『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
厚い鉛色の雲が、クロスベル市の上空を不気味に覆い隠していた。
「みんな、今日は天気が大荒れになりそうです。寄り道をせずに、まっすぐお家に帰るのですよ」
日曜学校の授業が早めに切り上げられ、シスター・マーブルが心配そうに子供たちを促す。
すでに大聖堂の入り口には、雨を心配して迎えに来た家族の姿もちらほらと見えた。
家族と一緒に帰る子や、足早に街へ向かう子など、今日の帰り道はいつもと違ってバラバラだ。
アルシュとキーアは、同じく日曜学校に通う七歳の小さな女の子、リリと一緒に坂道を下っていた。
「うぅ……空、真っ暗だね。おっきな雷、鳴らないといいな……」
リリが不安げに空を見上げながら、小さな歩幅で二人に一生懸命ついてくる。
「大丈夫だよ、リリちゃん。雨が降る前に、急いで街まで戻ろ!」
キーアが元気づけるように明るく笑いかけ、アルシュも力強く頷いた。
「そうだよ。もし雨が降ってきても、僕がちゃんと家まで送っていくから安心して」
あの夜、暗闇の中で「誰かを守るための強さ」を改めて誓ったアルシュにとって、
自分より小さな女の子を気遣うことは、ごく自然な振る舞いになっていた。
少し急ぎ足で、それでもリリの不安を紛らわせるように三人で他愛のない雑談を交わしながら、石畳の坂道を下っていく。
風が急激に強さを増し、木々がザワザワと不吉な音を立て始めた、その時だった。
「あっ――」
突風に煽られたのか、急ぎ足で石畳の段差につまずいたのか。
リリの小さな身体がバランスを崩し、勢いよく前のめりに転倒してしまった。
「リリちゃん!?」
「リリ!」
アルシュとキーアが慌てて駆け寄る。
「う、ぅぅ……っ」
リリは必死に涙をこらえようと唇を噛み締めていたが、擦りむいた膝からはタラタラと赤い血が流れ落ちていた。
それだけでなく、不自然に足を捻ってしまったらしく、立ち上がろうとした瞬間に「痛っ……!」と顔を歪めてその場にへたり込んでしまう。
「足、くじいちゃったんだね……。無理して動かさない方がいいよ」
アルシュは膝をつき、リリの怪我の状態を素早く確認した。
出血もしているし、このまま無理に歩かせて街まで下るのは危険だ。
ゴロゴロと、遠くで低い雷鳴が響いた。
冷たい風がさらに強くなり、今にも大粒の雨が落ちてきそうな気配だ。
アルシュは迷うことなく、リリの前に背中を向けた。
「リリ、僕の背中に乗って。しっかりおぶってあげるから」
「で、でも……アルシュお兄ちゃん、重いよ……」
「大丈夫。僕、最近特訓しててすごく力持ちになったんだ。だから安心して」
リリをそっと背中に乗せると、アルシュは両足にしっかりと力を込めて立ち上がった。
確かに重みは感じるが、毎日剣を振り、歯を食いしばって鍛えてきた足腰は、七歳の少女一人を背負うくらいでは決して揺らがない。
(よし……街の病院まで下るより、大聖堂に戻った方が絶対早い。シスターなら手当ての知識もあるはずだ)
アルシュは素早く状況を判断し、隣で心配そうにリリの手を握っているキーアへ向き直った。
「キーア、このままだとすごい雨が降ってくる。キーアだけでも先に街へ走って、支援課のビルに……」
「だめっ!!」
アルシュの言葉を遮り、キーアは強く首を横に振った。
そのエメラルドグリーンの瞳には、絶対に譲らないという強い意志が宿っていた。
「キーアも一緒に行く! アルシュとリリちゃんだけ置いて、一人でなんて帰らないもん!」
「でも、濡れちゃうし、危ないかもしれないんだよ!?」
「アルシュだって、リリちゃんを守ろうとしてるじゃない! キーアだって、二人のこと心配だもん。絶対一緒に行くから!」
キーアの頑固さを前にして、アルシュは小さく息を吐いた。
彼女がこうと言ったら聞かないのは、支援課の大人たちでさえ手を焼くところだ。
それに、こんな暗い坂道をキーア一人で下らせるのも、本音を言えば不安だった。
「……わかった。じゃあ、三人で一緒に大聖堂に戻ろう。急ぐよ!」
「うんっ!」
アルシュはリリを背負い直し、キーアはリリの背中をそっと支えるようにして、三人は来た道を大聖堂へと引き返し始めた。
急勾配の坂道を、人を背負って登るのは想像以上に体力を奪われる。
息が上がり、額に汗が滲む。けれど、アルシュの頭の中にはあの赤髪の猟兵から突きつけられた恐怖ではなく、大切な人たちを守り抜くという熱い意志だけが燃えていた。
「もうすぐだよ、リリちゃん! アルシュ、がんばって!」
キーアの励ましの声が、アルシュの背中を力強く押してくれる。
そして――。
重厚な大聖堂の門をくぐり抜け、雨宿りができる回廊へと三人が滑り込んだ、まさにその瞬間だった。
バチバチッ! ザァァァァァァァァッ!!
まるで空の底が抜けたかのような、暴風を伴う暴力的なまでの豪雨がクロスベルの街に叩きつけられた。
一瞬でも遅れていれば、三人は間違いなくずぶ濡れになり、リリの怪我も悪化していたことだろう。
「はぁっ、はぁっ……! ま、間に合った……!」
激しい雨音と雷鳴が外の世界を支配する中、アルシュは荒い息をつきながら、
背中のリリと隣のキーアの無事を確かめ、安堵の笑みを浮かべるのだった。