『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
博士の不気味な研究室を後にした俺は、買ってきた手土産の入った袋を片手に提げ、あのリィン・シュバルツァーが眠る部屋へと無機質な通路を歩いていた。
(……っ)
途中、再び脳の奥をチリチリと直接撫で回されるような、あの嫌な感覚に襲われた。
前回、リィンと話している最中にはいつの間にか消えていたあの干渉のノイズ。
ラピスからエリュシオンの成り立ちを聞いた今なら、この感覚の正体がなんとなく理解できた。
(これはつまり……『俺』という原初のデータと、『イシュメルガ』という現在の観測結果が、システムの中で互いに干渉し合っているってことだろうな)
俺のデータはエリュシオンの深層で強固にロックされているとはいえ、奴がシステム全体を掌握して未来を再演算している以上、根本的な部分でコンフリクト(矛盾)の摩擦熱のようなものが起きているのだろう。
だから、イシュメルガの意識が深く眠りにつき、リィンの自我が表に出ている時だけは、この干渉の感覚がスッと収まっていたのだと思う。
(とはいえ……俺がずっと彼のそばにいれば収まる、なんて都合のいいものじゃないだろうしな)
今のエリュシオンを乗っ取り、管理人格として君臨しているのはあの呪いそのものだ。
それこそ、不用意に干渉を続けて奴の意識を刺激し、最悪の形で目をつけられでもしたら、これまでの行動がすべて台無しになってしまう。
そんなことを考えながら、俺はようやくリィンがいたあの部屋の前にたどり着いた。
しかし――部屋の中の光景は、先日とは全く違っていた。
「……おい」
部屋の奥。
前回彼が座っていたはずの無骨な椅子は、壁に凄まじい力で叩きつけられたように無惨にへしゃげ、ひどく変形して転がっていた。
そして、そのすぐそばの冷たい壁際。
リィン・シュバルツァーは、糸の切れた操り人形のように床に座り込み、ぐったりと眠っていたのだ。
「おい、大丈夫か……!」
俺は手土産の袋を床に置き、急いで駆け寄って彼の肩を揺すった。
「……」
意識はあるのかないのか、彼は焦点の合わない虚ろな瞳で、ぼんやりとこちらを見つめていた。だが、次の瞬間。
「ゴホッ、ゲホッ……!!」
突如として大きく胸を反らし、肺の奥から絞り出すように激しく咳き込んだ。
「おい、リィン!」
咳の波が収まると共に、彼の紫紺の瞳にようやく理性の光が戻ってくる。
彼は荒い息を吐きながら、焦点の合った目で俺を見上げ、ひどく掠れた声で呟いた。
「アルシュ……か」
「……大丈夫なのか?」
俺が顔をしかめて問うと、リィンは「ああ……」と力なく頷き、ひどく弱々しい笑顔を浮かべてみせた。
だが、どう見ても『大丈夫』な状態ではない。
部屋の惨状が物語っている。何かあったのかは知らないが、おそらく彼の中でイシュメルガの意識との壮絶な主導権争いがあり、肉体以上に、精神の奥底に計り知れないほどの重い負担がかかっているのだろう。
俺はそれ以上何も問わず、以前と同じように腰のポーチから水のボトルを取り出し、彼の手にそっと握らせた。
「……すまない」
「いいから、ゆっくり飲んで落ち着けよ」
彼が震える両手でボトルを口に運ぶのを見届けながら。
俺は冷たい床に腰を下ろし、隣に並んで座り込むと、彼の激しい呼吸が少しでも落ち着くのを、ただ静かに待つことにした。
そうして、彼が落ち着くまで、ただ静かな時間が過ぎていき……。
やがて荒かった呼吸が静まると、彼は俯いたまま、ぽつぽつと静かな声で話し始めた。
「今日の日中……イシュメルガがこの肉体を動かして活動していた時に。かつての仲間たちに会ったんだ」
(かつての仲間……)
遊撃士協会の情報で聞いたことのある、帝国において数々の困難を乗り越えた『Ⅶ組』のことだろう。そして彼は、オリジナルの『リィン・シュバルツァー』自身にも出会ったのだと語った。
「『黄昏』を乗り越え、俺が行けなかった未来へと進んだ仲間たち。……彼らの姿を見た時、どうしても抑えきれずに、俺の自我が表に浮上して想いが口から溢れ出したんだ」
彼は自嘲するように、弱々しく笑った。
「みんなに、それぞれの想いを伝えて……。そして、最後に頼んだんだ。『俺を殺せ』と」
