『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
バチッ、と天を裂くような稲光が、泥濘(ぬかるみ)に立つ少年と魔獣の姿を白日のように照らし出した。
「グルァァァッ!!」
泥を蹴り立て、四つ足の獣が低い姿勢からアルシュの喉笛めがけて跳躍した。
「やぁぁぁっ!!」
アルシュは恐怖で硬直しかける身体を必死に叱咤し、手にした木剣を斜め下から振り上げた。
ガキンッ!と、木と硬い爪がぶつかり合う鈍い音が嵐の中に響く。
子供の筋力では完全に弾き返すことはできず、勢いを殺しきれなかった魔獣の爪が、
アルシュの肩口から腕にかけての衣服を引き裂き、浅く肉を裂いた。
「くっ……!」
焼け付くような痛みが走り、鮮血が雨水に混じって流れ落ちる。
ぬかるんだ地面に足を取られ、体勢が崩れそうになる。
少しでも後ろに下がって体勢を立て直したいという本能が叫ぶ。
しかし、アルシュは絶対に踵(きびす)を返さなかった。
後ろに一歩でも下がれば、その後ろで震えているリリに牙が届いてしまうからだ。
(守るんだ……僕が、ここで!)
再び魔獣が地を蹴る。今度は連続した爪の連撃。
アルシュはランディの教えを思い出し、極限まで重心を低く落とした。
力任せに打ち合うのではなく、相手の力を逸らし、急所への最短距離を見極める『赤い星座』の効率的な身のこなし。
防ぎきれなかった爪が頬をかすめ、太ももを削る。
全身が痛みと疲労で悲鳴を上げている。
それでも、アルシュの瞳からは闘志の火は消えなかった。
魔獣が苛立ち、大振りに牙を剥いて飛びかかってきた、その一瞬の隙。
「これで……終わりだっ!!」
アルシュは踏み込んだ足の裏で泥を強く掴み、全身のバネを解放するようにして木剣を突き出した。
無駄のない、鋭く重い一撃。
木剣の切先が、空中にいて身動きの取れない魔獣の顎の下――柔らかな頸部を正確に、そして強烈に打ち抜いた。
「ギャンッ!?」
短い悲鳴を上げ、魔獣は泥水の中へ無様に吹き飛び、二度と動かなくなった。
「はぁっ……! はぁっ……はぁっ……」
アルシュは木剣を下ろし、肩で大きく息をした。
勝った。倒した。リリを守り抜いた。
極限の緊張感から解放され、全身から一気に力が抜けていくのを感じた。
「アルシュ!!」
その時、激しい雨音を切り裂いて、聞き慣れた少女の悲痛な叫び声が響いた。
ハッとして顔を上げると、大聖堂の入り口の方から、泥だらけになって走ってくるキーアとシスター・マーブルの姿が見えた。
「キーア……! シスタ――」
「違う、アルシュ! 後ろ!! もう一匹いるの!!」
キーアのその言葉を脳が理解するよりも早く、背後から強烈な獣の殺気がアルシュの首筋を撫でた。
振り返った瞬間。
そこには、倒した個体よりも一回り大きな魔獣が、すでに音もなく跳躍し、
アルシュの顔面めがけて大きく牙を剥き出しにしているところだった。
――その瞬間。
アルシュの中で、世界から音が消え、時間がひどくゆっくりと流れるように感じられた。
一匹を倒し切ったという気の緩み。限界を迎えていた体力。
そして何より、突然目の前に現れた「死の顎」に対する、十歳の少年の純粋で抗いがたい『生存本能』。
頭ではわかっていた。自分のすぐ後ろには、足をくじいて動けないリリがいるのだと。
けれど、アルシュの身体は、意志とは無関係に動いた。
牙が顔面を噛み砕く直前。アルシュは恐怖に顔を引きつらせながら、無意識のうちに、その場から「半歩、横へ飛び退いて」しまったのだ。
ゆっくりと流れる時間の中で、アルシュは自分の目の前を通り過ぎていく魔獣の胴体を見た。
そして、自分が避けたその直線上に――恐怖に見開かれたリリの顔があるのを、はっきりと見た。
(あっ――)
「――きゃああああっ!!」
リリの悲鳴と、肉が裂ける嫌な音が、アルシュの鼓膜を容赦なく打ち据えた。
「《ホーリーバレット》!!」
直後、シスター・マーブルの掲げた手から白銀の光弾が放たれ、
リリに覆い被さろうとしていた魔獣を強烈な衝撃と共に彼方へと吹き飛ばした。
しかし、アルシュは魔獣の最期を見ることもできず、泥濘の上に膝から崩れ落ちていた。
手から木剣が滑り落ち、泥にまみれる。
「リ、リリちゃん……!」
キーアが悲鳴のような声を上げて駆け寄り、シスターがすぐに治癒のアーツを唱え始める。
リリの小さな肩からは、魔獣の爪によってつけられた無惨な裂傷から、痛々しい血が流れ出していた。
「ひぐっ、うぇぇぇんっ……! 痛いっ、痛いよぉ……っ!」
泣き叫ぶリリの声が、アルシュの心を刃物のようにズタズタに切り裂いていく。
致命傷ではない。シスターのアーツがあれば、すぐに治る傷だ。
だが、そんなことは関係なかった。
アルシュは震える手で地面の泥を握りしめ、まるで罪人のように、泣きじゃくるリリの傍へ這い寄った。
「ごめん……」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。
自分が、避けたから。
リリを守ると誓って剣を構えたはずなのに、いざ自分の命が脅かされた瞬間、
無意識のうちに自分を優先し、背中の彼女を犠牲にしてしまった。
「ごめんなさい……っ! 僕が……僕が、避けたから……っ!」
雨が激しくアルシュの身体を打ち据える。
けれど、自分がどれだけ傷ついても、どれだけ雨に打たれても、先ほどまでの「誰かを守り抜いた」というあの誇らしい温もりは、二度とアルシュの心には戻ってこなかった。
絶対的な失敗と、拭い去れない深い後悔だけが、少年の心に重く、冷たくのしかかっていた。