『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
博士の調整を終え、僕はあの気味の悪い研究室を後にした。
実際のところ、この施設がどこにあるのか、僕にも定かではなかった。
外の様子を窺い知れるような窓は一つもなく、そもそも来る時はわざわざ転移で飛ばされてきたのだ。
最初はオルキスタワーの地下にでも作られた隠しフロアかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
とはいえ、現状特に不都合があるわけでもない。深く考えるのはやめて、元の場所へ戻ろうと足を踏み出した――その時だった。
「……?」
不意に、脳の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えた。
何者かの精神波が僕の脳に直接『干渉』してきているような、奇妙な感覚。
気にするほどの痛みではない。無視しようと思えば、いくらでも無視できる程度のノイズだ。
けれど、直接自分の脳髄を撫でられているようなその感覚が、どうしても気になって仕方なかった。
僕は自分の頭を軽く押さえながら、まるで見えない糸に導かれるように、施設のさらに奥へと足を踏み入れていた。
無機質な通路を歩き続けること、十数分。
かなり広い施設内を彷徨い、僕はとある一室にたどり着いた。
がらんとしたその部屋の奥には、ぽつんと無骨な椅子だけが置かれており。
そこに、一人の男がだらんともたれかかるようにして眠っていた。
(間違いない……この感覚は、彼からか)
部屋に足を踏み入れた途端、先ほどより一段と強くなったチリチリとした感覚。
僕は痛む頭を押さえながら、警戒しつつその男へと近づいた。
そこにいる男のことは、名前と過去の姿くらいしか知らないはずだった。
遊撃士協会のデータや、エリュシオンの演算知識の中にある彼の姿と、目の前の男の容姿は随分と懸け離れている。
――なのに。何故か、理屈ではなく直感で『理解』してしまった。
(『灰の剣聖』リィン・シュバルツァー……?)
帝国を救い、世界大戦を終結に導いた英雄であるはずの彼が、何故こんなところで眠っているんだ。
頭を押さえながら、僕は眠る彼の姿をまじまじと見渡した。
僕の知る彼――黒髪の短い髪の青年の姿とはだいぶ違う。
その髪は雪のように真っ白に染まり、長く伸びていた。
本来なら、こんな場所に、こんな姿で存在しているはずのない人間だ。
僕がその異様さに息を呑んでいると。
不意に、目の前の彼が、ぼーっとした虚ろな表情でゆっくりと目を開けた。
「っ……!」
僕はビクッと肩を揺らし、咄嗟に警戒の態勢を取る。
しかし、彼は敵意を見せることもなく、焦点の合わない紫紺の瞳で僕を見つめ、ひどく掠れた声で呟いた。
「君、は……?」
「……俺は――」
言葉を返そうと口を開きかけた、次の瞬間だった。
「――ッ!!」
彼の瞳が限界まで見開かれ、その表情がふいっと驚愕と苦悶に歪んだ。
「はぁっ……! はぁっ、はぁっ……!」
肩を大きく上下させ、ひどく苦しそうに、まるで長い悪夢から引きずり出されたばかりのように荒い呼吸を繰り返す。
そして、自らの白い髪と、黒いコートに包まれた両手を震える視線で見下ろし、信じられないものを見るようにポツリと零した。
「俺は……。俺は、眠っていたのか……?」
そこにいるのは、強大な呪いの気配を纏いつつも。
ただ自分の置かれた状況に戸惑い、苦しむ、一人の青年の魂だった。
「大丈夫か、あんた」
荒い呼吸を繰り返し、ひどく混乱している様子の彼に歩み寄りながら、僕は携帯していた水筒(ボトル)を差し出した。
「……すまない」
彼はひどく疲労しきった表情で、震える手でボトルを受け取ると、ゆっくりと水を飲んで喉を潤した。
「ふぅ……」
一息つき、少しだけ落ち着きを取り戻した彼が、僕へ顔を向ける。
「ありがとう。……俺は、リ――」
しかし、自己紹介をしようとしたその口が、不自然に言い淀んだ。
己が何者であるか、という『不確かさ』に直面してしまったような、ひどく悲痛な迷い。
その表情を見た瞬間、僕は全てを理解した。
(ああ……彼も、同じなのか)
再現体なのかシミュラクラなのかは知らないが。
彼もまた、エリュシオンの途方もない演算によって、この世界に無理やり生み出されてしまった『影』なのだと。
言い淀んだまま固まっている彼に向けて、僕は静かに口を開いた。
「――リィン・シュバルツァー、だろ」
「……!」
驚いたようにこちらを見上げる彼に、僕は仮面の下で小さく苦笑してみせた。
「有名人だからな、あんたは」
そして、今度は僕が自己紹介をする番だ。
「俺は――」
言いかけて、少しだけ考えた。あの偽名(グレイ)を名乗るべきか。
だが、自分と同じように存在の不確かさに迷い、苦しんでいる目の前の『同胞』に対して、ただの記号のような偽名で誤魔化す気にはどうしてもなれなかった。
