『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
クロスベル市内、中心部から少し離れた雑居ビルの屋上。
行政区のオルキスタワー周辺が見渡せるその薄暗い場所に、白衣を着たノバルティス博士は一人で立っていた。
「ふむ……。やはり、表の代弁者は敗れるか」
遠くの戦況を見下ろしながら、老人が忌々しげに、しかしどこか納得したように呟く。
その時、背後のフェンスを越えて、一人の男がビルを駆け上がってやってきた。
「……博士。研究室は出られたんですね」
声をかけたのは、グレイ――いや、あの仮面を外し、本来の素顔を晒したアルシュだった。
「ふん」
博士はこちらを一瞥しただけで、特に驚く様子も見せなかった。
「もうすぐ、あの『さかしまのバベル』が本格的に起動するだろうからな。ここに至っては、これ以上深入りはせんよ。……まぁ、エリュシオンの観測だけは特等席で続けさせてもらうがね」
表向きの代弁者(偽ルーファス)が特務支援課に敗れ、統一国という組織が形を成さなくなった以上、まともな研究環境は維持できないと判断したのだろう。マッドサイエンティストらしい、見切りの早い合理的な判断だ。
「それで。……君はどうするつもりだね?」
博士は、眼鏡の奥の目を細めて聞いてきた。
俺が仮面を外し、これまで隠していた素顔で話しかけているというのに、そのことには一切言及しない。
そのくせ、俺のこれからの身の振り方は聞いてくる。
相変わらずチグハグでマイペースなこの人に、俺は思わず小さく吹き出しそうになった。
「バベルに入ります」
俺は迷いなく告げた。
「ほう。もうあちら側につく意味もあるまい?」
確かに、博士の言う通りだ。
統一国が敗れ、偽ルーファスとの『僕が不要になるまで盤面が進んだ時、あとの時間は好きにさせてもらう』という契約は果たされた。
あとは自由に、やるべきことをやるだけなんだけど。
「まぁ、そうなんですけどね」
俺は、あの暗い部屋で一人戦い続けている青年の姿を思い浮かべた。
「望まぬ形で世界の悪役にされたとは言え……最後にただ一人ぼっちで残されるというのは、寂しいでしょうから」
言外に、あのリィン・シュバルツァーのことを話していると伝わったのだろう。
「ふん。やはり、私には到底理解できん感情だ」
博士は呆れたように鼻を鳴らした。そして、俺の身体を上から下まで値踏みするように見て言った。
「……限界ギリギリまで、ブーストアップを使ったのだろう。エリュシオンの演算リソースから外れ、度を越した霊子の燃焼を行った影響で、今の君のシミュラクラとしてのスペックは、元の生身の頃と大差ない程度にまで落ち込んでいる」
事実、その通りだった。
先ほどの戦闘の直後から、全身に泥のような倦怠感がのしかかっている。
身体を動かした時の筋力や感覚も、無意識のうちにエリュシオンに補正されていたあの全能感は消え去り、20歳の『生身の記憶』の延長線上にある程度にまで低下しているのを感じていた。
「何より……」
博士は冷酷な事実を告げる。
「早急にカプセルで再調整をせねば、君の身体はあと一日程度しか保たんぞ」
「……ええ。分かってます」
俺は、自らの両手を見つめ、静かに頷いた。
「でも、残されているのは、ただの俺の我儘ですから。……なら、これで十分です」
命を燃やしたことに、後悔はない。
残る一日の命で、やるべきことをやるだけだ。
「……そうかね」
俺の迷いのない表情を見て、博士は少しだけ沈黙した。
そして、どこかそっぽを向くようにして、唐突に口を開いた。
「君、結社《身喰らう蛇》へ来ないか」
「……え?」
「君の頭の中にある未来の知識を、私はまだすべて浚ってはいないからな」
博士は早口で、言い訳を並べるように捲し立てた。
「もっとも、君の性根では執行者になれるような器ではないがな。せいぜい私の手伝いをしてもらう程度になるだろうが。……エリュシオンの加護に戻らん以上、その崩壊しかけの身体を繋ぎ止め、調整ができるのは世界でも私のラボくらいのものだろう。知識の褒賞代わりに、調整の面倒を見てやらんこともないと言っているのだ」
(――珍しいわね。ノバルティス博士にそんな風に好かれてるなんて)
先ほどの戦いで、レンさんが驚いたように口にした言葉が脳裏に浮かぶ。
(……本当に、随分と屈折した人だ)
他人の命など実験動物のハツカネズミ程度にしか思っていないはずの、倫理観の欠如したマッドサイエンティスト。
そんな彼が、明確に俺を『生かそう』として、不器用極まりない手口で勧誘してくれているのだ。
けれど。
俺はゆっくりと、首を横に振った。
「有難い話ですけど。……遠慮しておきます」
俺の答えを聞いて、博士は「ふん、そうかね」と短く鼻を鳴らした。
そして、二度と引き留めることはせず、完全に俺を視界から外した。
「博士」
背中を向けた老人に、俺は深く一礼した。
「今まで、色々とお世話になりました」
その一言だけを告げて、俺はその場から身を翻し、最終決戦の地となる『バベル』へと向けて駆け出した。
足音が遠ざかり、屋上に再び静寂が戻る。
「……ふん。想定通りの回答すぎて、面白みがないわ」
博士は一人、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
そして、白衣のポケットから見慣れた小型端末を取り出すと、何やらカチャカチャと無機質な手つきで操作を始めるのだった。