【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
その、夜。
アルシュは自室のベッドに潜り込み、布団を頭からすっぽり被ったまま、暗闇の中で何度も何度も寝返りを打っていた。
目を閉じれば、裏路地での出来事が、鮮明にフラッシュバックしてくる。
月明かりに照らされた、あの燃えるような赤髪。
無邪気な笑顔の裏側に、ぬめりと潜んでいた、圧倒的なまでの暴力の気配。
そして――自分の命なんて、道端の虫けらみたいに、いとも容易く摘み取ってしまえるであろう、あまりにも次元の違う『強さ』。
(怖かった……。本当に、殺されるかと思った……)
思い出すだけで、指先が微かに震えてしまう。
けれど。
あの時、彼女から浴びせられた強烈な威圧感は――ただの、純粋な恐怖と怯えだけでは、なかった。
圧倒的で、絶対的。もしも、あの力を手に入れられたなら。
キーアを襲う、どんな理不尽な暴力だって、簡単に叩き潰せてしまうんじゃないか。
そんな、心に焦げつくような――禍々しい、憧れにも似た感情が。アルシュの胸の奥で、じりじりと燻っていた。
布団の中で身をよじって、アルシュは枕元に置いていた一枚のカードを手に取った。
街灯の光がうっすら差し込む部屋の中で、そこに記された高級ホテルの名前を、指先でそっとなぞる。
『よかったらお姉さんが、剣を教えてあげよっか?』
彼女のあの誘いが、甘い毒みたいに、耳の奥でいつまでもこだましている。
ここに行けば、きっと確実に強くなれる。あの途方もない力を手に入れるための、何かが――掴めるかもしれない。どうしようもなく後ろ髪を引かれるような。
暗闇へ、手招きされるような。そんな感覚が、じわりとアルシュを絡め取りかけて――。
――しかし。
(……だめだ)
その時、アルシュの脳裏に、大切な人たちの顔が、次々と浮かび上がってきた。
『アルシュ、すごいね』と、大聖堂の裏庭で無邪気に笑いかけてくれた、太陽みたいなキーアの顔。
『誰かを守りたいってのは、男が強くなるための、最高の理由だぜ』と、あの大きな手でくしゃくしゃに頭を撫でてくれた、頼もしいランディ。
そして――前線向きじゃないと自分を笑いながらも、息子のためにわざわざランディへ頭を下げて、いつも優しく見守ってくれる、父さんの、あの温かい眼差し。
あの赤髪の女性がまとっていた、あの血の匂い。
それは、みんながいるこの温かな日だまりの世界とは、あまりにも、かけ離れすぎている。
かりに、あんな暗くて冷たい力でキーアを守ったとして。
きっと彼女は、そんなの、これっぽっちも喜んでなんかくれない。
「……だめだ。僕がなりたいのは、あんなのじゃない」
アルシュは、ぶんっと強く首を横に振って、心にねっとりとまとわりつく、恐ろしくて甘い誘惑を、力いっぱい振り払った。
手の中のカードを、ベッド脇のサイドテーブル――その引き出しの、いちばん奥へ押し込む。
それからもう一度、ぎゅっと布団に潜り込んで、固く目を閉じた。
明日もまた、父さんやランディさんに教わったことを、まっすぐ繰り返そう。
地道で、泥臭くて、ちっぽけな一歩かもしれないけれど。それでも、これが自分で選んだ、「強さ」への道なんだから。
少年の心に、ぽつりと落ちた一滴の黒いインク。
それは、彼自身が持つ温かな光に包まれて――今はまだ、静かに、底の方へと沈んでいった。