その悲痛な言葉を聞いて、俺は強く唇を噛み締めた。
――そうなのだ。このリィン・シュバルツァーという存在は、死ぬ以外に道はないのだ。
彼がシミュラクラという『偽物』だからではない。
彼の中に『イシュメルガ』という世界を蝕む最悪の呪いが眠っている以上、彼は絶対に生き長らえてはいけない存在なのだ。
俺の顔には、隠しきれない沈痛な色が浮かんでいた。
先ほど、あの『母』と名乗る少女から聞いたばかりだ。
俺という存在は、純粋な愛と願いから生まれたのだと。
だが、目の前の彼は違う。
彼は、そもそもこの世に生まれてはいけなかった呪いの器として形作られた。
同じエリュシオンの演算によってこの世界に生み出された存在だというのに。
そのあまりにも残酷な運命の差異に、俺は胃の腑を握り潰されるような、吐き気がするほどの苦しさを感じていた。
「……」
そんな俺の痛ましい顔色を見て察したのだろう。
リィンはどこまでも優しい、相手を気遣うような笑顔を向けて言った。
「よかったら、そっちの話も聞かせてくれないか? 今日は、どうしていたんだ」
俺は少し躊躇した。
だが、同じように存在の不確かさを抱える彼にだけは、変な隠し事をしたくないという強い気持ちがあった。
俺はゆっくりと少しづつ、今日あった出来事をぽつぽつと話し始めた。
ラピスの詳細な素性や現在の状況だけは伏せつつ、自分自身にまつわる真実。
自分がエリュシオンの『原初の願い』から生まれた存在であること。
自分がただの後悔やバグの産物なんかではなく、その根底には『もう一度会いたい』という確かな愛があったのだということ。
どうしても、自らの死を望むしかない彼に対してそんな『救い』の話をするのは心苦しく、俺は無意識のうちに罪悪感に満ちた表情を浮かべてしまっていた。
だが――。
「……そうか。よかったじゃないか」
リィンは、自分のことのように。
心の底から嬉しそうな、柔らかな笑顔でそう言ってくれたのだ。
その穏やかな表情からは、痛いほどに彼の声なき言葉が伝わってきた。
『俺の運命と比べて、気にする必要なんてない』
『君が、君のルーツに救われて本当に良かった』
「――っ」
視界が不意に滲み、一瞬、堪えきれない涙が零れ落ちそうになる。
けれど、俺は必死に奥歯を噛み締めてそれを堪えた。
彼がせっかく向けてくれた優しさに、俺がここで泣いて応えるのは絶対に違う。
俺は滲む視界を瞬きで誤魔化し、彼と同じように、心からの笑顔を作って返した。
「……ああ。ありがとう、リィン」
俺は少しでもこの重く沈んだ空気を変えたくて、持ってきた手土産の紙袋をガサゴソと漁り、一本のボトルを取り出した。
「……飲めるか?」
俺が尋ねると、リィンは一瞬、俺が何を取り出したのか分からずキョトンと目を丸くした。
だが、それがワインのボトルだと気づくと、彼は毒気を抜かれたように堪えきれず吹き出した。
「ふっ……ははっ。こんな時に……ああ、頂こうかな」
俺は持ってきたグラスを二つ並べ、赤ワインを注いだ。
薄暗く、ひしゃげた椅子が転がる不気味な隠し部屋。
そこで、世界を滅ぼす呪いの器にされた青年と、死人の記憶を詰め込まれた再現体が、壁に背を預けて並んでワイングラスを傾けている。
そのシチュエーションのあまりの滑稽さに、俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑い合ってしまった。
「……美味しいな」
「ああ。本当に」
二人で軽くグラスを合わせ、そんな他愛のない感想を零す。
ほんのひと時だけれど、俺と彼の間には、普通の友人同士のような穏やかで温かい時間が流れていた。
やがて、グラスの中身が半分ほどになった頃。
俺は少しだけ表情を引き締め、今日起きた盤面の変化を彼に伝えた。
「今日、クロスベル全域を覆っていた通信妨害(ジャミング)が完全に解除されたよ」
「そうか……」
「ああ。おそらく、明日にはクロスベルを解放するために特務支援課が動く。それだけじゃない、あんたの言う『Ⅶ組』の連中も、オリジナルのルーファスたちも、一斉に反撃に出るはずだ。……明日が、この事変の正念場になる」
