『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
「アルシュ。――次は、私と立ち会っていただけますか」
彼女はそう言った。
圧があった。凛とした表情と、一切の隙がない所作。
ただの腕試しではなく、明確な意図を持って本気で向かい合おうとしていることが、肌を刺すような空気から伝わってくる。
理由はわからない。だが、その真剣な眼差しから逃げるという選択肢はなかった。
「……わかりました」
俺が短く答えてセドリックの手を借りて立ち上がると、セドリックはデュバリィさんへ少しだけ鋭い視線を向けた後、無言でその場を離れ、姉さんの隣へ移動した。
「アルシュ、全力で参ります。貴方も全力で応えなさい」
張り詰めた声と共に、訓練所の空気がビリッと震えたような錯覚を覚えた。
間違いなく、本気だ。
クロスベルでの『バベル事変』の折、彼女の戦い方を間近で見る機会はなかった。
しかし、結社最強の戦闘部隊《鉄機隊》の筆頭にして、隊士それぞれが執行者級の実力を持つと言われる精鋭の頂点。
その彼女が放つ剣気は、セドリックのそれとは次元の違う、純度の高いプレッシャーを帯びていた。
気合を入れ直し、十分に距離を取ってから、いつも通りナイフと導力銃を両手に構える。
対するデュバリィさんの得物は細身の剣。そして左腕にはバックラー。
(盾持ちの相手は珍しいな……)
いつも通り揺さぶりをかけて防御を崩していくか。そう思考し始めた、その瞬間。
「――では、参りますわ」
静かな宣言。
俺が「動き出した」と知覚した次の瞬間――彼女はすでに眼前に肉薄し、長剣を横薙ぎに振り抜いていた。
「なっ……!?」
常軌を逸した踏み込みの速度。考えるより先に、ほとんど反射でナイフを盾にして受け止める。
ガギィィィッ!!
顔のすぐ横で火花が散る。膂力自体はそれほどでもない。
腕力とナイフ一本で受け止めきれる重さだ。
だが、その安堵も一瞬だった。
俺が対抗に動こうとするより早く、剣はすでにナイフの刃から滑るように引かれ、流れるような軌道で次の斬撃が放たれていた。
「――シッ!!」
「くっ……!」
間一髪で身を捩り、二撃目を受け流す。
だが、止まらない。
予備動作が、ほとんど存在しないのだ。
攻撃の終わりが、そのまま次の攻撃の始まりへとシームレスに繋がっている。
完全に後手に回ったことも大きいが、何より連撃の速度に、俺はギリギリ捌くことだけで限界に追い込まれていた。
力ではない。
純粋な『速さ』と『技』による圧倒。
防戦のまま数合を凌ぎ、俺は相手の剣の軌道の隙間に無理やりねじ込むように、左手の導力銃の引き金を引いた。
タンッ!
「甘いですわ」
至近距離からの射撃を、デュバリィさんはヒラリとステップで回避し、そのままバックステップで後退した。
距離が空き、俺は荒い息を吐きながらナイフを構え直す。
「……まずは挨拶代わり、ですわ」
剣を下段に構え直し、デュバリィさんは不敵な笑みを浮かべた。
たった数秒の交錯。
しかしそれだけで、《神速》という異名に違わぬ実力を、余すことなく見せつけられた気がした。
「……嘘だろ」
距離を取ったのも束の間。
次の策を練り始めた思考の初速よりも早く、デュバリィさんの姿が再びブレた。
ガィィィンッ! ギィンッ! ガキンッ!!
「くそっ……! ぁっ……!」
暴風。
いや、質量を持った竜巻だ。
上段、下段、左からの袈裟懸け、突き。息をつく間もなく全方位から降り注ぐ剣閃を、両手のナイフと銃の銃身を盾にして必死に弾き返すが、完全に手数が足りていない。
(右から……いや、フェイント!? 盾かッ!)
剣撃に気を取られた瞬間、死角からバックラーのシールドバッシュが迫る。
咄嗟に引いて躱すが、その回避行動すら彼女の計算の内だった。
体勢の崩れた足元へ、地を這うような蹴りが放たれる。
「シィッ!!」
「ぐっ……ぁ……!」
考えるより先に、相手の行動が常に二手、三手と先を行っている。
どう動くか、どう崩すか、必死に頭を回して戦術を組み立てようとするのだが、その思考が完了する前に、すでに彼女の剣が命を刈り取る位置まで届いているのだ。
(ダメだ……完全に、一歩遅い……!)
