪みます。現実と非現実の境界が完全に溶け出したような感覚の中で、私はただ、目の前の白と黒の影を、おっかなびっくり見つめ続けることしかできませんでした。
私の記憶は本物なのか。それとも、この怪物たちさえもが黒幕の用意した舞台装置なのか。答えの見えない問いを抱えたまま、雨の中立ち尽くします。
F242号は、飛沫に濡れる黒いワンピースの裾を優雅に揺らしながら、私の絶望を興味深そうに、それでいて慈しむように見つめていました。
「もう、わかったから。どこかに行って。ようやく、楽になれる所だったんだから」
私が絞り出した強がりに対し、F242号は「ぽぽぽ」と、鈴を転がすような声で笑いました。
「ぽぽ。ジェシカさん、それはあまりにも非論理的な話です。私共、M八尺星人の愛の観測理論からすれば、彼女が実在しないという証明こそが、この宇宙で最も困難ですよ」
彼女は長い指を顎に当て、見透かした事を言いながら、芝居がかった仕草で私の周囲を歩き始めました。
「いいですか。もし青樹格があなたの脳が作り出した幻覚だというのなら、なぜ彼女はあなたを助けに来ないのです? あなたの理想が形を成した妄想ならば、ここに呼び出すのは私どもではないでしょう。今すぐ巨大化して、デッドシャコをストナーなんやらで一掃し、あなたを抱きしめる英雄として現れるのが自然でしょう」
「それは……」
現実との齟齬が大きくなるから。自分が心底では諦めているから。
今となれば千の反証と万の反論で打ち返せます。しかし弱りきった私には、それは縋りたくなるような希望として響きました。。
「彼女は今、あなたの隣にいない。あなたは孤独に戦い、泥にまみれ、彼女を捜し続けている。その欠落の痛みこそが、何よりの証明です。存在しないものは、失うことさえできないのですから」
F242号は足を止め、私の目の前で深く屈み込みました。その暗い瞳の奥に、かつて鬼子母の山で見せた空虚な博愛とは違う、鋭い光が宿ります。
「私共、M八尺星人は一途です。一度結んだ絆という周波数は、時空が歪もうと、認識が書き換えられようと、決して見失うことはありません。かつて彼女が言いましたね? 『愛は共に育むものだ』と」
私共は、彼女からその『愛の形』を教わったのです。
彼女は敬意の籠もった口調で告げると、胸元から一枚の古びたポラロイド写真を取り出しました。そこには、夕焼けの中で笑い合う、サイズ違いの四人が写っていました。
「この写真は、あなたの恐怖が生み出したものではありません。彼女と私共が、そしてあなたが、あの時ともに育んだ絆の残響です。もし彼女が実在しないのなら、なぜ私共M八尺星の大使が、わざわざこの歪んだ空間にまで、挨拶に来る必要があるのでしょう? 私共は、暇つぶしで次元を越えるほどお人好しではありませんよ」
その言葉は、私の知る常識よりも、軍のデータベースよりも、ずっと力強く私の魂を叩きました。
「絆は、一度結ばれれば宇宙の定数となります。あなたが彼女を友人として信じ続けている限り。そして私共が、彼女をお友達として認識している限り、青樹格はこの宇宙に在り続けます」
「絆は、定数……」
「ぽぽ。そうです。ですからジェシカさん、安心なさい。あなたは狂ってなどいません。ただ、あまりにも強固な重力に引かれ、この不条理な戦場に踏みとどまっているだけなのです」
何を言っているのかもわからない、宇宙人の語る独自理論。それはあまりにも突飛で、難解で、けれど、現実より、記憶より。感情で肚に落ちる。そんな言葉でした。
「ぽぽぽ……っ!」
背後でZ39号が、私の顔を覗き込むようにして小さく手を振りました。その表情は、ある意味でF242号の言葉より雄弁に、私の心に語りかけて来ます。
受け取った一枚の写真。それだけで十分です。
顔を上げ、この一年半で初めて、力強い意志を持って、降りしきる雨の向こうを睨みつけました。
Z39号に託された通り、私たちの愛する存在とまた出会い。
そして、私の愛を余す所なく伝えると、固く決意しました。
膝をつき、絶望に震えていた時間は終わりました。私の胸元には、先ほど受け取ったポラロイド写真が、パイロットスーツ越しに確かな熱を持って存在しています。
「……そう。あなたがいたことは、自分が一番よく知っている」
私はゆっくりと、ソベルカーの足に手をかけました。視界を塞ぐデッドシャコの群れ。空を埋め尽くす侵略艦隊。そして、私の愛を削り取り、格を幻覚だと思い込ませようとしたこの世界。これらすべては、私が格に再会することを拒む、単純な障害に過ぎません。
