『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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失われた時間の少年

偽ルーファスは討たれ、《舞姫》イリア・プラティエも正気を取り戻した。

クロスベルの解放戦は、ひとまずの決着を見た。

しかし、安堵の時間は一瞬だった。

エリュシオンが生み出した最悪の兵器――『さかしまのバベル』が浮上し、世界はさらなる破滅の危機に晒されることとなった。

大陸全土の命運を懸けた対抗策を練り、各々が覚悟を決めてまとまった夜。

 

特務支援課のビル、一階のリビング。

重い静寂の中、ロイドたち支援課のメンバーは、ソファに座るキーアと静かに向き合っていた。

行政区での戦いで仮面の男――グレイの素顔が判明したあの瞬間から、キーアはずっと何かを抱え込むように俯きがちになっていたのだ。

 

「……キーア」

 

ロイドは、彼女と同じ目線になるようにしゃがみ込み、優しく問いかけた。

 

「彼のこと……話してくれないか?」

 

キーアはビクッと肩を震わせ、さらに身体を小さく丸めた。

長い間、一人で抱え込んでいたこと。

自分だけの心の奥底にある、鍵をかけた宝箱に隠していた『大事な罪』。それを口にするのを酷く迷っているようだった。

しかし、ロイドの真っ直ぐで温かい瞳に見守られ、キーアはぽつりぽつりと、震える声で語り始めた。

 

「……昔ね。キーアには、大好きな男の子がいたの」

 

「え……?」

 

エリイが小さく息を呑む。

 

「その子は、支援課のみんなのことも大好きだったみたいで……よくこのビルにも来て、キーアと一緒に遊んでくれてたんだ。彼のお父さんは警備隊の人でね……ランディにお願いして、剣の振り方を教えてもらってたの」

 

「俺が……?」

 

ランディはハッとして目を見開いた。記憶にはない。

だが、その言葉を聞いた瞬間、心の奥底で何かがカチリと鳴るような、不思議な感覚があった。

 

「うん。……本当は、本ばっかり読んでるような大人しい子だったのに。『キーアのこと、守れるようになりたいから』って。小さい手にいっぱいマメを作って、毎日毎日、重い木剣を振って……。無理してるのに、全然痛いとか言わなくて、やめてくれなくて」

 

キーアは両手で顔を覆いながら、嗚咽を漏らした。

 

「でも……それでも、へにゃって、少し自信なさそうに……すごく優しい笑顔で笑ってくれる彼が、キーア、大好きだったの」

 

リビングにいる全員が、言葉を失っていた。

ティオも、エリイも、ロイドも、悲痛な顔でキーアの言葉に耳を傾けている。

 

「でもね……あの日」

 

キーアの声が、恐怖と悲しみで激しく震え出す。

 

「ロイドが、支援課に帰ってくる少し前……アルタイル市に行ったあの日。キーアが、マフィアの人たちに攫われて……みんながいなかった、あの日」

 

――それは、現在の歴史には存在しない出来事。

 

「アルシュは……私を助けるために、戦ってくれたの。ナイフを握って……血まみれになって、すごく苦しそうな顔をしてるのに、キーアには心配かけないように、必死に笑いかけてくれて……ッ」

 

ポロポロと、キーアの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

 

「でも、アルシュは……私を守るために、死んじゃった。右手を切られて、血がいっぱい噴き出してるのに……それでもキーアの前に立って、落ちてた銃を握って、マフィアをやっつけてくれたのに……!」

 

『――泣かないで、キーア』

 

記憶の中の少年が、微笑む。

 

「アルシュは……キーアの手の中で、どんどん冷たくなって……ッ!!」

 

「キーア……」

 

耐えきれず、エリイがキーアの小さな身体を強く抱きしめた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……! みんなに言えなくて……ずっと隠してたの……!」

 

キーアはエリイの胸の中で泣きじゃくりながら、自らの『罪』を告白した。

 

「だって、言ったら……みんなは、絶対に『自分たちが側にいてやれなかったせいだ』って、自分を責めちゃうから……!」

 

だから、一人で抱え込んだ。

そして、目の前で大好きな彼が死んでしまったという現実に、どうしても耐えられなかった。

 

「キーア……アルシュが死んだのが、悲しくて、耐えられなくて……。だから、『全部やり直しちゃった』の……!」

 

至宝の力を使った、因果律の改変。

それは、彼が命を懸けて自分を守り抜いてくれたという、その尊い事実と覚悟すらも『なかったこと』にしてしまう、残酷な行為だった。

 

「アルシュが必死に助けてくれたことも、全部台無しにしちゃった……! キーアが……キーアのせいで、彼の生きた証を、全部消しちゃったの……ッ!」

 

ロイドは、強く唇を噛み締めた。

行政区で彼が自分に叩き込んできたあの一撃。ランディの技を使い、支援課の動きを熟知し、悲痛なまでに感じた想いの正体が、今、残酷なまでに繋がったのだ。

 

「……今のこの街にはね」

 

キーアは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた。

 

「キーアとはお友達じゃない……今も図書館で、大好きな本を読んでるだけの、『今の世界のアルシュ』がいるの……」

 

自分がすべてをやり直した歴史の中で、ただの平凡な少年として生きている彼。

 

