『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
オレド自治州、早朝。
日が昇る直前の深く冷たい暗闇の中、うっすらと白い朝靄が立ち込め始めた頃合い。
マルドゥック総合警備保障、本社屋の裏口。
そこには、最新鋭の装備に身を包んだ二人の警備兵が入り口を厳重に守っていた。
とはいえ、彼らも人の子だ。
そろそろ夜勤の交代時間が近づいているのか、「早く引き継ぎ来ねえかな」「コーヒー飲みたいぜ」とぼやきながら、無防備な欠伸を漏らしていた。
しかし、次の瞬間。
「――え?」
「な……」
二人の警備兵は声にならない短い呻きを漏らし、その場で糸が切れたようにパタリと倒れ込んで気を失った。
周囲には誰もいない。
ただ、もしこの場に極めて熟達した達人がいたならば、気づいたかもしれない。
倒れた警備兵たちの背後――かろうじて、その場の空間の景色が「光学迷彩」を使ったように、陽炎のごとく僅かに歪んだことに。
しかもそれは、極限まで意識を研ぎ澄ましていなければ見逃してしまうほど微かなものであり、普通の人間が気づけるような代物ではなかった。
「アハハ。実戦で使うのは初めてだけど、大したものだね」
何もない空間から、楽しげな姉さんの声が響く。
「元のヤツとは違って、博士がかなり手を入れたみたいだけど……確かに、こういう隠密潜入には最適だね」
俺も空間の歪みを解かないまま、静かに言葉を返した。
今俺たちが使用しているのは、カルバード共和国が開発したという第五世代戦術オーブメント《RAMDA(ラムダ)》の機能に類似したものだ。
元々は共和国の特殊部隊などが使用していた、ステルス機能や空間投影を扱える最新鋭の代物らしい。
だが、あのノバルティス博士から言わせれば「技術的にひどく稚拙で見るに堪えない」とのことだった。
結局、博士はその機能の根幹だけをパクり……もとい吸収し、自分の手で徹底的に再調整を施したらしい。
『オリジナルのポンコツとは違って、各種の熱源センサーや生体センサー類も完全に誤魔化せるようにしておいた。好きに使うといい』
出発前、自信満々にそう言ってこのデバイスを渡してきたマッドサイエンティストの顔を思い出し、俺は内心で(技術力だけは本当に規格外なんだよな……)と呆れるやら感心するやらだった。
「ほら、さっさと隠すよ」
「うん」
俺たちは迷彩効果を維持したまま、倒れた二人の警備兵の身体を引きずり、死角となる物陰へと転がして隠した。
続いて、固く閉ざされた裏口の前に立つ。俺は博士から渡されていたハッキング用の小型端末を取り出し、分厚い扉の電子ロック部分へと接続した。
さすがは急成長中のPMCの拠点だけあって、軍事施設並みのかなり厳重なプロテクトが掛けられていた。
だが、博士の言う通り、『俺』がこの専用端末を通せば、解除するのはそれほど難しい作業ではなかった。
数秒ののち、カチリ、と微かな電子音が鳴り、重厚なロックが解除される。
現在、俺たちはステルス機能を全開にしている状態だが、このデバイスには「同じデバイスを起動している味方同士の姿だけは視覚的に確認できる」という、これまた痒い所に手が届く機能が組み込まれている。
俺は隣に立つ姉さんの方を向き、無言で『ロック解除完了』のハンドサインを送った。
姉さんはサングラスの奥の目を細め、ニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべて頷く。
静かに、しかし素早く裏口の扉を開き、俺たち二人はマルドゥック社の社屋内部へと潜入を果たした。
時間は早朝の四時を少し過ぎた頃合い。
作戦は、今のところ完璧な滑り出しだった。
扉を開け、裏口から社屋の内部へと足を踏み入れる。
表の洗練されたエントランスとは異なり、新設されたばかりの建物らしく壁や床こそ非常に綺麗だったが、その身ぎれいさとは裏腹に、どこか物々しい空気感が漂っていた。