思えば、最初が間違っていたのです。
賢しい解法など、私には到底取り得ない。
ひとまず従うなどというのは、将来的にひっくり返せる人間だけが選べる手札。
格に会う。ただそれだけのために、この不条理な舞台装置を一つ残らず叩き潰す。自分の内側で、かつてないほど激しく、純粋な闘争心が燃え上がるのを感じました。それは『人類を守る』といった大層な義務感ではなく、ただ愛しい人の元へ帰るという、傲慢なまでに一途な執着でした。
「ぽぽ! 素晴らしい! その周波数です、ジェシカさん」
黒い彼女は、歓喜にその長い指先を打ち鳴らしました。彼女の瞳には、私の内側から溢れ出す『愛』という名のエネルギーが、最高品質の観測データとして映っているのでしょう。
「ぽ……ぽぽぽ……っ!」
一方、白いワンピースを揺らすZ39号は、私の顔をじっと見つめながら、どこか複雑そうな表情を浮かべていました。彼女にとって、青樹格は次元を越えてまで会いに来た大切なお友達です。そのお友達に対して、自分以上に強烈な執着を向けている私の存在は、彼女の独占欲を僅かに刺激したのかもしれません。
それでも、Z39号は巨大な手を私の背中に添えようとして躊躇い、代わりに小さく、力強くグーサインを作って見せました。格を愛するもの同士、彼女の元へ至る道を塞ぐこの地獄を、粉々に粉砕するという目的だけは、今この瞬間、完全に一致していました。
「……ありがとう、Z39。そしてあなたも。助かりました」
「ぽぽぽ。これは私共にも利のある話。その証拠に、二つの贈り物を授けましょう。これは貴女という愛の体現者への投資とお考えください」
F242号が空中に指で円を描くと、私の手元の軍用端末に、未知の回線を経たデータが強制的に流し込まれました。画面に表示されたのは、空を埋め尽くす侵略艦隊のさらに奥、時空の歪みに隠された巨大な旗艦の座標。
「一つ目は、闘争の源泉。『デッドシャコ大総帥』の居場所です。そこを叩けば、あるいはこの歪な舞台も、本来の形を取り戻すきっかけになるかもしれません」
そして、F242号はもう片方の手をスッと動かし、何もない虚空から一本の不思議な杖を取り出しました。先端に禍々しくも美しい赤い宝石が嵌め込まれたデバイス。
「二つ目は、これです。『柘榴錫杖』……今の貴女には不要なものですが、貴女が再会を願う彼女には、いずれ必要になるでしょう」
その不釣り合いなほど煌びやかな、懐かしい杖を両手で受け取りました。手に触れた瞬間、冷たい雨の中でも失われない、凛とした清浄さが伝わってきます。
「ありがとう。預かっておきます」
私は短く礼を言い、右手に錫杖を、左手首に黒曜石の数珠を携えました。大総帥の首。そして、部長への届け物。この悪夢を終わらせるための鍵は、すべて揃いました。
「────ソベルカーーーーッ!!」
私の咆哮に呼応し、空間が激しく軋みました。
自ら登る必要もなく、吸い込まれるようにコックピットへ収まると、肌に伝わるのは無機質な石の冷たさではなく、歴戦の重みを湛えた鼓動でした。
固く拳を作る手首で、数珠が白熱するほどの光を放ちます。ソベルカーの関節から熱が噴き出し、その巨躯が重力を無視して垂直に跳ね上がりました。
視界を覆っていた灰色の雨雲が、猛烈な加速による衝撃波で円形に切り裂かれます。地上で繰り広げられていた戦場が、瞬く間にミニチュアのジオラマのように小さくなっていきました。かつて愛した商店街も、血に染まった防衛線も、今となれば、愛と比べれば何の価値も持たないのだと、遠ざかる景色が物語っているようでした。
高度が上がるにつれ、空の色は青から深い藍色へ、そして星々すら凍りつくような漆黒へと塗り替えられていきます。摩擦熱で石の装甲が紅く灼け、大気の層を突き抜けるその瞬間、世界は劇的な無音へと切り替わります。
大気圏外。
眼下には、ひときわ青く丸い星が、どこか心許なく浮かんでいました。ですが、その輝きを覆い隠すようにして、宇宙の深淵には数万の巨大な甲殻を持つ戦艦群────デッドシャコ大師団の最終包囲網が、無数の複眼のようなライトを明滅させて待ち構えていたのです。
かつての私なら、この圧倒的な物量と巨大な虚無の前に、小賢しい戦略などを立てるため、撤退を考えたかも知れません。けれど今の私の胸元には、一枚のポラロイド写真と、確かな絆があります。
静かに、けれど力強く、数珠を握り直しました。宇宙の果て、時空の歪みの向こう側にある未来へと手を伸ばすために。
石造りの巨像は、黄金の光をその身に纏い、侵略艦隊が埋め尽くす暗黒の海へとその一漕ぎを踏み出したのです。