「前のアルシュとは違うアルシュ。アルシュがそれを許せないって言うなら…」

 

キーアは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、悲しい笑顔を浮かべた。

 

「キーアは、アルシュが……キーアの事、怒って、恨んでるなら。……罰を受けなきゃならないの」

 

「キーア……」

 

「アルシュが、勝手に無かったことにしたキーアのことを『許せない』って言うなら。キーアは、絶対にそれから逃げちゃ駄目なんだよ……」

 

自分を責め続ける小さな背中を、エリイは強く、痛いほどに抱きしめた。

 

「そんなことない……そんなこと、絶対にないわ、キーアちゃん!」

 

エリイは首を横に振り、真っ直ぐにキーアの目を見て言った。

 

「行政区で、あなたを泣かせてしまったことを謝っていた彼の顔……私は見ていたわ。あの表情から感じたのは、キーアへの深い申し訳なさと、どうしようもないほどの『愛情』だったもの」

 

「はい……」

 

ティオも、静かに同意するように頷いた。

 

「もし彼がキーアを恨んでいて、害そうとするなら……彼ほどの能力があれば、いつだって出来たはずです。でも、彼は敵に回ると言っても、ずっとキーアに直接的な被害が及ばないように立ち回っていたと思います」

 

それは、今日の図書館前での戦いを見ても顕著だった。

ロイドの背中からキーアが前に出た時、彼は一切手を出さなかった。

そして、ロイドの指示でキーアが安全な後方へと下がるのを確認するまで、決してあの恐ろしい一撃を仕掛けてこなかったのだから。

ロイドも、静かに口を開いた。

 

「ああ。……それに、キーアが街ではぐれた時、一番に助けて、俺たちのところまで送り届けてくれたのは彼だった」

 

「あ……」

 

「仮面で顔も素性も隠して、敵対するはずだったのに、それでも君を放っておけなかったんだ。……彼は今でも、きっとキーアのことを誰よりも想っているんじゃないか」

 

ロイドの温かい言葉に、キーアは耐えきれず、わっと声を上げて泣きじゃくった。

 

「でもっ、でもキーア……! アルシュに、あんな酷いこと、絶対に許されないことしたのに……! なのにっ……!!」

 

ロイドはキーアの頭を優しく撫でながら、力強く言った。

 

「なら、彼に直接会いに行って、話をしよう」

 

「え……」

 

「彼は別れ際、俺たちに『待っている』と言った。……きっと彼は、明日突入するあのバベルの奥で、俺たちが来るのを待っているはずだ」

 

その言葉に、キーアはハッとして顔を上げた。

彼の本当の想いを知るのが、怖い。

自分が恨まれているかもしれないという恐怖が足を持っていこうとする。

けれど――それでも、もう一度彼に会いたい。彼に謝りたい。

キーアは涙を拭い、強い意志を込めて、こくりと頷いた。

 

それから少しして。

泣き疲れたキーアが眠りについた後、リビングに残った支援課のメンバーたちは、重い空気の中で彼の話を続けていた。

失われた歴史の真実。今の自分たちには、記憶として思い当たる節のない出来事。

けれど、どこか魂の奥底で、それが「確かにあったこと」なのだと訴えかけてくるような、確かな重みがあった。

エリイの目元にはうっすらと涙の跡があり、ティオも沈痛な面持ちで膝の上で手を握りしめている。

ランディは、腕を組みながら天井を仰いでいた。

 

「アルシュ……。アデルさんとこの子供か。確かに、図書館でよく本を読んでる大人しい息子がいるって話は、聞いたことがある」

 

ランディは目を細め、ぽつりとこぼした。

 

「でもよ……キー坊の話を聞いた今だからか。……俺の心の奥底で、真剣な顔で俺に『剣を教えてほしい』って頼んでくる、十歳くらいのガキの顔が、ぼんやりと思い浮かびやがるんだよ」

 

それは、幻覚などではない。

 

「それと同時に……その顔を思い出すと、胸が張り裂けそうなくらい、大きくて重い『後悔』と『悲しみ』が込み上げてくる……ッ」

 

ランディは悔しそうに顔を歪め、自身の胸を強く叩いた。

キーアは、彼は十歳でマフィアに殺されたと言った。

今の状況から推察するに、今の彼はおそらく、エリュシオンの演算によってシミュラクラで再現された存在なのだろう。

 

それでも、彼が大人の姿にまで成長し、ランディの技や支援課の技術を使って彼らの前に立ちはだかったことの理由は、痛いほどに理解できた。

 

(強くなりたかったんだな。……俺たちみたいに、キーアを守れるくらいに)

 

ロイドは、ギュッと拳を握り締めた。

彼は、待っていると言った。おそらくは、明日決戦の地となるバベルで。

 

「やるべきことがある」と言った彼が、特務支援課を待っていると言うのなら、絶対に会わなければならない。

 

かつての歴史で、自分たちの代わりにキーアの命を救い――そして、自分たちが救うことのできなかった彼に。

 

「……明日、バベルで彼に会おう」

 

ロイドの静かな、けれど決意に満ちた声に、支援課のメンバーは全員、深く頷き返した。

 

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