ただの企業ではなく、PMCの拠点特有の、人を殺傷するための機能美がそこかしこに息づいているような重苦しさだ。
廊下の天井には、死角をなくすように真新しい監視用のセキュリティカメラが等間隔で設置されていた。
だが、その真下を通り抜けても、カメラのレンズがこちらを追従するような動きは見せない。
博士の言葉通り、光学迷彩だけでなく熱源やシステムそのものを完全に「誤魔化している」ようだ。
俺はその事実に内心で安堵の息を吐きながら、さらに奥へと歩を進めた。
それにしても、建物内に人の気配がほとんど感じられない。
早朝という時間帯だからか、それとも共和国政府との大口契約のために主力の人員の多くがそちらに出払っているのか。
あるいは、今の時間は外の警備に最低限の人員を割いているだけで、そもそも中に人がいないのか。
いくつか通り過ぎた待機部屋や休憩室と見られる部屋にも、全く人の姿は見当たらなかった。
やがて廊下を奥まで進んでいくと、上層のフロアへと繋がる階段と、地下へと続く階段の分岐点に行き当たった。
(さて、どうするか……)
俺は少し立ち止まり、頭を巡らせる。
博士から依頼されたのは「内情を調べてこい」というものだ。
だが、今更この新興企業が抱える構成人員のリストや、共和国政府との契約内容が書かれたデータなどを持ち帰ったところで、あのマッドサイエンティストが喜ぶはずがない。
この会社が保有しているという、ノバルティス博士すら把握していない「未知の技術」に連なる何か。
博士が口にしなかったのか、あるいはプライドが邪魔をして口にできなかったのかは知る由もないが、その『技術の正体』を探し出すというのであれば――向かうべきは上(オフィス)ではなく、間違いなく下(ラボ)だ。
俺は背後に立つ姉さんに向けて、無言のハンドサインで『地下に進む』と伝えた。
姉さんは、先ほど入り口で警備兵から奪い取っていたMK社製のスタンロッドを片手で器用に回しながら、任せなと言わんばかりに獰猛な笑みを浮かべてコクリと頷く。
俺たちは足音を殺し、息を潜めて地下へと続く階段を降りていった。
***
マルドゥック社屋の地下層。
そこは上層のフロアよりもさらに静まり返っていた。
廊下の突き当たりに設置されていた、先ほどよりも一回り大仰で分厚い隔壁扉の前に立つ。
俺は再び博士から渡された端末を電子ロックに接続した。
物理的な分厚さに違わず、かかっているプロテクトも上層のものとは比較にならないほど複雑だったが、それでも何の問題もなく解除に成功する。
シューッ……と、気圧の抜けるような音を立てて、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「へえ……」
その先に広がっていた光景に、姉さんが小さく感嘆の息を漏らす。
そこは、企業の地下というよりも、まるで最先端の研究施設のような、塵一つないクリーンルームじみた広大な空間だった。
そして、その部屋の中央や壁際には、いくつもの『武器』が陳列されていた。
いや、武器と呼んでいいのかも分からない。それは一般的な猟兵たちが使うような、鉄と鋼で造られた無骨な銃器や刃物ではなかった。
明らかに高度な科学的アプローチによって造り出された、一般に流通する武装とは完全に一線を画す未知のデバイス群。
その多くが、解析や調整の最中なのか、何本もの複雑なケーブルで巨大な検査用のコンソールへと直接繋がれたままになっていた。
「へえ……こいつはまた、随分と面白いオモチャがいっぱいあるじゃん」
姉さんが興味を惹かれたのか、感嘆の声を漏らしながらいくつかの武装を手に取って確認していた。
流線型のフォルムをした銃器や、未知の機構が組み込まれたブレード。
素人目に見ても、明らかに裏社会の市場に出回っているような代物とは根本的に構造が違うことがわかる。
だが、それらの武装を横目に眺めていた俺は――唐突に、脳の奥底を直接撫でられるような、チリチリとした奇妙な感覚に襲われていた。
(……なん、だ……?)