06
あの日、大気圏を突破してから、季節を感じる術は失われました。手元に残ったのは、敵を屠るたびに刻まれるソベルカーの装甲の傷と、胸元で冷たく、けれど確かに熱を帯び続ける愛の重みだけでした。
銀河の果てを目指す道のりは、まさに消耗の連続でした。
F242号に示された座標へ至るまでに、私はデッドシャコ大師団の精鋭艦隊を、幾度となく必殺技の輝きの中に沈めました。もはや、何体の敵を倒したのか、何個の星系を通り過ぎたのかも分かりません。ソベルカーの石の身体は、激しい戦闘のたびに砕け、そのたびに私の執念がそれを繋ぎ合わせました。
一月が過ぎ、そして三ヶ月が過ぎた頃。ついに、空間が不気味に歪み、光すらも吸い込まれるような領域の最奥に、その影は姿を現しました。
巨大なシャコの甲殻と、禍々しい生体金属が融合した星間要塞。デッドシャコ大師団の本営『超弩級旗艦・デッドグレイブ』
その中心部。真空の宇宙空間でありながら、禍々しい生体金属と巨大な甲殻が折り重なって形成された広大な大地に、ソベルカーの石の足が降り立ちます。
玉座へと続く果てしない道程の両脇を埋め尽くすように、通常の歩兵とは比較にならないほどの巨躯と重装甲を纏ったデッドシャコの精鋭たちが、数万、数十万という規模で控えていました。彼らは一糸乱れぬ動きで巨大なハサミを打ち鳴らし、空間そのものを震わせるような威圧感を放っています。
そして、その軍勢の最奥。宇宙の暗闇を凝縮したような巨大な玉座に座る『それ』を視覚センサーが捉えた瞬間、私の指先はかつてないほどに激しく震えました。
デッドシャコ大総帥。
この悪夢のような空白の戦争の元凶であり、私の『正解』を隠し続けてきた最後の障害。大総帥は何も語りませんでした。威嚇も勝利の宣言もありません。ただ、そこに存在するだけで周囲の物理法則を圧し潰すような、不条理の極致として鎮座していました。
「……邪魔。そこを退いて」
私は、端的に呟きました。語り合いの余地など、誰にも必要とされていません。言葉を持たない巨大な暴力によって作られたこの偽物の世界を壊すには、こちらもまた、純粋な力で語るしかないのです。
大総帥の周囲で渦巻く黒い霧が膨れ上がったのを合図に、静止していた軍勢が、津波のような勢いで一斉に襲いかかってきました。無数の拳が真空を切り裂き、銀河の星々を掻き消すような暗黒の衝撃波が殺到します。
「退けッ!」
私は左手首の数珠を握り締め、ソベルカーに限界を超えたエネルギーを流し込みました。石の装甲が紅蓮に灼け、全身の関節部から白熱の蒸気が爆ぜます。背部のスラスターを最大出力で点火し、迫り来るデッドシャコの群れへと正面から突撃しました。
激突。
鼓膜を突き破るような轟音とともに、先陣の数十体がソベルカーの石の拳によって粉砕されます。飛び散る甲殻の破片と体液が、宇宙空間で瞬時に凍りつき、無数の氷の華を咲かせました。
「格……今、そっち行くから!」
ソベルカーの掌に、星をも焼き尽くす圧倒的な熱量が収束していきます。
「ソル・エラプショォォォォンッッ!!」
放たれたのは、二年に及ぶ私の執念を燃料にした、銀河を切り裂く超高熱のプロミネンス。
正気と狂気。すべてが一つに混ざり合い、宇宙の最果てで網膜を焼くような巨大な爆光が爆ぜました。
これが、私の独り相撲の終着点。デッドシャコ大師団との、そして『牛の首』が見せる偽物の世界との、全面戦争が、ようやく幕を開けたのです。
07
ソル・エラプションの巨大な爆光が収まると、視界を埋め尽くしていた精鋭部隊の前衛数万体が、宇宙の塵となって消滅していました。
しかし、大総帥の周囲を渦巻く黒い霧は底なしでした。蒸発した端から、今度は戦艦サイズにも及ぶ超巨大な特務シャコたちが、星の海を完全に塗り潰すほどの規模で湧き出してきたのです。何十万、あるいは何百万という、絶望的な物量。常軌を逸した数の暴力が、全方位から私を圧殺しようと殺到してきます。
ですが、今の私の目には、それらはただの脆い案山子にしか見えませんでした。
「邪魔!」
ソベルカーの駆動系が唸りを上げ、巨像そのものが一筋の光と化しました。
敵の大群のど真ん中へ突入。ソベルカーが苔むした右腕を無造作に薙ぎ払うだけで、生体重装甲が数十体纏めてへし折られ、衝撃波で後方の数千体が連鎖的に吹き飛びます。
殺到する巨大なカマの群れを、ソベルカーは回避すらしません。強固な石の装甲で正面から受け止め、逆に相手の腕を粉砕しながら進みます。
