『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
浮上した、最悪の巨大兵器『さかしまのバベル』。
まともな物理的手段では近づくことすら叶わない絶望的な高度と防壁の奥。
だが、これまで統一国側で利用していた空間転移のシステムは、未だに効力を失っていなかった。
僕はその光に身を委ね、単身、バベルの内部へと足を踏み入れた。
――プシュゥゥ……。
転移が完了した直後、背後にある装置が役目を終えたかのように完全に沈黙し、機能を停止した。
まるで、最後に「一度きりの片道切符」として設定されていたかのようだった。
(……おそらく、俺がこうしてここへ向かうことを見越して、用意してくれていたんだろうな)
あのノバルティス博士が、密かに細工をしてくれていたのだ。
なぜ、ただの用途違いの実験体としいた俺のことを、あの倫理観の欠如した老人にそこまで目をかけられたのかは分からない。
それでも僕は、誰もいない冷たい金属の通路で、あの屈折したマッドサイエンティストに向けて静かに感謝の念を捧げた。
気を取り直し、バベルの無機質な通路を歩き出す。
「――ッ、あ……」
その時、突如として、今までとは比べ物にならないほど強烈な痛みが脳内を襲った。
ズキズキと、脳髄の奥底を直接無数の針で掻き回されているような、おぞましい感覚。
膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪える。
理由は、容易に推測できた。
表の代弁者であった偽者のルーファスが討たれ、統一国の維持に割かれていたエリュシオンの莫大な演算リソースが、すべてこのバベルへと還元されたのだ。
そして今、その全リソースをイシュメルガが直接振るい、大陸全土を巻き込む最終計画の演算を猛烈な勢いで走らせている。
だからこそ、システムの中に存在する『俺』というロックされたデータとの衝突(コンフリクト)による摩擦が、限界を超えて増幅しているのだろう。
(くそっ……頭が、割れそう……っ)
痛みに耐え、重い足を引きずりながらも、僕はあの日リィン・シュバルツァーと語り合ったあの隠し部屋へと進んでいく。
すると。
部屋の扉の前に近づいた瞬間、先ほどまでの狂おしいほどの頭痛が、嘘のようにさっぱりと消え去ったのだ。
「……?」
痛みのノイズが消えた。それはつまり、イシュメルガの意識が『一時的に眠りについた』ことを意味している。
バベルが起動し、特務支援課や世界中の戦力がこの塔へ突入してこようかというこの緊迫した情勢下で、奴が自ら主導権を手放し、眠りにつく戦術的な理由などどこにもないはずだ。
(……イシュメルガの気まぐれか? それとも……)
まだシステムの中に僅かに残るエリュシオン自体の機能が、あの偽物と交わした『僕が不要になるまで盤面が進んだ時、あとの最後の時間は好きにさせてもらう』という契約を、律儀に守っているのだろうか。
世界を滅ぼす悪意そのものである呪いが約束を尊重するなど、ありえない考えだと分かってはいるけれど。
どちらにせよ、確かなことが一つだけある。
システムを掌握する『あれ』は、俺がこれからリィンと会い、彼と共に最後の時間を過ごすことに対して、無粋な邪魔をするつもりはないようだった。
***
いつもの隠し部屋。
重い金属の扉を押し開けて中に足を踏み入れると、リィン・シュバルツァーは今までのように座り込んではおらず、部屋の中央でこちらに背を向けて静かに立っていた。
俺の足音に気づいたのか、彼はゆっくりと振り返る。
「……アルシュ、か……?」
戸惑ったような声。……そりゃそうだ。出会ってからずっと仮面で隠していた素顔を、今の俺は完全に晒しているのだから。
「ああ。……今日はまだ、元気そうだな」
俺がいつものように軽く声をかけると、リィンは少し眉をひそめて問いかけてきた。
「……どうして、来たんだ?」
その声には、微かな焦りが混じっていた。
このバベルはもうすぐ、大陸中の戦力が集う最終決戦の場となる。
そしてリィンは、自分の命ごとイシュメルガの呪いを終わらせるために、ここに立っている。
彼が、全ての罪と呪いを一人で背負い、誰にも看取られることなく一人で死ぬためにこの場所で待っていることを、俺も痛いほど理解していた。
「……なに。いくら悪役だからって、全部背負い込んで、一人きりで死に場所で待つ必要もないだろうと思ってな」
俺は肩をすくめ、彼に向けて笑ってみせると
俺の言葉に、リィンは言葉を失って絶句した。
「……あんたの荷物は重すぎて、流石に俺が肩代わりしてやることは出来ないけどな。でも、少しくらいその道行きに付き合って、隣で話し相手になってやるくらいはできる」
「アルシュ……。なんで、そこまで……」
彼が痛ましそうに呟く。
俺は自分の手のひらを見つめ、ゆっくりと握りしめた。生身と同じくらいにまで弱り切った力の感触。
「まあ、俺も長くてあと一日のタイムリミットだからさ。……自分の『最後の時間』の使い方くらい、自分で好きに決めるさ」
俺が冗談めかして笑うと。
リィンは毒気を抜かれたように息を吐き、「……バカだな、君は」と、呆れたように、けれど本当に嬉しそうに笑っていた。
そうして、俺たちは冷たい床に座り込み、今日あったことについて語り合った。
図書館前で特務支援課と戦い、自らの命を燃やして持てるすべてを出し切ったこと。その代償で、今の俺にはただの『生身』の自分と変わらない力しか残っていないこと。
「みんながここに来たら……すべてを話すよ」
俺はリィンに向けて、静かに語った。
「まぁ、だから……あんたの戦いを最後まで見届けて付き合うことは出来ねぇんだけどな」
俺が自嘲するように言うと、リィンは優しく笑って首を振った。
「気にしないでくれ。……君がここに来てくれただけで、俺は随分と救われた気分だよ」
そして、小一時間ほど。
エリュシオンが生み出した、本来交わるはずのなかった二つの存在は、普通の友人同士のように、どうでもいい他愛のない雑談を重ねた。
――やがて。
チリチリとした嫌な感覚が、再び俺の脳の奥底に蘇ってきた。
(……時間切れ、か)
イシュメルガの意識が浮上し、リィンの主導権が失われようとしている。
彼もまた、自身に残された自我のタイムリミットを悟ったのか、俺を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「ありがとう、アルシュ。君のお陰で、俺は……」
「いいよ」
俺は彼の言葉を遮るように首を横に振り、笑顔で答えた。
「俺も、俺自身の後悔がないようにしただけさ」
以前、この部屋で別れた際、彼が俺にかけてくれた言葉。「後悔のないようにな」という言葉を返すと、リィンは目を見開き、ふふっと楽しそうに笑い声を零した。
「そうか。……後悔、か」
「ああ」
俺は立ち上がり、イシュメルガの支配に抗おうとしている彼に向けて、最後の言葉を伝えた。
「これから先、あんたの意識がどこまで残るかは分からないが。……お互い、後悔がないようにな、兄弟」
「――ああ」
リィンの紫紺の瞳が、確かな決意の光を帯びて真っ直ぐに俺を射抜く。
「君も……君の約束を、果たしてこい」
その力強い言葉を背中に受け、俺は彼に背を向けた。
こうして、俺は『兄弟』に別れを告げ、自分の運命の決着――『彼女』との約束を果たすために、決着の場所へと足を踏み出した。