『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
カルバード共和国から、結社の拠点のひとつへと帰還した日のこと。
居住区のラウンジには、甘いバターの香りが漂っていた。
イーディスから持ち帰った土産――ヴァンと一緒に見繕った極上の焼き菓子の詰め合わせを囲んで、ちょっとしたお茶会のような時間が流れている。
「と、いうわけで。もう少しこっちの用事を片付けて、しばらくしたら……俺は共和国の方で活動することにするよ」
紅茶のカップを置きながらそう報告すると、姉さんは焼き菓子を齧る手を止め、こちらをじっと見つめて「ふーん」とだけ短く呟いた。
デュバリィさんは腕を組み、何かを考え込むような仕草を見せてから息を吐く。
「……そうですか。あなたなりに、思うところがあっての決断ということですね」
「アルくんおらんくなると、さみしくなるなぁ」
頬杖をついたルクレツィアさんがわざとらしくも名残惜しそうな声で言うと、セドリックも小さく頷いた。
「ええ、僕もです。アルが遠くなってしまうのは、少し寂しいですね」
三者三様の反応に、俺は少しだけ頬を掻いた。
こうして自分の出立を惜しんでくれる人間がいるのは、なんだかんだで悪い気はしない。
「まあ、別に完全に距離を置くってわけじゃないんですよ。何か手伝えることがあれば、呼び出してくれればいつでも」
それに、とは内心でだけ付け加える。
ノバルティス博士との約束もあるし、何より俺のシミュラクラの肉体は定期的にメンテナンスが必要だ。
完全に縁を切って逃げ隠れすることなど、最初から不可能な話だった。
「体のこともありますしね。定期的にこっちには戻ってきますよ」
俺が笑ってそう言うと、ルクレツィアさんが薄布越しの瞳を細め、ふふっと艶やかに笑った。
「せやね。……でも、なんやええ顔するようになったやないの、アルくん」
「え?」
「前みたいに、どこか無理して突っ張ってる感じが抜けたっていうか。憑き物が落ちたみたいやわぁ」
俺は思わず目を瞬かせた。イーディスでの怒涛の一日が、よほど顔つきを変えていたらしい。
「……まあ、ちょっと背中を押してくれる人がいましてね。おかげで色々と踏ん切りがついたんです」
「そうですか。アルが納得できる道を見つけられたのなら……本当によかった」
セドリックが微かに表情を和らげ、心からの祝福のような言葉をくれた。
「ありがとう。それで――」
これからの具体的な動きについて言葉を続けようとした、その時だった。
「ほう、随分と面白い話をしているなあ。オジサンも混ぜてもらえるかい?」
背後から、不意に声が降ってきた。
同時に、テーブルの上の箱へとぬらりと腕が伸び、焼き菓子の一つが摘み取られる。
――ぞわっ。
首筋を撫でられるような、得体の知れない悪寒。
俺は反射的に全身の産毛を逆立て、横を振り向いた。
いつの間にそこに立っていたのか。
人の良さそうな笑みを浮かべながら、奪い取った焼き菓子を口に運ぶ一人の男がいた。
その姿を視界に収めた瞬間、ラウンジの空気が一変する。
デュバリィさんが露骨に嫌悪感を剥き出しにして顔を顰め、セドリックの表情からも先程までの穏やかさが消え、警戒心も露わな険しいものへと変わった。
「……《破戒》……!」
セドリックが低く憎々しげな声でその名を呼ぶ。
結社《身喰らう蛇》、使徒・第四柱――《破戒》のエルロイ・ハーウッド。
最悪の劇薬とも呼べる男が、そこに立っていた。
「あ、ハーウッドのおっさんじゃん」
しかし部屋を満たした緊迫感などどこ吹く風といった様子で、姉さんが焼き菓子を口に放り込みながら呑気な声を上げた。
それに同調するように、ルクレツィアさんもいつもの艶やかな笑みを浮かべる。
「旦那はん、帰ってきはったんやねぇ」
「ああ、ついさっきな」
ハーウッドは飄々としたまま薄く笑い、俺の方を見下ろしてきた。
「お前さんがあの偏屈な爺様のお気に入りか。エルロイ・ハーウッドだ。よろしくな」
口の端を吊り上げ、表面上は極めて友好的な挨拶をしてくる男。
だが、俺は顔を引き攣らせたまま、警戒を微塵も隠すことができなかった。
隠す余裕などなかった。
――ぞわり、ぞわりと。
背筋を這い上がってくる、総毛立つようなえも言われぬ悪寒。
(……こいつが、第四柱……!)
