『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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揺蕩う電子の海で

気づけば、僕は深く冷たい海の底に漂っていた。

いや、水ではない。無数の『0』と『1』の羅列によって構成された、果てのない電子の海だ。

海のような、あるいは空のような、底知れない静寂の蒼に満たされた世界。

 

「ここは、エリュシオンの中……か……」

 

さっきまでみんなと温かい言葉を交わし、意識が途絶えた瞬間の記憶がはっきりと残っている。

今ここに漂っている僕は、エリュシオンの深層に封じられていた『元のデータ』そのものなのか。

それとも、先ほどまでシミュラクラの身体で駆け抜け、最後まで生き抜いた『僕のデータ』がここに回帰したものなのか。

それは自分でもよく分からなかった。

 

「……まあ、いいか」

 

僕は静かに結論づけた。もはや、そんな定義はどうでもいいことだ。

蒼い空間の中で再現されている自分の身体を見下ろすと、手足の先からゆっくりと、光の粒子や数字の羅列となって解けていくのが見えた。

完全に消え去り、無に還る直前の……ほんの僅かに残された、最後のロスタイムといったところだろう。

 

僕は穏やかな気持ちで、目覚めてからここまでの濃密な時間を思い返していた。

 

カプセルで目覚めてから、色々と驚くことばかりだった。

けれど、一番の目的だったあの娘――キーアの長年抱えてきた痛ましい後悔を、綺麗に晴らしてあげることができた。

僕自身のただの我儘だったとはいえ、ランディさんとの子供の頃からの約束を果たし、共に背中を預けて戦うこともできた。

そして何より、僕自身の存在が引き金となってバベルに産み落とされたあの未来の厄災のケジメも、この手で最後までやり遂げることができた。

 

「上出来、じゃないか」

 

誰もいない電子の海で、僕は小さく苦笑を零した。

自分の運命を思えば、これ以上を望むのは贅沢というものだ。

……それでも。ただ一つだけ、どうしても叶うはずのない願いが、微かな心残りとして胸の奥底に沈んでいた。

 

――姉さん。

 

子供の頃に猟兵としての戦い方を叩き込んでくれて。

理不尽なほど強くて、自由で、僕がずっと、ずっと背中を追いかけ、憧れ続けたあの人。

もう一度だけ会いたい、と。ずっと思っていた……。

 

でも、僕が憧れ、僕を鍛えてくれたあの『姉さん(シャーリィ)』は、今のこの歴史の中にしか存在しない。

この世界の彼女は、僕という存在と深く関わった歴史を持たない。

だから、僕が会いたいと願った彼女はそもそもこの世界にはいないのだから、叶う余地もない願いだ。

 

「ま、しょうがないよな……」

 

独り言のように呟いて、僕はゆっくりと瞳を閉じた。

未練はない。ただ、愛しい人たちの未来がこれからも続くことへの祈りだけを胸に抱いて。

 

解けゆく身体を電子の波に委ねながら、僕は静かに、満ち足りた笑みを浮かべた。

その時だった。静寂に包まれた蒼い空間に、聞き覚えのある声が響いた。

 

「――どうしたのさ、アルシュ」

 

驚いた僕は、ゆっくりと閉じていた目を開いた。

誰もいないはずの電子の海。その目の前に、立っているはずのない人がいた。

僕の記憶の中にある姿よりも大人びた、けれど、あの頃と変わらない凶悪で魅力的な笑みを浮かべた、成長した『姉さん』――シャーリィ・オルランドが、そこにいた。

 

「どう、して……」

 

信じられない光景に、僕は震える声を出した。

そんな僕を見て、姉さん――シャーリィはニシシと悪戯っぽく笑う。

 

「アハハ、さあね? 女神様の奇跡か、それともこのエリュシオンってやつの気まぐれか。……ま、アタシとしちゃあ理由なんてどうでもいいんだけどさ」

 

カラカラと笑いながら、彼女は少しだけ呆れたように、けれどひどく優しい眼差しで僕を見下ろした。

 

その姿を見た瞬間だった。

僕の解けかけていた身体の霊子がさらさらと形を変え、いつの間にか、彼女と過ごしていた当時の……幼い『子供の頃の姿』に戻っていた。

 

「あ……」

 

僕の中で、二十年間ずっと抑え込み、鍵をかけていた何かが決壊した。

気づけば両目から大粒の涙がボロボロと溢れ出していた。

僕は夢中で駆け出し、そのまま彼女の胸に思い切り飛び込んだ。

 

「お姉ちゃん……っ、お姉ちゃん……ッ!」

 

彼女は少しだけ目を丸くした後、フッと優しく笑って、僕の小さな身体をしっかりと抱き止めてくれた。

そして、昔よくしてくれたように、僕の頭を乱暴に、けれどとても温かい手で撫でてくれた。

 

大きな声で、小さな子供のように泣きじゃくりながら彼女の服を握りしめる。

なぜ彼女がここにいるのか、今の僕の事情など知る由もないはずだ。

けれど、彼女はただ泣きじゃくる小さな弟をあやすように、何も聞かずに優しく背中を撫で続けてくれた。

 

「僕っ、僕ね、頑張ったんだ……! ずっと、ずっと頑張って……ッ!」

 

しゃくり上げながら、僕は必死に言葉を紡ぐ。

 

「痛くても、怖くても……あの娘を、守りたいって……! お姉ちゃんたちに教えてもらったこと、必死に考えて、考えて……ッ!」

 

それは、僕が最初に命を落とした、子供の頃の記憶。

凶悪なマフィアを前にして、キーアを守るために右腕を切り落とされ、それでも必死に立ち向かい、命を散らした時の記憶。

あの子を守るために、自分が一番怖かったのに。必死に我慢して、弱い姿を見せて不安にさせないようにって、強がり続けたあの時の本当の想い。

 

「怖かったよお……っ、痛かったよぉ……ッ!」

 

大人になってから、誰にも見せなかった素顔。

ずっと誰かに聞いてほしかった、ただの子供としての弱音が、止まらなく溢れ出した。

お姉ちゃんは、そんな僕の言葉を遮ることもなく、ただ静かに、ずっと僕を抱きしめ続けてくれた。

 

そして、ぽつりと。

 

「うん。……よく、頑張ったよ。アルシュ」

 

そう言ってくれた。

お姉ちゃんがくれたその一言。

ただそれだけで――僕が心の奥底で、ずっと、ずっと欲しかったその一言だけで、僕の魂は完全に救われた。

僕は大好きなお姉ちゃんの温もりの中で、安心しきったようにずっと泣き続けた。

 

少しずつ、少しずつ。僕の小さな身体は黄金の粒子となって解けていく。

その最後の最後まで、お姉ちゃんは僕をしっかりと抱きしめていてくれた。

温かい腕の中で、僕はゆっくりと、静かな電子の海へと還っていく。

 

「……おやすみ、アルシュ」

 

最後に聞こえたその優しい子守唄を胸に抱いて。

僕の長い長い旅は、愛する人たちの温もりの中で、今度こそ本当に終わりを告げたのだった。

 

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