頭上から襲いかかってきた一際巨大な特務シャコを、ソベルカーは両手で鷲掴みにしました。その硬質な甲殻を力任せに引きちぎると、残った胴体を巨大な棍棒の如く振り回し、群がる無数の敵軍を一網打尽に薙ぎ払います。
叩き潰された敵の体液と装甲の破片が宇宙空間で弾け飛び、玉座へと続く一本の道を強制的に切り拓いていきます。
どんなに数が多くとも、どれほど強大な軍団であろうとも、今のソベルカーの前では障害となり得ません。二年に及ぶ戦いの中で培った技術と、彼女に会うためだけに研ぎ澄まされた衝動。それが、石造りの巨人を、大軍すらも叩き潰す破壊の神へと変貌させていたのです。
取り付こうとする敵は全身の関節から噴き出す排気熱で焼き尽くし、行く手を阻む防衛陣形は粉々に踏み砕く。まさに鎧袖一触。大総帥が作り出した宇宙最大の手勢は、たった一体の巨像によって塵芥へと変えられていきました。
崩壊していく軍勢の向こう側に、沈黙を保ち続ける大総帥の玉座が、ついに肉眼で捉えられる距離まで迫っていました。私は全力で踏み込み、立ちはだかる最後の一群を肩部からのタックルで粉砕。ついにその漆黒の玉座へと続く大階段に、ソベルカーの重い足を叩きつけました。
玉座へと続く巨大な階段を、一段、また一段と踏みしめていきます。障害物を退かし終え、不気味な静寂を取り戻した広大な空間。その最奥で、漆黒の霧に包まれていたデッドシャコ大総帥が、ついに重い腰を上げました。
大総帥を隠していた、オーラとでも形容するべき霧が渦を巻いて散り、その全容を明確に捉えた瞬間、私はコックピットの中で僅かに息を呑みました。
数百万の精鋭を統べ、星さえも覆い隠す超弩級旗艦の中心に鎮座する絶対的な王。さぞかし星間要塞のような巨躯を誇るのかと思いきや、立ち上がった大総帥の背丈は、ソベルカーとさして変わらぬ大きさだったのです。
禍々しい生体金属と、あらゆる光を吸い込む漆黒の重甲殻で構成された、人間にも近い洗練されたシルエット。しかし、その体積の中には全宇宙でも異彩を放つ程のエネルギーが、超高密度に圧縮されているのが直感で分かりました。
大総帥は一言も発しません。ただ、その鈍く光るバイザーがソベルカーを捉えた瞬間、周囲の空間が、石を投げ込まれた水面のように歪みました。次の瞬間、大総帥の姿が掻き消えます。異常な速度で、眼前まで一息に踏み込んできたのです。
無音のまま振り抜かれた、漆黒の右拳。私は反射的にソベルカーの両腕を交差させ、防御姿勢をとりました。
かつてない衝撃。
同じサイズの巨人同士の衝突でありながら、それは小惑星同士がぶつかり合ったかのような次元の違う衝撃波を生み出しました。ソベルカーの石の装甲が軋み、足元の甲板が一撃の余波だけで巨大なクレーター状に陥没します。
私は衝撃に耐えながら体勢を立て直し、大総帥を力任せに押し返しました。そして至近距離からサンブレイクの熱量を纏わせた渾身のストレートを叩き込みます。大総帥もまた、腕の甲殻から黒い雷光を放ってそれを受け止めました。
互いの拳が交錯するたび、黄金と漆黒の閃光が迸り、真空の宇宙空間にありえない轟音が響き渡ります。言葉も、小細工もありません。ただ純粋な暴力と暴力、執念と本能のぶつかり合い。
巨像二体が、デッドグレイブの玉座の間を徹底的に破壊しながら繰り広げる、死闘の幕が上がったのです。
08
大総帥の漆黒の拳と、ソベルカーの白熱する拳が宇宙の最果てで幾度となく交錯しました。
ここに至るまでの攻防と比べてしまえば迫力に劣る、近しいサイズの巨像同士が交わす応酬。しかし、その一撃一撃が放つ余波は、周囲の空間を歪ませ、巨大な星間要塞『デッドグレイブ』の構造を次々と崩壊させていきます。
私はソベルカーの右腕にサンブレイクのエネルギーを集中させ、超高熱の光刃を形成して大総帥の首元へと薙ぎ払いました。しかし、大総帥は全く動じることなく、左腕に纏った暗黒の雷光でそれを真正面から弾き飛ばします。弾かれた光刃が要塞の一部を切り裂き、宇宙の彼方へと旅立たせました。
シャコの王は、息をつく暇すら与えません。瞬きする間にソベルカーの懐へと潜り込み、黒い霧を高密度に圧縮した重い蹴りを腹部に叩き込んできました。
強固な石の装甲が大きく軋み、亀裂が走ります。衝撃がコックピットを激しく揺らし、私は内部壁に必死にしがみつきながら、臨戦態勢を継続させました。
二年間、どんな絶望的な物量も、凶悪な敵幹部も、最後には私の執念とソベルカーの出力が上回ってきました。ですが、目の前にいる大総帥は違います。
底が見えない。