知っている。俺は、こいつを知っているのだ。
かつて遊撃士として生きていた時代の記憶が、強烈な警鐘を鳴らして脳髄を叩いている。
このゼムリア大陸においてすら間違いなく『最悪』の部類に位置するであろう、外法中の外法。
関わった人間すべてを悪意と遊戯の渦に引きずり込む、正真正銘のバケモノだ。
俺の全身から放たれる明らかな拒絶を感じ取っても、ハーウッドは気を悪くするどころか、愉快そうに喉を鳴らした。
「ふふん。そう警戒するな。今のところは、お前さんに何もする気はないぜ」
「……ほんなら、旦那はんは何しにきはったん?」
硬直する俺を見かねたのか、ルクレツィアさんが横から声を挟んだ。
ハーウッドは肩をすくめ、悪びれもせずに答える。
「なに、あの爺様がずいぶんと目をかけてる『玩具』がいるって聞いてな。どんなモンか、一目見に来ただけさ」
俺を品定めするような、蛇のようなねっとりとした視線が全身を舐め回す。
やがて、三日月のように口端を歪めた。
「アル……だったか。そのうち、お前さんに仕事を頼むかもしれねえな」
「は……!? なんで、俺があんたの仕事を……!」
「安心しな」
反射的に牙を剥きかけた俺を制するように、ハーウッドは両手を軽く上げた。
「お前さん向けの、やさしーい仕事だよ。……気に入らなかったら断ってくれて構わねえさ」
甘く、優しく、底知れない毒がたっぷりと孕んだ声。
その言葉の裏にどれほどの悪意と罠が潜んでいるのか、想像するだけで吐き気がした。
俺の凄まじい嫌悪感など気にする素振りも見せず、ハーウッドは窓の外――東の空へと目を向けた。
「これから共和国へ行くんだろう? ……いいねえ」
その横顔に浮かんでいたのは、純粋な好奇心と、破滅を愛する者特有の恍惚だった。
「今にも爆発しそうなあの国だ。ちょっとこちらから介入して、もろとも『ドカン』と吹き飛ばしてみるのも……最高に楽しそうだ」
「――――ッ」
俺は息を呑んだ。
国一つを巻き込む大惨事を、明日の昼飯を選ぶような手軽さで口にする。
この男の狂気はただ息をするように自然に、最悪の選択肢を遊戯として楽しんでいるのだ。
恐怖と嫌悪感で凍りつきそうになる足を踏み締め、それでも俺はその男から目を逸らすまいと真っ向から睨みつけた。
面白そうに見つめ返した後、ハーウッドは満足げに鼻を鳴らした。
「くくっ、そんじゃあな……」
ポン、と。立ち去り際に、俺の肩を軽く叩く。
「ごちそうさん」
甘いバターの香りが残る指先でそう言い残し、最悪の劇薬はふらりとラウンジを後にした。
足音が完全に遠ざかり、気配が消えてから少しして。
俺は肺の底に溜まっていた息を、深く、大きく吐き出した。
「……はぁぁ……」
糸が切れたように、俺はソファの背もたれに深く沈み込んだ。
「久しぶりに顔を見ましたが……あの性根の悪さ、全く変わりませんわね」
デュバリィさんが心底呆れたように肩をすくめ、ルクレツィアさんが「旦那はんが堪忍なぁ、アルくん」と苦笑いしながらフォローを入れてくれる。
横を見ると、セドリックも俺と同じように、心底安堵したようなため息をついていた。
そんな中、姉さんだけが「あははっ! 相変わらず食えないおっさんだねえ」と、からからと笑っている。
俺はくしゃくしゃと乱暴に頭を掻き回した。
頼み事と言われたところで今の時点では何のことだかさっぱり分からないし、警戒したところでどうしようもない。
正直関わり合いになりたくない手合いの筆頭でもあるため、今は頭の隅に追いやることにした。
「……まあ、あのおっさんのことは今はいいよ」
姿勢を立て直し、気を取り直して正面へ向き直る。
「あのおっさんのせいで言い損ねたけど。……姉さん」
「ん? どったの?」
シャーリィは呑気に焼き菓子をかじりながら、不思議そうに小首を傾げた。
俺は軽く呼吸を整え、先程までの怯えを振り払って、真正面から姉さんの瞳を見据えた。
「姉さん。俺に、本気で訓練をつけてくれないか」
姉さんはぽかんと呆気にとられた。
だが、一切の冗談を含まない俺の眼差しに気づくと、彼女の纏う空気が少しずつ変わり始めた。
「あ~~~」
天を仰ぎ、小さく声を上げる。
そして、ぶるぶると犬のように頭を振ったかと思うと、両手で「パーンッ!」と自分の両頬を軽く叩き、再びこちらを見据えた。
その瞬間、空気が変わった。
底抜けに明るい女性の顔は消え去り、そこにあったのは俺がガキの頃に見た――血と硝煙の匂いを纏う、獰猛な獣の笑みだった。
「……『本気』、でいいんだよね?」
ぞくり、と。
ハーウッドの悪寒とは全く質の違う、純粋な暴力の気配に少しだけ圧を感じた。
だが、俺が自分で望んだことだ。
共和国に渡る前に決着をつけておくべきことの一つだと、ずっと決めていたから。
「ああ。本気で頼む」
「ははっ!」
姉さんは心底嬉しそうに破顔し、少し考え込んだ後、悪戯を思いついた子どものように隣へ顔を向けた。
「セドリック、あんたも付き合いな。……久しぶりに『アレ』をやるからさ」
「――――え?」
名指しされたセドリックの顔に、引き攣った笑みが浮かんだ。
完全に油断していたところを、理不尽な流れ弾で撃ち抜かれたような顔だ。
逆らっても無駄だと悟ったのか、セドリックはこの日一番の、絶望の混じった重いため息をついた。
そして、ゆっくりとこちらへ顔を向けると、恨めしさと同情が入り混じった目で俺をじっと見つめてきた。
その眼差しは、雄弁にこう語っていた。
――『覚悟してくださいね?』と。
イーディスへの本格的な移住まで、あと一ヶ月少々。
俺はガチで凹んでいるセドリックを見て少し後悔しながら、それでも自分で選んだことだと、無理やり笑みを作って自分を奮い立たせていた。