『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
深い、深い闇の中から、ゆっくりと意識が浮上していく。
まるで冷たい水底から水面へと顔を出すような、ひどく曖昧な感覚だった。
うっすらと開いた視界の先。
そこには、大粒の涙をこぼしているキーアの姿があった。
その後ろにはロイドさんたち特務支援課のみんな、そしてラピスやスウェンたちの姿が見える。
(……あれ?)
身体は、指一本、ピクリとも動かなかった。
首を動かして視界を巡らせることすらできない。
ただ、空気の気配で、周囲にはもっとたくさんの人たちが集まってくれているのだと、なんとなく感じ取れた。
ロイドさんたちが無事にここにいるということは、あの忌まわしき呪い――イシュメルガとの決着は、無事についたのだろう。
その事実に、僕は心底安堵した。
「アルシュ……!?」
「アルシュ、気がついたのね!」
僕の目が開いたことに気づき、キーアとラピスがハッとして大きく声を上げた。
「ぁ……」
小さく声が漏れた。よかった、まだ声は出るみたいだ。
「キーア……心配かけて……ごめんね……」
消え入りそうな声で、小さく呟く。
「ううんっ、ううん……!」
キーアは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、首を大きく横に振った。
僕は、視界の端にいるロイドさんたちへ意識を向けた。
「ロイドさん……決着は……つきましたか……?」
「ああ」
ロイドさんは、悲しげに、けれど力強く頷いてくれた。
「ああ。イシュメルガは完全に消滅した。……エクスキャリバーも、君たちが間違いなく破壊してくれたよ。すべて、終わったんだ」
「ああ……よかった……」
あの薄れゆく意識の中で最後に見た、爆炎を上げて崩れ落ちるエクスキャリバーの姿。あれが幻ではなかったことに、僕は深い安堵を覚えた。
「アルシュ、ここから早く出て、ティオや博士に身体を治してもらおう!? そうすれば、きっと――」
キーアがすがるような声でそう言ったけれど。
「ごめんね……」
僕は静かに、その希望を否定した。
「今、こうして喋れているのも……なんでか分からないくらいで。……僕にはもう、時間は残されてないから」
僕は静かに答えた。
せめて彼女を安心させるために、最後に少しだけ笑顔を作りたいと思った。
けれど、表情筋を動かすことすらできなかった。
いや、口も動いていない。
ただ、霊子疑似体の内部機構が、僕の最後の意志を『音声』として変換して外へ発しているだけなのだ。
キーアは僕の身体がもう限界であることを悟ったのか、ぽろぽろと涙を流しながらも、必死に声を殺して下を向いた。
僕は、視界の端にいるもう一人の大切な家族――小さな『母さん』に向けて、声を絞り出した。
「……ありがとう、ラピス。……母さん」
「……ええ」
「あなたのお陰で……僕は、やるべき事を……やれました……」
僕の言葉に、ラピスは大きなエメラルドの瞳から真珠のような涙をポロリと零した。
そして、小さな両手で僕の動かない頬を優しく包み込み、まるで本当の母親が、大仕事をやり遂げて眠りにつく息子を労うように、柔らかく、温かい声で語りかけた。
「ええ。……アルシュは、本当に、本当によく頑張ったわ。……あなたのお陰で、みんなの未来は守られた。あなたは、私の自慢の……最高にカッコいい息子よ」
母からの温かい労いの言葉が、僕の魂の奥底までじんわりと染み渡っていくのを感じていた。
僕は次に、ラピスの隣で静かにこちらを見下ろしていた金髪の青年に声をかけた。
「ルーファスさんにも……色々、お世話になりました」
僕の言葉に、ルーファスさんはふっと自嘲気味に、けれどどこか優しい笑みを浮かべた。
「大したことはしていないさ。……君こそ、よくやり遂げたな。立派だったよ」
「スウェン、ナーディア。……二人も、手を貸してくれて、ありがとう」