どれだけ限界を超えた熱量を叩き込んでも、大総帥が纏う虚無のエネルギーにすべて吸い込まれ、無効化されているような錯覚に陥ります。
「────コロナ・パニッシャーーーッ!!」
両腕に太陽光を極限まで収束させた、連続打撃を放ちました。黄金の流星群のごとき拳の雨が、大総帥の漆黒の甲殻を滅多打ちにします。しかし、大総帥の周囲を覆う空間の歪みがその熱量を瞬時に冷却し、根こそぎ奪い取っていきました。
そして、大総帥の右腕が静かに振り抜かれます。無造作な、しかし洗練された亜光速の拳は、ソベルカーの防御姿勢を容易く貫通し、左肩の装甲を根本から完全に粉砕しました。
巨大な石の破片が宇宙空間に散らばり、コックピット内にけたたましい警告音が鳴り響き、思わず悲鳴を上げそうになり、歯を食いしばります。
徐々に、しかし確実に押されている。私の執念という燃料だけでは、齧っただけの技術では、この宇宙最大の不条理を焼き尽くすには足りない。大総帥は、砕けた左腕を押さえて片膝をついたソベルカーを見下ろし、処刑の刃を振り下ろすように、ゆっくりとその漆黒の鎌を高く掲げました。
残されたスラスターを限界まで吹かして、巨体を強引にスライドさせ、窮地を脱します。直後、私が先ほどまでいた空間ごと、生体金属の床がごっそりと消滅しました。
轟音も、衝撃すらありません。ただ物質が根こそぎ『無』に変換されたのです。もしあの一撃をまともに受けていれば、機体ごと塵になっていたでしょう。
私はコックピットの中で荒い息を吐き出しました。視界を覆う赤色の警告光が、神経を削るように鳴り響き続けています。
脳裏に冷たい絶望がよぎります。ですが、胸元にある写真の重みが、すぐにその弱音を否定しました。
足りないなら、残ってるものを全部絞り出すだけです。
石でできた操縦席の壁を殴りつけ、警告音を強制的に切り、再びソベルカーの石の足に力を込めました。
なぜ、私の力は届かない。サンブレイクの黄金の光は、あらゆる悪を焼き尽くすはずなのに。
その時、思い至ったのです。
私が放っている太陽の光は、あくまで『正しいエネルギー』です。しかし、今私がやろうとしていることに『正しさ』なんて初めからありません。一個人の執着で世界の理を力ずくでねじ曲げ、たった一人の少女を取り戻すために宇宙を破壊しようとしている。それはあまりにも、独善的で身勝手な振る舞いです。
脳裏に、かつて格が私を死者の世界から引きずり戻してくれた時の記憶が蘇りました。あの時の部長も、きっと今の私と同じだったはず。理屈でも正誤でもなく、ただ私と一緒にいたいという我儘だけで、すべてを捧げてくれた。
「……正しくてもやっちゃいけない事がある。間違っていてもやんなきゃならない事がある」
大総帥の漆黒の蹴りが、ソベルカーの胸部装甲を抉ります。ですが、私の頭はかつてないほどに澄んでいました。
「自分は……格と一緒に生きたい。そのためなら、正しくなくてもいい。誰に何を言われたって構わない。世界の理屈がどうだろうと、全部壊して、格の元に帰る!」
それは、僅かに残った、英雄という虚像が完全に崩れ去り、一人の少女の身勝手で巨大な『愛』が爆発した瞬間でした。
独善的で純粋な感情の波形に、左手首の黒曜石の数珠が激しく共鳴します。
そして、太陽のエネルギーを司るソベルカーの無限動力炉が、私の欲望という重力に引きずり込まれ、特異点のように反転を起こしたのです。
砕け散ったはずの左肩の断面から、黒い炎が奔流となって噴き出し、瞬く間に新たな炎の腕を形作りました。苔むした石の装甲は超高熱によって黒曜石のような光沢を帯び、巨像の背後には闇すらも燃やし尽くす漆黒の後光が展開されます。
正義の太陽戦士は、ここに死にました。泥濘の中から立ち上がったのは、愛しい人に再会するためだけに、現象さえも焼き尽くす、漆黒の魔神『デウス・ソベルカー』
大総帥の動きが、ピタリと止まりました。
不条理の王すらも本能的に警戒するほどの、圧倒的な終末の気配。
漆黒の炎を纏った石の足で、生体金属の大地を力強く踏み砕きました。
デウス・ソベルカーが大地を蹴った瞬間、大総帥が神速で視界から消えました。直後、背後から無音で現れた大総帥は、両腕に宇宙の暗黒を圧縮した虚無の刃を形成し、私の首を狩らんと振り下ろしてきます。
しかし、今の私にとって、その動きはひどく緩慢なスローモーションに過ぎませんでした。
私は回避すらしません。大総帥の必殺の刃がデウス・ソベルカーに届くより早く、背後の漆黒の後光に触れた瞬間。星系すらも両断するはずの虚無は、ジュッ、という微かな音と共に一瞬で蒸発してしまったのです。
