『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
あの忌まわしい『統一国』の騒動から、しばらくの時間が過ぎた。
街を覆っていた重い空気はゆっくりと霧散し、元通りの活気と平和な日常が戻ってきていた。
再独立の調印式も無事に進み、クロスベルの街は新たな『自治州』として、未来へ向けて力強い歩みを進め始めていた頃――。
私は、特務支援課のビルの一室で、大好きな家族のみんなと向かい合っていた。
「本当に、大丈夫かキーア?」
ロイドが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「無理して一人で行かなくても、私たちも一緒についていくわよ?」
エリィも、私の小さな手をギュッと握って気遣ってくれた。
ランディもティオも、口には出さないけれど、とても心配そうな、けれど温かい瞳で私を見守ってくれている。
私は、みんなの優しさに応えるように、しっかりと意志を込めた瞳でみんなを見回した。
「ううん、大丈夫。……これは、キーアが、キーア一人でやらなくちゃいけないことだから」
これは、あの冷たい電子の海の底へ還っていった彼との、最後の約束だから。
『今の僕とも、また友だちになってほしい』――彼が最後に遺してくれた、そのたった一つの小さなお願い。
私はずっと、怖かった。
過去の歴史で私を守って死んでしまった彼の記憶が、ずっと心を縛り付けていた。
また彼が傷つく姿を見るのが怖くて、ずっと彼を遠ざけて、避けて生きてきた。
彼が知らない誰かと遊んで、笑っている元気な姿を、遠くからこっそり見つめるだけで安堵して、自分の臆病さから逃げていた。
でも、そんな私の臆病な不安も、後悔も、全部。
あの日、彼自身が傷だらけになりながら、全部やっつけてくれたから。
だから今度は、私が頑張る番だ。
彼の最後のお願いを、キーアは自分一人の足で、しっかりと叶えに行かなくちゃいけない。
あの大きくて恐ろしい機械から、ボロボロになりながらも、最高にかっこよく私を守ってくれた彼のためにも。
……私自身が、勇気を出して一歩を踏み出さなきゃダメなんだ。
私はみんなの前で、ニシシッと元気いっぱいの笑顔を作った。
「キーア、行ってくるね!!」
私が家族に向けて高らかに宣言すると。
「ああ。気をつけてな、キーア!」
「頑張ってね。応援しているわ」
「へへっ、頑張れよキー坊!」
「ええ。……いってらっしゃい、キーア」
ロイド、エリィ、ランディ、ティオの四人が、私の背中を優しく、力強く押し出すように、温かい声援を送ってくれた。
***
僕はいつものように、クロスベル市立図書館の静かな空間に身を置いていた。
この間まで、なんだか『統一国』とかいう大きな騒ぎになっていて街中がバタバタしていた気もするんだけど……実のところ、その時の記憶はなんだかぼんやりしていて、よく覚えていないんだ。
「まあ、いっか」
特に気にするようなことでもないだろう。僕は本棚の前で腕を組み、小さく息を吐いた。
「えーと、次は何も読もうかな」
この図書館にある本は、子供向けの童話から少し難しい歴史の本まで、かなりの数を読んでしまっていた。
面白い本は何度も読み返したこともあるけど、今日はなんだか少し違った気分だった。
棚の端の方を指でなぞっていくと、ふと一冊の本が目に留まった。
「あ、これ。久しぶりだな……」
結構前に読んだお気に入りの本を手に取り、僕は図書館の窓際の机に戻って、ゆっくりとページを開き始めた。
本を読み始めて、どれくらい経っただろう。
僕は本の世界に完全に没頭していて、周囲の音も、誰かが僕のそばに寄ってきたことにも全然気づいていなかった。
「ねえねえ」