「……お前が一人で無理するからだろ。バーカ」
スウェンは帽子を深く被り直して顔を隠し、声を震わせながらそう吐き捨てた。
「……すーちゃんの言う通りだよ。なーちゃんたち、アルシュのこと絶対忘れないからね……」
ナーディアも、いつものおどけた調子は消え、鼻をすすりながら小さく手を振ってくれた。
「……ねぇ、キーア」
僕は、ずっと涙を堪えるように下を向いていたキーアに、ゆっくりと声をかけた。
「もし。……キーアが、いいなら」
消え入りそうな声で、それでも伝えたい想いを紡ぐ。
「今の世界にいる『僕』に声をかけて……また、友だちになってくれないか。……僕の我儘だけど、君の側に僕が全くいられなくなるのは、やっぱし……すごく寂しいんだ」
「うん、うん……っ!」
キーアは顔を上げ、大粒の涙をポロポロと零しながら、何度も何度も頷いてくれた。
「ふふっ……一目惚れ、だったんだ」
僕は、記憶の奥底にある最初の出会いを思い出しながら語る。
「君のあの笑顔を、初めて見た時から。……僕は、ずっと君の側で、その笑顔を見ていたいって……そう思って、今日まで生きてきたんだ」
そして、僕は視線をランディさんに移した。
次に、僕は赤毛の猟兵の青年に視線を向けた。
「ねえ、ランディさん。……『今の僕』が、もし、また強くなりたいって言い出したら……また、稽古をつけてくれないですか」
僕の言葉に、ランディさんはボロボロと大粒の涙をこぼしながら、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「あぁ……任せとけ。俺がまた、ビシバシみっちり仕込んでやるからよ……っ」
「ロイドさんも、ティオさんも、エリィさんも……ワジさんも、ノエルさんも」
特務支援課のみんなの名前を呼び、僕は続ける。
「僕が子供の頃から、ずっと憧れてたのは……今も昔も、一緒で。……だから、もし今の僕が、同じように『皆さんのようになりたい』って言い出したら。その時は……」
「ええ、もちろんよ……!」
「はい。私たちが、全力でサポートしますから……」
エリィさんとティオさんが、声を詰まらせながら涙を拭う。
「……当然だ。君は俺たちにとって、大切な『弟』みたいなものだからな」
ロイドさんが、涙声で力強く答えてくれた。
「アガットさんや、エステルさんたちも……『今の僕』が遊撃士を目指すかは分からないけど。もし、そうなったら……その時は……」
「ああ。俺たちの後輩になりたいってんなら、いつでも鍛え直してやるぜ」アガットさんが重剣を肩に担ぎ、鼻をすすりながら笑う。
「うんっ! 私たち、すっごい先輩なんだからね! 任せなさい!」
エステルさんが涙を拭って、力強くサムズアップをしてくれた。
みんなの温かい声。そのすべてが、消えゆく僕の魂を優しく包み込んでくれた。
そして、僕はもう一度、ただ一人を見つめた。
「ねえ、キーア。……最後の、お願いなんだ」
もう、本当に視界が黒く塗りつぶされそうになっていた。
「……笑って、くれないか」
その言葉に、キーアは「うん」と小さく頷き、両手で目をゴシゴシと力強く擦って涙を拭った。
そして、涙に濡れたエメラルドの瞳でこちらを見つめ、これ以上ないほどの――最高に可愛くて、温かい、満面の笑顔を作ってくれた。
「……ありがとう、キーア。大好き……だよ……」
『――キーアも。キーアも、アルシュのこと、大好きだよ!!』
彼女の心からの叫びが、確かに僕の耳に届いた。
その瞬間。動くはずのなかった僕の顔の筋肉が微かに動き、かつて彼女に向けていたような、最高に優しくて穏やかな笑みの形を作っていた。
それと同時。
プツン、と。僕の身体を構成していた最後のエネルギーが、完全に途切れた。
キーアのあの泣き笑いの最高の笑顔を、僕の魂の奥底にしっかりと焼き付けながら。
僕の意識は、温かくて優しい、永遠の暗闇の中へと静かに落ちていった。