大総帥の動きが、明確な狼狽を伴って硬直しました。自らの不条理が、まるで通用しない。ブラックホールでさえ飲み込めない熱量が、この石の巨像から溢れ出していることに気づいたのでしょう。
デウス・ソベルカーが振り返りざまに、黒い炎の左腕を伸ばして大総帥の胸ぐらを鷲掴みにしました。超新星爆発にも耐えうるはずの絶対装甲が、黒炎に触れた端からドロドロと飴のように溶け落ち、大総帥が初めて苦悶にもがきます。
捕縛したまま、私は右の石拳を大きく振りかぶりました。そこに収束するのは、太陽の正しい輝きではなく、己の傲慢なまでの執念を限界まで圧縮した漆黒の炎。
右ストレートが、大総帥の顔面を打ち抜きました。
直後、宇宙が裏返るような波動が爆ぜました。月よりも巨大な星間要塞『デッドグレイブ』が、たった一撃の余波で真っ二つに割れて崩壊を始めます。周囲数光年に存在していた小惑星帯が、嵐の中の塵のように彼方へと吹き飛ばされていきました。
大総帥の巨体は、要塞の隔壁を何百枚も連続でぶち破りながら、宇宙空間の果てへと吹き飛ばされていきます。大総帥は空中で空間そのものを折り畳み、何千層もの空間断層を張り巡らせましたが、デウス・ソベルカーは止まりません。星の海を蹴り渡って肉薄し、その両腕を無造作に振るうだけで、空間の歪みさえ引火させて跡形もなく燃やし尽くしました。
逃がすわけにも行きません。
防壁を失った大総帥の腹部に追いつき、重い蹴りを突き刺します。
大総帥を覆っていた霧は晴れ、装甲の至る所から生体金属の破片を撒き散らして宇宙空間を漂っています。もはや反撃の力すら残っていないのは明らかでした。
私は、機能停止寸前となった大総帥を見下ろし、この偽物の宇宙に完全なる終止符を打つべく、無言のまま掌をゆっくりとその胸元へと向けました。掌の中心に、光はおろか、空間そのものを吸い込む絶対的な暗黒の太陽が形成されていきます。
大総帥のバイザーの奥で、初めて「死」に対する明確な恐怖が明滅しました。しかし、もはや慈悲などありません。
私は、全ての躊躇を捨て去りました。
愛しい人に会うというのに、憎しみを持って帰ってはいけません。
放たれたのは、触れたものを根こそぎ無へと還す、漆黒の奔流。
期せずして、大総帥の技と同じ属性を持った暗黒の炎。
大総帥の強固な巨体は、防壁を展開する間もなく、断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられず、一瞬にして生体金属の一欠片、原子の一粒に至るまで完全に蒸発し、消滅しました。
しかし、漆黒の奔流はそれだけでは止まりません。大総帥を呑み込んだ暗黒の光条は、宇宙の果てへ向かって無限に拡大しながら暴走しました。真っ二つに割れていた星間要塞『デッドグレイブ』の残骸が、奔流に触れた瞬間に泡のように消え去ります。さらに、宙域に残存していた数百万という規模のデッドシャコ大軍勢も、逃げることすら叶わず漆黒の波に呑み込まれ、最初から存在しなかったかのように跡形もなく消し飛んでいきました。
数光年にわたる空間が、巨大な暗黒の爆発によって完全に塗り潰されました。近隣の恒星系すらも余波で吹き飛ばし、銀河の地図を書き換えるほどの、規格外で圧倒的な破壊。宇宙そのものが悲鳴を上げ、視界のすべてが極限のエネルギーによって反転しました。
やがて、宇宙空間を揺るがした漆黒の光が収まると、そこには絶対的な静寂だけが残されていました。大総帥も、絶望的な物量を持った軍勢も、彼らが蔓延っていた要塞も、塵一つ残っていません。『牛の首』が作り出した、この二年間に及ぶ戦いは、私の手によって完全に、徹底的に粉砕されたのです。
荒い息を吐きながら、私はコックピットの中で世界を見つめました。けたたましく鳴り響いていた警告音も、軍からの絶望的な通信も、デッドシャコが打ち鳴らす不快なハサミの音も、もはや聞こえません。あるのは、自分の心臓の鼓動と、ソベルカーの動力炉が静かに稼働する音だけでした。
激しい摩擦と熱で装甲は黒く焼け焦げ、片腕を失ったデウス・ソベルカーは、満身創痍のまま真空の海に漂っていました。やがて視界のノイズが晴れていくと、静寂を取り戻した暗黒の宇宙の向こう側、遥か遠くに一つの星が浮かんでいました。
地球。
デッドシャコ大師団の巨大な甲殻に覆い隠されていたその星は、今や何の遮るものもなく、ただ静かに、小さな青い宝石のように瞬いていました。
「……終わったんだ」
コックピットの壁に深く背中を預け、私は掠れた声で呟きました。