俺の戦い方は思考型だ。
ナイフと銃の搦め手で相手を揺さぶり、確実に崩していく。
だが、圧倒的な速度と直感、卓越した技量で押し切ってくる相手には、その長所が根こそぎ封殺される。
罠を張る暇もない。隙を作る余裕もない。
先日手に入れたパルスストライカーがあれば、こういう限界の極致でこそ活きるはずだった。
だが、思考のキャパシティが完全に溢れている今の状態で、習熟の足りていない新武装を咄嗟に引き出すことなど不可能だった。
「どうしました! その程度ですか!」
「っっ……ハァ、ハァ……!」
剣を捌くたびに、腕の感覚が麻痺していく。
防戦一方で後退し続ける俺を見て、デュバリィさんはスッとその瞳の温度を下げた。
「……仕上がっていませんわね。では、これで終わらせます!」
その声と共に、周囲の空気が爆発的に膨れ上がった。
剣気と闘気が混ざり合い、彼女の姿が蜃気楼のように揺らぐ。
「いきますわよ……!」
上段に構え、一直線に踏み込んでくる。
俺は残った全神経をその一撃に集中させ、迎撃の体勢を取った。
「――《影技・剣帝陣》!!」
「……は!?」
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
眼前に迫るデュバリィさんの姿が、ブレたかと思うと――完全に独立した、三人のデュバリィさんへと分身したのだ。
右、左、正面。
残像ではない。三つの姿すべてから、確かな殺気と実体感を伴った圧が放たれている。
どれが本物だ。それとも全部本物なのか。
極限状態での未知の事象。俺の思考が完全にフリーズし、三つの姿に気を取られた、そのほんの一瞬の空白。
「――そこですわ!」
「ガハッ……!?」
左右の分け身が幻影となって消えると同時に。
がら空きになったみぞおちのど真ん中に、正面から踏み込んできた本物の痛烈な峰打ちが、完璧なタイミングで突き刺さった。
「あ……がっ……!」
肺の空気がすべて弾き出され、目の前が白くなる。
体がくの字に折れ、武器を取り落とし、硬い床へと力なく崩れ落ちた。
「ゴホッ、ゲホッ……ァ……」
(……完敗だ。手も足も……出なかった……)
強烈な吐き気と痛みに喘ぎながら、床に這いつくばったまま降参の言葉を絞り出そうとした。
だが、それより早く。
俺を見下ろすデュバリィさんから、氷のように冷たく、しかし鋭く核心を突く言葉が降ってきた。
「……言い方は悪いですが」
剣を鞘に納める、カチャリという音。
見上げた彼女の瞳には、怒りとも落胆ともつかない、ひどく厳しい光が宿っていた。
「貴方――腑抜けていませんか?」
「は……?」
みぞおちの痛みを忘れて、思わず呆然とした。
腑抜けている。あまりにも直球な単語だった。
「初見の対応、純粋な相性、事前の準備不足……様々な理由はあったでしょう。私だって、そこまで理不尽を強いるつもりはありません」
冷たく、しかし真摯な声が続く。
「――それでも。あのバベル事変の頃の貴方なら、このような『無様』を晒すことはなかったのではなくて?」
「ぁ……」
その言葉が、心臓の一番柔らかい部分に深々と刺さった。
あの頃の俺なら、どうだった。
床を見つめたまま、心の内で問う。
あの頃の俺は、為すべきことを果たすために、常に死に物狂いで頭を回し続けていた。
格上の相手だろうが、圧倒的な多数だろうが関係なかった。
どうやって渡り合うか、どうやって凌駕するか。
手持ちの札のすべてを懸けて、泥臭く必死に相手の首元へ食らいつこうとしていた。勝てない言い訳や相性の悪さなど、思考の片隅にも置いていなかった。
対して、今の俺はどうだ。
カシム・アルファイドと相対した時。
そして今、彼女と刃を交えた時。俺の思考は、どこか致命的な部分でブレーキがかかっていなかったか。
俺が押し黙って考え込むのを見て、デュバリィさんは静かに告げた。
「あのバベルでの戦いにおいて、貴方の戦いは一度決着がつきました。この先、もう戦いの場に身を置かないというのであれば、今のままでも構わないでしょう。……しかし、そうでないのなら。貴方は今の自分の状態を、はっきりと自覚しておくべきですわ」
「…………」
意図せず得てしまった、続きの人生。
成し遂げるべき目的を果たし、己を駆動させていた強迫観念を喪ったことで……俺はあの頃のように、泥水すらすり潰して生き残ろうとする精神性を、無自覚に手放してしまっていたのだ。
(……情けない)
床に押し当てていた手を、ギュッと強く握りしめた。
この先どういう生き方を選ぶにしても、俺が戦いから離れて平穏に暮らすことなどないだろう。
デュバリィさんの言う通りだ。
これから先を見据えて生きていくつもりだったくせに。
俺の根幹は、命題を終えたあのバベルの日から、完全に腑抜けていた。
「……ははっ」
自嘲の笑いが漏れた。
痛む身体に鞭を打ち、ゆっくりと上体を起こす。
「デュバリィさんの、言う通りですね……」
床に手をついたまま、誤魔化すことなく、まっすぐに彼女の瞳を見据えた。
「確かに俺……自分が思っていた以上に、腑抜けてたみたいです。……気づかせてくれて、ありがとうございます」
心からそう伝えると、デュバリィさんは少しだけ目を丸くし、やがてフッと口元を綻ばせた。
床に落ちたナイフと導力銃を拾い上げ、もう一度、両手にしっかりと握り直す。
今度は思考を止めるな。格上相手に立ち止まるな。持てる知識と手札のすべてを回し切れ。
「デュバリィさん。……もう一度、立ち会ってもらえますか」
本気の熱を込めてそう頼むと、彼女はやれやれと肩をすくめた。
「……本当に、世話の焼ける人ですわね。仕方ありませんわ、付き合って差し上げます!」
盾を構え、再び剣尖を向けてくる《神速》の騎士。
俺は薄く笑い、今度は自ら思考をフル回転させて、彼女の懐へと真っ向から飛び込んだ。
――結果として、二度目の立ち合いも俺の敗北で終わった。
だが、限界まで思考を回して泥臭く食らいついたその過程は、先ほどの無様より、ずっとマシなものだった。