ずきり、と微かに視界が揺れる。
この感覚には覚えがあった。久しく忘れていたが、絶対に忘れるはずのない感覚。
あのバベルの塔の中枢で、イシュメルガの演算結果と、俺自身のシミュラクラとしてのデータが干渉し合った際に感じた、あの不可思議なノイズと同質の痺れだ。
だが、あり得ない。
すべての元凶であった巨大人工知能『エリュシオン』も、再現された最悪の悪意たる『イシュメルガ』も、あの事変の果てに完全に消滅したはずだ。
だというのに、存在しないはずの残滓のような感覚が、今この部屋の空間から微かに、しかし確かに感じられる。
「ん? どったの?」
俺がわけも分からず困惑した表情で立ち尽くしていると、こちらの異変に気づいたのか、姉さんが小首を傾げて尋ねてきた。
「……いや。ちょっと、懐かしい感覚がしただけだよ」
俺は誤魔化すように首を横に振り、無難な言葉だけを返した。
『ふーん?』と訝しげな視線を向けてくる姉さんに対し、問題ない、と手を動かしてハンドサインを送る。
気になることは山ほどある。だが、とりあえず今は後回しにするしかなかった。
敵地のど真ん中に潜入している最中に、立ち止まって考えることではない。
この不気味な感覚が一体何なのか。
あの博士がわざわざ俺を指名してここまでよこした原因に起因するものなのか。
(あとで、あの偏屈爺さんを絶対に問い詰めてやる……)
それに、だ。
今この部屋に並んでいる武装群は、確かに外では見かけようのない高度な代物だし、中にはとんでもない威力を秘めたヤバい代物もあるのかもしれない。
だが、それでもあのノバルティス博士の異常な技術力からすれば、「大したことはない」と鼻で笑う程度のものだろう、とどこかで確信していた。
あのプライドの塊のような博士が、わざわざあんな歯切れの悪い頼み方をしてきたくらいだ。
ここにある武器のデータを一つや二つ持ち帰ったところで、到底納得するとも思えない。
何より、今もなお続く、このチリチリとした脳を撫でられるような感覚。
『ここじゃない、もっと別の何かがある』と、俺の中の『データ』が強く訴えかけていた。
小さく深呼吸をして思考を切り替え、俺は姉さんに「他の部屋に向かおう」とハンドサインで伝え、武器庫を後にした。
その後、地下フロアの他の部屋をいくつか調べて回った。
だが、先ほどの研究室(武器庫)がこのフロアで一番広い場所だったらしく、他の部屋には特に目新しいものは見当たらなかった。
ただの備品庫や、一般的な端末が置かれただけの空部屋ばかりだ。
(ハズレか……? 目新しい技術はないけど、とりあえず端末からデータだけでも引っこ抜いて帰るか……?)
そんな強引な考えが頭をよぎり始めた、その時だった。
フロアの最奥。
そこだけ明らかに毛色が違う、尋常ではない分厚さの隔壁で守られた「厳重な扉」が鎮座していた。
それと同時に、俺の脳髄を焼くチリチリとした感覚が、まるでアラートを鳴らすかのように激しく訴えかけてきたのだ。
(ここ、か……! この奥に何か――)
引き寄せられるように、俺はその扉へと無防備に一歩近づいた。
その瞬間。
『ちょーっとまったー! その先は、触れたらあかん!』
突如として、能天気で明るい独特のイントネーションの女性の声が、大音量で鳴り響いた。
「っ!?」
ビクッと身体が跳ね、反射的に背後を振り返る。
だが、そこに人影はない。
声は廊下のスピーカー――館内放送を通じて、俺たちに直接語りかけてきていたのだ。
(光学迷彩は見破られていないはずだ! 生体センサーか、扉の周辺だけ独立した特殊な監視網があったのか……!?)
考えるよりも早く、凄まじい「足音」が廊下の奥から響いてきた。
いや、ただの足音ではない。地響きのように重く、それでいて信じられないほどの速度でこちらに迫ってくる、圧倒的なプレッシャーの塊。
侵入が完全に気づかれた。
俺は即座に腰の得物を抜き放ち、姉さんもまた息を呑むような獰猛な笑みを浮かべてスタンロッドを構え、迎撃の体勢をとる。
「……ネズミが二匹。我が社の最高機密に触れようとは、いい度胸だ」
足音の主が、暗がりからその姿を現した。
深い褐色の肌に、どこか東方系の面影を残す精悍な顔立ち。
その手には、およそ人間の筋力で扱えるとは思えないほど大仰で巨大な『バスターランス』が軽々と握られている。
ただそこに立っているだけで、空気が軋むほどの威圧感。
マルドゥック社警備主任、カシム・アルファイド。猟兵の最高峰と謳われる最強の男が、そこに立っていた。