二年。果てしなく長く、泥と血と硝煙に塗れた地獄。自分が誰かさえ見失いかけた空白の日々。
宇宙の暗闇に浮かぶ、そのひときわ青い輝きを見つめていると、自然と一人の少女の姿が脳裏に重なります。背中まで伸ばしたボリュームのある青白い髪。頭の両側を彩る大きな赤いリボン。そして、季節を問わずに巻いているツートンのマフラー。
存在を抹消され、私自身さえも幻覚だと疑いかけた、けれど間違いなく私をここまで突き動かしてくれた愛しい人。
「格……」
ただその青い星の瞬きを見つめながら、もうすぐ再会するであろう彼女の笑顔を、静かに、愛おしく想い描きました。
その時でした。ソベルカーの魔術的なセンサーが何かを捉えたわけではありません。私の魂の奥底が、確かな熱を帯びて激しく何かを告げてきます。
大総帥が消滅し、宇宙空間を埋め尽くしていた本隊が壊滅したとはいえ、地球にはまだデッドシャコの残存勢力が蔓延っているのが直感で分かりました。更に、その不穏な気配の向こう側に、私は確かに感じ取っていました。
世界の理がどれほど彼女を否定しようとも。あの青い星のどこかに、彼女が存在していることを、全ての細胞が理解していました。
「待たせたね……今、帰るから」
私は気合を入れ直し、背部のスラスターに再び火を入れます。傷ついた漆黒の巨像が真空の海を滑り出し、数光年離れた地球へと向けて猛烈な加速を開始します。
その帰路の最中でした。宇宙空間を切り裂いて進む巨躯から、周囲の光すら吸い込んでいた漆黒の炎が、少しずつ、まるで役目を終えたかのように霧散していったのです。限界まで膨れ上がっていた私の執着と怒りが、あの青い星に近づき、彼女の存在を魂で感じ取ったことで、穏やかな愛おしさへと凪いでいったからなのかもしれません。
超高熱によって黒曜石のような光沢を帯びていた装甲は徐々に熱を失い、既に見慣れた、苔むした石の質感へと戻っていきます。砕け散った左腕を補っていた黒炎の腕も消え去り、そこには満身創痍の痛々しい断面だけが残りました。それについては、帰りしなに石でも拾ってくっつけておくことにします。
概念さえも焼き尽くす漆黒の魔神『デウス・ソベルカー』は静かにその姿を消し、ボロボロに傷つきながらも大切な人の元へと急ぐ、『太陽戦士ソベルカー』へと回帰していきます。
そして、変化は機体だけにとどまりませんでした。コックピットの中で、私が身に纏っていた泥と血と硝煙に塗れたパイロットスーツが、淡い光と共に解けていったのです。代わりに私を包み込んだのは、極亜久高校の指定制服でした。それは、二年に及ぶ地獄をくぐり抜けてきたとは到底思えない、まるで今日初めて袖を通したかのように、一点のシワもなく整えられた見慣れた服装でした。
地球へと帰っていくのは、もはや英雄という名の虚像でも、世界を壊す復讐者でもありません。ただ、たった一人の少女に会うためだけに地獄を生き抜いた、極亜久高校オカルト部の一人の学生でした。
石造りの巨人は、細く力強い光の尾を引いて、宇宙を真っ直ぐに駆け抜けていきます。
これが、私にとっての、牛の首事件の全てです。この後、私がどのような形で元いた世界へと舞い戻り、彼女と共に残る不条理を笑い飛ばしたのか。それはまた別の、とても胡乱で、騒がしい記録に譲ることにします。
09 エピローグ
春の柔らかい陽光が、レンガ造りの校舎と新緑の並木道を暖かく照らしている。行き交う学生たちの笑い声や、新歓の賑やかな声が、心地よいBGMのように耳を撫でていく。
ここは、丘流登大学のキャンパス。
地獄のような受験戦争と、文字通りの地獄だった怪異との決戦を乗り越え、無事に青樹格と同じ大学への進学を果たした頃。
泥と硝煙、あるいは異界の不条理にまみれていた日々が嘘のように、今の自分はどこにでもいる平凡な新入生として、平和で退屈な日常を謳歌している。
午前の講義を終え、次へ向かう途中の中庭。自動販売機で缶コーヒーを買い、格との待ち合わせ時間までぼんやりと空を眺めていた。本当に、何事もない平和な日だ。空を埋め尽くす巨大な海産物もいなければ、理不尽な怪異もいない。無意識に癖毛を指で捻りながら、ふと視線を落とした。その時だった。
視界の端、指定された喫煙スペースのギリギリ境界線上に、どうにもこの穏やかな空気には似つかわしくない、物騒な男が立っていた。
柄シャツは乱暴に着崩され、姿勢は悪く、およそ真面目に学問を修める気などなさそうな、気だるげでチンピラのような風貌。どこにでもいそうな不良学生。だが、自分の網膜はその男の顔をハッキリと記憶していた。
(……は?)
