『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
遥かに広がる、どこまでも青い空。
分厚い雲を切り裂くように、高速で空を駆け抜けていく。
俺は今、定期巡航している飛行艇に乗って大陸の空を移動していた。
――そして、盛大に船酔いしていた。
「うっぷ……」
少しでも風に当たればマシになるかと思い展望デッキに出たものの、手すりにもたれかかったまま今にも死にそうな顔でうなだれていた。
(生身の身体でもないってのに、船酔いするってどういうことだよ……)
ぐるぐると回る視界の中で、俺は脳内でくだらない愚痴をこぼす。
このシミュラクラの身体に、三半規管なんて人間と同じ器官が物理的に備わっているとは思えない。
だというのに、ご丁寧に『三半規管が狂う感覚』までわざわざ再現しているというのか。
あのマッドサイエンティストの無駄な技術力とこだわりに、本気で殺意が湧いてくる。
どうにもならない現状にげっそりしていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
「アハハハハ! なーに死にそうな顔してんのさ、だらしないねぇ」
声の主は姉さんで。
手すりに突っ伏している俺の無様な姿を腹を抱えて笑った後、「ほら」と、買ったばかりの冷たい缶ジュースを俺の頬に押し当ててきた。
「ひゃっ!?」
「一気に飲んじゃいな。少しはスッキリするからさ」
「あ、ありがとう……」
ひんやりとした冷たさに少しだけ意識がはっきりし、俺は受け取ったジュースを一気に喉に流し込んだ。
甘酸っぱい炭酸が胃に落ちていくと、確かに少しだけ吐き気が治まり、気分が持ち直してくる。
ふう、と深く息を吐き出しながら、俺は冷たい風に吹かれつつ、なぜ自分が今こんな状況にあるのかを思い返していた。
***
事の発端は数日前。結社のラボにいるノバルティス博士に呼び出された時のことだ。
普段なら、やらせたいことを簡潔に、かつ一方的に指示してくる博士が、その日は妙に歯切れが悪く、言い淀むように口を開いた。
『……君に、やってもらいたいことがある』
そう切り出した博士は、ある特定の企業の内部を探ってきてほしいと告げた。さらに、これは結社の任務ではなく、あくまで博士個人の依頼だとも。
『つまり……博士の言うその会社に潜り込んで、産業スパイじみたことをしてこいと?』
『そうだ。何か問題があるかね』
俺の確認に、博士はそっぽを向いたまま答えた。内心、(おいおい……)と呆れてしまう。
あのバベル事変以降、エリュシオンの演算結果や様々な技術が漏洩し、大陸各地で急激な技術発展が進み始めていることは、事変の顛末として俺も聞いている。
とはいえ、だ。この数ヶ月、博士のラボで過ごし、その常軌を逸した技術力に触れてきた俺には分かる。
外の世界で発展している技術と、博士が持っている技術との間には、いまだ隔絶したレベルの格差がある。
だというのに、天下のノバルティス博士が、わざわざ外の企業相手に産業スパイじみた真似をする必要があるのだろうか。
俺がその疑問を素直に尋ねると、博士はひどく面白くなさそうに顔を顰めた。
『……忌々しいことに、だ。私が完全に把握していない技術を、その企業が保有している可能性が高いのだ』
それは、博士の技術力を知る身からすればとんでもない話だった。
確かに、どんな企業なのかと多少の興味は湧いてくる。
しかし、一応元・遊撃士としては、いくら何でも産業スパイのような真似に加担するのはいかがなものかと逡巡した。
だが――こちらの回答を待つ間、コンソールを叩く博士の指先が、妙にイライラと落ち着きなく動いているのが気になった。
捻くれ者で偏屈屋で、紛れもない狂人のこの人だが、態度は比較的わかりやすい。おそらく、彼が俺に伝えた内容は「全て」ではないのだろう。
『技術を奪ってこい』ではなく、『内部の内情を調べてこい』と言ったのだ。あのプライドの高い博士が、あんな歯切れの悪い頼み方をしてくるということは……何か、どうしても自分では言い出せない、面倒な理由があるに違いない。俺は直感的にそう察した。
『……わかったよ。博士には、色々と世話になってるしな』
俺が苦笑交じりにそう答えると、博士は表情も言葉も変えなかったものの、どこかほっとしたような気配を漂わせ、いつもの皮肉屋な笑みを浮かべて「ふん、頼んだぞ」とだけ返したのだった。
*
そうして俺は、博士の依頼を受け、オレド自治州に社を構える民間軍事会社――『マルドゥック総合警備保障』へと向かうことになったのだ。
ただ、一つだけ誤算だったのは。
「――で。なんで、なんか暇そうにしてた姉さんが、俺についてきてるわけ?」