それを聞いて、リィンが少しでも希望を見出してくれるかと思ったのだが。
彼はグラスの赤い水面を見つめたまま、ひどく沈痛な面持ちでゆっくりと首を振った。
「……彼らがクロスベルを解放したとしても、それで終わりじゃないんだ」
「え……?」
「アルシュ。君は、今俺たちがいるこの施設が、どこにあるか知っているか?」
リィンはグラスを置き、背中を預けていた冷たい壁にそっと手を当てた。
「ここは、オルキスタワーの地下なんかじゃない。クロスベル市内にすら存在しないんだ。……ここは、『さかしまのバベル』。エリュシオンが密かに建造を進めていた、巨大な兵器の内部だよ」
「さかしまの……バベル……?」
聞き慣れない、しかしひどく不吉な響きを持った名前に、俺は眉をひそめた。
リィンは重い口を開き、俺の知らない『真実』――イシュメルガの真の計画について語り始めた。
クロスベルの占領や統一国の建国すら、奴にとってはただの布石に過ぎないこと。
人々の闘争心や悪意を限界まで煽り立て、最終的にはこの『さかしまのバベル』から放たれる絶対的な破壊兵器(天の雷)によって、ゼムリア大陸の主要都市を射程に収めること。
エリュシオンの神の如き演算能力を用いて、大陸全土を圧倒的な恐怖と暴力で支配し、世界中を絶望の底に叩き落とすという、純粋で狂気的な計画。
「奴は……イシュメルガは、世界中の悪意をこのバベルに集束させ、すべてを焼き尽くすつもりなんだ」
「…………ッ」
俺は、開いた口が塞がらなかった。
自分が手駒として参加していた計画の裏側に、そんな破滅的な目的が隠されていたなんて。
あまりに常軌を逸したその真実を前に、俺はただ息を呑み、言葉を失って絶句するしかなかった。
けれど絶望的な真実を語る彼の瞳には、しかし絶望の色だけが張り付いているわけではなかった。
薄暗い部屋の中でも、その紫紺の瞳の奥には、ほんの微かな、しかし絶対に消えない灯火のような『希望』が宿っていたのだ。
俺は、その揺るぎない光を見て、ふっと息を吐いた。
「……そっか。信じてるんだな」
「ああ」
リィンは、一切の迷いなく頷いた。
「俺が行けなかった先へ、自分の足で進むことができた仲間たちだから。……彼らなら必ず、この最悪の盤面を覆してくれると、俺は信じている」
その声には、自分を置いて未来へ進んだ仲間(Ⅶ組)への、絶対的な信頼と愛情が確かに込められていた。
「……俺も、信じてるよ。特務支援課のみんなを」
俺は、壁から背中を離してグラスを置いた。
「幼い頃からずっと俺の憧れで……これまでもクロスベルの前に立ちはだかる、数え切れないほどの高い『壁』を乗り越えてきた人たちだからな。俺も、彼らを強く信じてる」
俺と彼は顔を見合わせ、まるで互いの想いを確認し合うように、小さく笑みを交わした。
そして、俺はゆっくりと立ち上がった。
「……そろそろ行くよ」
身なりを整え、彼に背を向ける。
同胞と呼ぶには立ち位置が違い、共に戦う仲間というわけでもない。
かといって、友人だと名乗れるほどお互いの人生を深く知っているわけでもない。
ただ、なんとなく。ごく自然に、その言葉が口を突いて出た。
それはきっと、エリュシオンという同じ途方もない演算システムから生み出され、相反する運命を背負わされた『表と裏』のような、奇妙な縁で結ばれた存在だからだろうか。
「じゃあな、兄弟」
俺がそう呼びかけると。
背後で、リィンは一瞬だけ目を丸くして驚いたような気配を見せた。
だが、すぐにそれが、温かくて落ち着いた笑みへと変わるのが分かった。
「ああ。……後悔のないようにな、兄弟」
静かで、けれど力強いその言葉を背中で受け取り、俺は振り返ることなく手を上げて部屋を後にした。
重い金属の扉が閉まり、無機質な通路へと足を踏み出す。
自分の足音だけが響く冷たい空間で、俺はふと、先ほどの彼の優しい笑顔を思い出していた。
(……言ってはなかったけど、リィンには、おそらく気づかれてるだろうな)
リィンは、自分の命と引き換えにこの呪いを終わらせようとしている。
そして彼と同じように。
俺もまた、キーアの悲しみを晴らすという目的を果たし、この事変がすべて終わった後――この世界に生き長らえようなどとは、微塵も思っていないということに。