見間違えるはずがない。泥濘の戦場で自分に黒曜石の数珠を押し付け、石の巨人を押し付けた、無責任極まりない先代パイロット。
自分は自販機の前で足を止め、その男をじっと睨みつけた。強烈な視線に気づいたのか、紫煙を吐き出していた彼がゆっくりとこちらを振り向く。
気怠げな双眸が、自分を捉えた。一瞬の間の後、彼の目がわずかに見開かれる。
「……あ?」
馬場芭蕉は吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し付けると、ポケットに手を突っ込み、スニーカーの踵を気怠げに引きずりながら、こちらへと歩み寄ってきた。
「お前……いや、アンタ、あの時の泥んこまみれの二等兵か?」
信じられないものを見るような目で自分を見下ろしてくる。その気怠げな声の響きは、あの絶望的な戦場で聞いたものと全く同じだ。しかし、いま互いが立っているのは、死臭と硝煙に塗れた戦場ではなく、うららかな春の風が吹き抜ける平和なキャンパスである。
「自分は沖ノ島ジェシカ。二等兵じゃない」
僅かに眉根を寄せ、毅然と言い返す。
「馬場芭蕉。まさか、同じ大学に入ってくるとはな。……つーか、あの後どうなったんだよ。俺はオキノシマにアレを押し付けた直後、あの空間から弾き出されて、気づいたら自分の部屋のベッドで寝てたんだが。タチの悪い夢かと思ったぜ」
馬場芭蕉と名乗った男は、大したことでも無いように、数珠は失くすしよ、と頭を掻いている。
それは、今たしかに自分の手の中にあるというのに。
「夢じゃない。アンタが、あの面倒な巨人と数珠を押し付けて逃げたせいで……自分は丸々二年、地獄を見る羽目になったんだけど」
少しだけ恨みを込めて睨みつけると、彼はうげ、と分かりやすく顔を引きつらせた。
「悪かったっての。でも、あのまま俺が持ってても犬死にだっただろ」
気まずそうに視線をそらしたが、すぐに真剣な色を帯びた目でこちらを見直した。
「何より、あの絶望的な状況で……オキノシマの目だけは、まだ死んでなかったからな。こいつなら、何とかするかもしれないって思ったんだよ」
言い訳がましい言葉の中には、彼なりの不器用な信頼が混じっていた。
「……で? 結局、どうやって帰ってきたんだよ。あの海産物の大群、どうにかできたのか?」
「ん。全部叩き壊してきた」
「ははっ、マジかよ」
男は呆れたように、けれどどこか心の底から安堵したように、長く息を吐き出した。
「そりゃ重畳。大したタマだわ、アンタ」
自分の顔をまじまじと見つめ、そして小さく頷いた。
「生きて帰ってきてくれて、俺も少し救われたわ」
自分のせいで一人の少女を地獄に置き去りにしたという罪悪感が、彼の中にも確かにあったのだろうか。そんな顔をされては、強く責めるのも気が引ける。
缶コーヒーの冷たい感触を掌で転がしながら、小さく息をついた。
「……別に、あなたのために生きて帰ったわけじゃない」
まっすぐに彼の目を見据え、告げる。
「あの時、アンタがソベルカーを渡してくれなかったら、自分は間違いなく、あの泥の中で死んでた。だから、それだけは感謝してる。生きて再会できてよかった。ありがとう、先輩」
彼は少し照れくさそうに目を逸らし、ポケットに手を突っ込み直した。
「おう。生還おめでとうさん」
馬場はぶっきらぼうに、けれど確かな祝意を込めて言う。
ありえない地獄を共に知る者同士として、自分たちはほんの少しだけ口角を上げ、ささやかに互いの無事と生還を祝い合った。
「……そうだ。待って」
浮ついた空気に耐えきれなかったのか、踵を返そうとした彼の背中に向かって、自分は声をかけた。彼が振り返ったのを確認し、鞄にしまっていた『それ』を取り出すと、無造作に放り投げる。
「おわっ」
慌てて両手で受け取った馬場は、手の中に収まった冷たい感触を確かめ、サングラスの奥で目を丸くした。
「忘れ物……返しとく」
「はは、どーも」
馬場は信じられないものを見るように数珠と自分の顔を交互に見比べ、それから、どこか困ったような、懐かしむような苦笑を漏らした。
「自分のものじゃないからね……もう二度と、無責任に誰かに押し付けないでよ」
「ちげぇねえ」
彼は小さく肩をすくめると、その黒曜石の数珠をズボンのポケットに突っ込んだ。
「じゃあな、後輩。大学生活、せいぜい楽しめよ」
馬場芭蕉はヒラヒラと背を向けたまま手を振り、新歓で賑わう学生たちの波に紛れて、今度こそ完全に見えなくなっていった。
数珠を手放したことで、あの二年間が本当に、自分の手から離れて過去になったのだという実感が湧いてくる。
その時、背後から、一番聞き慣れた、一番愛おしい声が響く。
振り返ると、赤いリボンも、ツートンのマフラーも手放した、何者でもない少女が現れた。
黒い義足での歩行にもある程度は慣れたようだ。
もう、世界を敵に回すような不条理な戦いはない。
ただ、愛しい人と共に過ごす、少しだけ騒がしくて、かけがえのない。
一人にだけ承認される、二人だけの正しさが、ここにあるだけだ。
▽最後までありがとうございました!!
▽もしこれ単体で読んでくれて、意味わからんと思った人がいたら、本当にごめん。
正味意味わからんと思う。
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▽むしろここまで読んでくれたんならお礼にプレゼントします。メールとか下さい。