「……アルシュ。アルシュ・グレイウッドだ」
この、二十年の時が消え去った現実の世界において。
僕は初めて、自らの口で『自分の本名』を名乗った。
「多分、あんたの同類か、同胞ってやつだ。……俺も、エリュシオンの演算で生まれた再現体だからな」
付け足すようにそう語った僕の言葉を聞いて。
リィン・シュバルツァーは、全てを察したように深く目を伏せた。
「そうか……。君も……」
そして、どこまでも生真面目な彼は、初対面であるはずの僕に向けて、深く、痛切な謝罪の言葉を口にした。
「……すまない」
「何がだよ」
「かつての大戦で……俺が選ばなかった、もう一つの結末。その『俺』という存在がエリュシオンに演算されてしまったために、今のこの事態が巻き起こっている。……君のような、本来ならあり得ない再現された存在まで生み出してしまって。本当に、すまない……っ」
ギュッと拳を握りしめ、自分を責めるように語る彼。
世界を脅かす統一国の総統――その根源でありながら、
目の前にいる彼はただ、自らの存在が引き起こした波紋と責任に押し潰されそうになっている、心優しい一人の青年だった。
「それに……」
彼は自らの胸の奥を、忌まわしいものを抱くように強く押さえた。
「今の俺の中には……あの呪いそのものである『イシュメルガ』の意識が眠っている。俺のこの自我が表に出ているのは、ほんの僅かな微睡みの時間に過ぎないんだ」
続けて説明されるその内容に、僕は心底驚かされた。
エリュシオンの演算の果てに観測されてしまった『イシュメルガ』という呪いの存在。それが、このすべての異常な事態の始まりだったのだと。
けれど、僕はその話を聞いて、少しだけ可笑しくなって苦笑した。
「……俺はさ、エリュシオンに一番最初に作られた再現体らしいんだ」
「最初に……?」
「ああ。おそらく、あんたの中にいるイシュメルガが演算されるよりも前だ。だから他の再現体とは違う規格外の存在で、作られた用途も違うらしい」
僕は軽く肩をすくめて、彼に告げた。
「だから、俺がここにいることに関して、あんたが責任を感じて気に病む必要は一切ないんだよ」
僕の言葉に、リィン・シュバルツァーはぽかんと呆気にとられたような顔をした。
そして少しの沈黙の後――ふっと、彼の口元から憑き物が落ちたような笑みがこぼれ落ちた。
それは、先ほどまでの世界の絶望をすべて背負ったような重苦しい雰囲気とはまるで違う、どこにでもいる年相応の青年の、優しくて穏やかな笑顔だった。
彼の秘密を聞かせてもらった代わりというわけではないが。
僕は、記憶を勝手に覗き見たあの悪趣味な博士はともかく、他の誰にも伝えるつもりのなかった今の自分の来歴を彼に話した。
十歳で命を落としたという本来の現実の記憶。
そして、エリュシオンに演算された二十歳までの人生。
その二つが同時に詰め込まれ、矛盾を抱えたままここにいるのが自分なのだと。
クロスベルの事情に通じ、特務支援課の面々とも見知った仲である彼にとっても、僕の複雑な生い立ちはかなりの驚きをもって受け止められたようだった。
そんな話の最中。ふと、言葉を止めて自らの両手をじっと見入っているリィンに気がついた。
「……どうしたんだ?」
「いや……ここまで安定して、はっきりと意識が戻っているのは久しぶりだと思ってね」
彼は自らの白い髪を少しだけ鬱陶しそうに払うと、静かに語った。
「この身体の主導権は、ほとんどイシュメルガの側にあるんだ。俺の意識がこうして浮上できるのは、稀に奴が深く眠っている時だけなんだよ」
淡々と語る彼に、僕は深く同情していた。
十歳で死んだ記憶と二十歳の記憶が混濁している僕も大概だが、
彼が置かれている状況は僕よりよっぽど悲痛で残酷な地獄だ。
こうして話している分には、ただの気遣いのできる真っ直ぐで普通の青年なのに。
この異常な事態をどうにかしたいと一番強く願っているのは、他でもない彼自身なのだ。
「……また来るよ」
僕は立ち上がり、もたれかかっていた壁から背を離した。
「理由はわかんないけど……俺と話すことで、あんたの意識が少しでも安定するならさ」
思わぬ提案だったのか、リィンは少しぽかんとした表情で僕を見上げた。
そして、すぐに何かを堪えるように目を細め、嬉しそうに頷いた。
「……ああ。また」
彼が眠る部屋を出て、元の場所へと無機質な通路を戻りながら、僕は一人で思いに耽っていた。
エリュシオンという神の如き演算器と、イシュメルガという呪いの存在。
それが、今回のクロスベル占領と『統一国』事変の裏側にいた真の黒幕。
そして……リィン・シュバルツァーという男は、たった一人で、あんな暗くて冷たい部屋の中で、自分の身体を乗っ取ろうとする絶望的な孤独と戦い続けていたのだ。
――ドンッ!!
「……クソッ……!」
理不尽に対する抑えきれない怒りと苛立ちが込み上げ、僕は通路の硬い壁を力任せに蹴り飛ばしていた。
創編書くなら絶対入れたかった交流です