『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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嵐の日に⑤

激しい雨が顔を打ち据える中、アルシュは弾かれたように駆け出した。

 

大人たちを呼んでいる暇はない。今この瞬間にも、泥濘(ぬかるみ)に残された小さな足跡は雨に洗い流されようとしていた。

アルシュは壁の隅に立てかけてあった自分の訓練用の木剣を鷲掴みにすると、そのまま暴風雨が吹き荒れる夜の闇の中へ飛び出した。

 

「リリちゃん! リリちゃん……ッ!」

 

足首まで浸かるほどの泥に足を取られそうになりながら、消えかけの足跡を必死に目で追う。

大聖堂の敷地から少し外れた、木々が風に大きく揺れる森の入り口付近。度重なる稲光が、暗闇を白く照らし出したその一瞬だった。

 

「……っ!」

 

アルシュの目に、地面にへたり込んでいる小さな影が飛び込んできた。

 

間違いない、リリだ。

雷の直撃にパニックになり、外に逃げ出してしまったのだろう。

だが、くじいた足と深い泥濘に完全に囚われ、立ち上がることもできずに泥だらけになって震えている。

 

だが、アルシュを真に戦慄させたのは、リリのすぐ数メートル先にうごめく『別の影』だった。

 

赤い双眸。鋭い牙。嵐の音に混じって、低く濁った唸り声を上げる四つ足の獣。

 

落雷に驚き、森から迷い出てきてしまったのだろう。

大人の遊撃士や警備隊員からすれば、取るに足らない小型の魔獣に過ぎない。

しかし、十歳の子供にとっては、紛れもない『死』をもたらす恐ろしい怪物だった。

 

アルシュの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。

 

実戦経験など、一度もない。

剣だって、素振りの型を教わっただけだ。

本物の魔獣が放つ濃密な殺気を前に、恐怖で足が竦みそうになる。

 

――けれど。

 

(リリちゃんを、守らないと……!)

 

アルシュの脳裏に浮かんだのは、ただそれだけだった。

逃げ出すという選択肢は、一秒たりとも彼の頭には浮かばなかった。

アルシュは喉の奥から、腹の底の空気を全て絞り出すように大声を上げた。

 

「リリちゃん!!」

 

それは、魔獣の意識をリリから引き剥がすための、決死の叫びだった。

その声にビクッと驚いた魔獣がこちらを振り向くのと同時に、アルシュは泥を蹴り上げ、全速力で駆ける。

そして、リリと魔獣の間に滑り込むようにして、その小さな身体で立ち塞がった。

 

「アル、シュ……おにい、ちゃん……っ」

 

背後で、リリが恐怖と安堵でしゃくり上げる声が聞こえる。

 

「大丈夫だ、リリちゃん。僕が……絶対に守るから!」

 

雨水と泥にまみれた震える手で、木剣の柄をギリッと力強く握りしめる。

震えを止めるように重心を低く落とし、踵からしっかりと泥の地面を掴む。

それは、ランディから教わり、毎晩手に血豆を作りながら反復してきた構え。

図らずもあの赤髪の猟兵が見抜いた、実戦的で無駄のない『赤い星座』の流儀の片鱗。

 

ゴロゴロと轟く雷鳴の下。

 

十歳の少年は初めて、己の命を懸けた『実戦』を前にして、決して退かない決意と共に木剣を真っ直ぐに構えた。

 

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