『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
前日。
オレド州、マルドゥック綜合警備保障の本社ビル。
地下の生命維持カプセルから出ることになり、私――リゼット・トワイニングに新しく割り当てられた自室で、私は同僚のミラベルと向かい合っていた。
理科大学から提供されたフレームに、マルドゥック社が『シミュラクラ』の技術を応用して組み上げた全身義体。
私がこの新しい身体へと思考を移してから、すでに半年ほどが経っていた。
「それで、明日はホンマに直接会うねんな?」
タブレットから視線を上げ、ミラベルが念を押すように聞いてくる。
「……はい。我が儘を言ってしまい、申し訳ありません」
「いや、ええねんで。リゼットが毎日訓練を続けてきたお蔭で、歩いたり走ったりするくらいなら普通の人と同じくらいには扱えるようになったしな」
ミラベルは苦笑交じりに労うような言葉をかけてくれた。
この半年間は、決して平坦な道のりではなかった。
アル様やヴァン様のサポート業務をこなしながら、空いた時間のすべてを使ってこの身体を動かす訓練を重ねてきた。
最初の頃は、自分の意志で指一本を動かすことにすら途方もない苦労を伴ったものだ。
地道な訓練の甲斐あって、最近になってようやく自然な動作が取れるようになった。
そして先日、身体を失う以前の記憶をほとんど持たない私にとっては『初めて』と言ってもいい感覚で、外の景色の中を歩いた。
各種感覚の再現率はおよそ七割。
それでも、肌で触れる空気の温度や、風に乗って運ばれてくる匂いに、私は深く感動し、気がつけばぽろぽろと涙を流してしまっていた。
隣にいたミラベルをひどく慌てさせ、迷惑をかけてしまったけれど。
「……でも、ホンマは直接会うのは、もうちょっと訓練が進んでからの方がええんちゃうかって、ウチは今でも少し思ってるんよ?」
心配そうなミラベルの言葉に、私は静かに首を横に振った。
「お気遣いは感謝します、ミラベル。ですが……私は、アル様に『この身体で』直接お会いすることに、意味があると思っているのです」
彼が私と同じ全身義体であること。
その事実を知ってから数ヶ月が経つというのに、結局のところ、私はその理由や経緯について彼から何も話を聞けていない。
どう切り出せばよかったのか、適切な言葉が今もわからずにいるのだ。
それでも――。
アル様が私と変わらない全身義体だというのなら、あの流れるような戦闘機動や日常の動作を獲得するまでに、一体どれほどの苦労をされたのだろうか。
担当SCとしてはあるまじき感情かもしれないけれど、私は勝手に彼の過去の足跡に思いを馳せ、深い共感を抱いてしまっていた。
だからこそ。
この世界でも数少ない、同じ身体を使う人間として。
私はモニター越しの映像としてではなく、この二つの足で彼の前に立ち、言葉を交わしたかったのだ。
***
俺は目の前に現れたリゼットさんへ挨拶の言葉を返しながら、内心で少なからず驚いていた。
彼女の姿が、通信越しに見ていた『アバター』と全く同じだったからだ。
事情があるのだろうと思い、あえて口にはしなかったが、通信モニター越しの彼女の姿が『作られたアバター』であることには、かなり最初の段階から気づいていた。
厳密にはデータ上の存在としてこの世界に再構築された俺は、どうもその手のデジタルな偽装に対して異常なほど鋭くなっているらしい。
だからこそ、アバターと全く同じ姿をした『実体』が目の前に現れたことに驚き、俺は黙り込んだまま彼女の姿をじっと見つめてしまっていた。
「いやいや、お見合いやあらへんねんから」
横からパンッと手を叩かれ、ミラベルさんの呆れたツッコミが入る。
「ああ、ごめん。通信上の姿と完全に一緒だったから、ちょっと驚いちゃって」
「……アル様、お気づきになられていたのですか?」
俺がポロリとこぼした言葉に、リゼットさんがふわりと目を丸くした。
「あ」と、そこまで言われて初めて、それが彼女にとって隠しておきたかったことなのだと気づく。
「ごめん。俺、どうもそういうのに気づきやすい体質みたいで……実はけっこう最初から気づいてた」
「そうでしたか……。いえ、こちらこそ事前にお伝えできず、申し訳ありません。少し、個人的な事情がございまして」
リゼットさんは責めるどころか、申し訳なさそうに目を伏せた。ミラベルさんがポンと彼女の肩を叩く。
「ま、ウチの社内にも色々事情があるんよ。勘弁したってな、アルくん」
「ああ、もちろん。無神経なこと言ってごめん、リゼットさん」
「とんでもありません。お気遣い感謝いたします」
お互いに頭を下げ合い、場を和ませた後。
ミラベルさんとリゼットさんの間で、テストの流れやデータの引き継ぎに関する伝達事項が手短に交わされた。
「それじゃ、後はリゼットに任せるな」
ミラベルさんは明るく手を振りながら出口へと向かい、部屋の隅で静かに壁に寄りかかっていたカシム・アルファイドもまた、無言で踵を返そうとした。
「――カシム……さん」
俺は少しだけ声を張り上げ、その背中を呼び止めた。
最強の猟兵は立ち止まり、半身だけ振り向いて静かな視線を向けてくる。
「姉さんからの伝言だ。『次に来る時は獲物を持ってくるから、最後までやり合おうね』……だってさ」
その言葉を聞いた瞬間、カシムは一瞬だけ意外そうな顔を見せた後、ふっと目を閉じて微かに笑みを浮かべた。
「……業務上、相対するのであれば致し方ないな」
低く、しかし確かな熱を帯びた声で呟く。
「俺も……次にやり合う時には、この間みたいな無様は晒さないようにするからさ」
「…………」
カシムは俺の目を静かに見返し、やがて短く鼻を鳴らした。
「もとより、それほど低い評価はしていないがな。……心得ておこう」
それだけを言い残し、カシムは静かな足取りで扉の向こうへと消えていった。
残された広いテストエリアには、俺とリゼットさんの二人だけになった。
少しだけ張り詰めていた空気をほぐすように、俺は頭を掻きながら彼女に向き直る。
「ごめん、引き留めちゃって。それで、次は何から始めたらいい?」
俺の問いかけに、リゼットさんはいつもの凛とした、物腰の柔らかい笑みを浮かべた。
「はい。それでは――」
澄んだ声が、静かな地下空間に響く。
こうして、俺とリゼットさんの、直接顔を合わせての初めてのテストが始まった。