突然、真横から鈴を転がすような元気な声がして、僕はビクッと肩を揺らした。
驚いて声の方を向くと、そこには一人の女の子が立っていた。
緑色の髪に、エメラルドみたいな大きな瞳。
そして……その、とっても可愛い、太陽みたいな笑顔の女の子が。
「ねえ。その本、面白い?」
彼女は屈託のない笑顔で、机に置かれた僕の本を覗き込むようにして問いかけてきた。
「う……うん。面白い、よ」
僕はなんだか急に心臓がドキドキしてしまって、ちょっとどもりながら答えるのが精一杯だった。
彼女のことは知っている。確か、日曜学校で何度か一緒になったことがある、特務支援課のところにいる『キーアちゃん』……だったはずだ。
「キーアも、それ読んでいい?」
「えっ? あ、いいよ。僕は前に読んだことがあるから……キーアちゃん、読んでいいよ」
僕は照れくさくて視線を泳がせながら、その本を彼女の方へ押しやろうとした。
でも、彼女はその本の表紙を見て一瞬だけ、ハッとしたように少し驚いた顔をした後。
僕のすぐ隣の椅子に、ちょこんと座ったのだ。
「ううん。キーア一人じゃなくて……一緒に読も?」
「う、うん……」
隣から伝わってくる温かい体温と、甘いようなお日様のような香りに、僕はすっかり照れてしまって、ただ頷いて返すしかできなかった。
机の上に広げられた一冊の本を、二人で覗き込む。
「あのね、私はキーアっていうの。……君は?」
彼女は本から視線を上げ、僕の目を見て真っ直ぐに聞いてきた。
「僕は、アルシュ。……アルシュ・グレイウッド」
僕がそう答えると。
彼女は、まるでずっと探していた宝物をようやく見つけたかのような――世界で一番嬉しそうな、最高に可愛い太陽のような笑顔を僕に向けてくれた。
「よろしくね、アルシュ!」
その時の彼女の笑顔が、どうしてあんなにも僕の胸の奥を強く締め付けたのか、今の僕にはまだ分からなかった。
そして机の上に置かれた一冊の本を、二人で肩が触れ合いそうなほど近くで覗き込む。
ページをめくる心地よい紙の音だけが、静かな図書館の窓際に響いていた。
その時だった。
「ねえ、アルシュ」
本を見つめていたキーアちゃんが、ふいに顔を上げて僕を見た。
「私と……友だちになってくれる?」
問いかけてきた彼女の顔は、さっきまでの太陽のような笑顔とは違って、なぜか少しだけ……どこか怯えたような、不安そうな表情をしていた。
(どうしたんだろう……?)
その不安そうな瞳がなんだかとても気になって、僕は少しでも彼女を元気づけようと、自分にできる精一杯の笑顔を作った。
「うん。……僕で良かったら、喜んで」
緊張を解くように、少しだけ眉尻を下げた、優しくて、どこかへにゃっとした僕の笑顔。
それを見た瞬間。彼女はハッとして、一瞬だけ……本当にほんの一瞬だけ、泣き出しそうな、寂しそうな表情を見せた気がした。
けれど、彼女はすぐに目を伏せて小さく首を振り、再び僕へ向けて顔を上げた。
「――ありがとう、アルシュ」
今度は不安なんて一切ない、心からの満面の笑みで、彼女はそう応えてくれた。
「えへへ、じゃあ次のページ、キーアがめくるね!」
「あ、うん。いいよ」
「このお話ね、キーア大好きなんだ! アルシュはどこが好き?」
「えっとね、僕はここのシーンかな。主人公がね……」
やがて二人は、隣り合って座り、一冊の同じ本を覗き込みながら、クスクスと楽しそうに笑い合う。
窓から差し込む柔らかな午後の陽射しが、二人を優しく包み込んでいた。
何も知らない少年と、すべてを知り、乗り越えた少女。
新たに紡がれ始めた、ただの日常。
けれど、並んで本を読む二人のその姿は――かつて存在し、そして世界のために消え去った『失われた歴史』の中で、二人が初めて出会い、心を通わせた時の姿と、全く同じものだった。
最後にあと一つおまけがあります