『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
巨大な牙が、唸り声と共に迫りくる。
「やあぁーッ!」
茶髪のショートヘアを揺らし、少女――リオが一気に踏み込んで槍を突き出した。
だが、巨大なイノシシのような魔獣は意に介さない。
強靭で分厚い毛皮に阻まれ、鋭いはずの槍先は硬いゴムを撫でたように浅く滑るのみ。
「くっ……!」
僕もまた、反対側から盾を構えつつ剣で前脚へ斬りかかる。
だが返ってきたのは、手首を打つ嫌な痺れだけ。
刃が肉を捉える感触はどこにもなく、切っ先はずるりと分厚い皮膚の上を滑って終わる。
直後、鬱陶しそうに顔を震わせた魔獣が、大木のような牙を振り上げて襲いかかってきた。
「ライル!」
「しまっ……!」
咄嗟に盾を両手で構え、正面から受け止める。
鋼がひしゃげる嫌な音。その反動で、僕の体は宙に浮き、後方へ叩きつけられた。
地面を二、三度転がる。それでも痛みを噛み殺し、即座に立ち上がった。
(だめだ。僕らじゃ、とても歯が立たない……!)
赤毛の頭を振り、必死に頭を回す。
二人がかりでも、あの化け物を倒すのは無理だ。
でも、僕らのやるべきことは魔獣を倒すことじゃない。後ろの依頼主を守りきればいい。
肩越しに背後を振り返る。
そこにいるのは、風変わりな旅装を纏った依頼者、シェリア・リーフィールドさん。
魔獣の威圧に腰を抜かしかけながらも、震える足に力を込め、どうにか自力で立っている。これなら、走って逃げることもできるかもしれない。
「リオ! 僕がこのまま時間を稼ぐ! 君はシェリアさんを安全なところまで!」
魔獣と依頼主の間へ割り込むように立ち塞がり、相棒へ声を張り上げる。
「何言ってるの、ライル! そんなことしたら、あんたやられちゃうよ!」
槍を構えたまま、リオが悲痛な声を上げた。
普段の元気でおっちょこちょいな姿は消え、その顔には焦りと恐怖がありありと浮かんでいる。
「大丈夫! こんなところで死ぬ気はないから!」
強がりじゃない。僕の中には確かな勝算があった。
あの魔獣、直進の突進速度は脅威だけど、巨体ゆえに小回りが利かない。
無理に攻めず、真正面からの突撃を捌くことだけに専念すれば、そう易々とやられはしないはずだ。
何より僕らは、見習いとはいえギルドの看板を背負った『準遊撃士』なのだから。
「まずは依頼主の安全確保だ……頼む、リオ!」
僕の強い視線を受け、リオは「う〜〜〜っ」と唇を噛んだ。葛藤は、ほんの数秒。やがて顔を上げ、決死の覚悟で頷いた。
「……わかった! 絶対、死なないでよライル!」
「ライル様! リオ様……っ!」
心配そうに声を張り上げるシェリアさんへ、僕は無理やり口角を上げてみせる。
「大丈夫です。必ず守り抜きますから、どうかリオの言う通りに!」
二人を逃がす道を作るべく、僕が魔獣の注意を惹こうと剣を打ち鳴らした――まさにその刹那。
タァァンッ!
鼓膜を打つ、鋭く乾いた銃声。
魔獣の顔面すれすれを導力弾が掠め、巨大なイノシシが苛立ちと共に視線を逸らす。
「――っ!?」
驚いて銃声の方を振り向く。
木々の隙間を抜け、見知らぬ男が一人、僕と魔獣の間へ疾風のように滑り込んできた。
***
俺は巨獣と少年少女の間へ割り込み、タクティカルナイフと導力銃を構え直した。
横目で確認する。先ほど叫んだと思しき風変わりな衣服の女性と、それを庇うように立つ二人。恐怖に足を竦ませながらも、武器を握る手だけは離していない。依頼主を守ろうとする、その立ち姿。
(遊撃士……いや、動きに場馴れした感じはない。準遊撃士ってところか)
「あなたは……!」
剣を持った赤毛の少年が、驚いたように声を上げる。
俺は巨獣の視線をこちらへ誘うよう銃口を向けたまま、背中越しに言葉を投げた。
「そっちは遊撃士か。こいつは俺が引き受ける。後ろの人はそっちで守ってくれ」
「は……はい……! すみません、お願いします!」
少年が魔獣と俺を交互に見やり、力強く頷く気配。
続いて、槍を持った少女からも焦りの混じった忠告が飛んでくる。
「気をつけて! あいつの毛皮、分厚すぎて全然刃が通んないんだよ!」
「……了解だ。助かる」
少年と少女が依頼主を守りながら後退していく気配を、背で捉える。後顧の憂いが絶たれたなら、あとは目の前の獣に集中するだけだ。
「ギャオォォォォォンッ!!」
咆哮と共に、巨大な牙が振り下ろされる。
俺は最小限の動きで一撃を躱し、地を蹴って懐へ飛び込んだ。
狙うは首元の急所。少女の警告を確かめるように、逆手のナイフで斬り上げる。
――ギィッ!
硬質な、嫌な音。
シミュラクラの膂力を乗せてなお、刃はほんの一瞬引っかかっただけで、ずるりと毛皮の上を滑っていく。手首に伝わる、その不快な手応えのなさ。
「マジで全然通らねぇ……」
冷や汗を滲ませ、俺は素早く後方へ跳ぶ。
羽虫でも払うように魔獣が身震いした直後、大木のような牙が鼻先すれすれを掠め、虚空を荒々しく薙いだ。
「アル様……!」
一拍遅れて安全圏に着き、端末を高速で操作していたリゼットさんの声が飛ぶ。
既にデータ照合を終えているらしい。
「その魔獣は《ベルズボア》。数時間前に手配されたばかりの凶悪個体です! 極めて強靭な外皮を持ち、物理的な手段で傷を与えるのは非常に困難かと……!」
「うへぇ……そいつは厄介だ」
的確な報告に、思わず顔をしかめる。
物理が通らないなら、導力魔法(アーツ)の属性攻撃に頼るのがセオリー。
だが――突進を捌いて立ち回りながら、関節の隙間を狙って何度もナイフを入れてみるも、その尽くが分厚い皮と脂に滑って阻まれる。
(……一人で捌きながら、悠長にアーツを練る余裕はないな)
先ほどまで気怠げに周囲を威嚇していたベルズボアの双眸が、今は血走った赤に染まっている。
度重なる俺の攻撃で、怒りの矛先が完全にこちら一人へ固定された証拠だ。
「ギャオォォォォォンッ!!」
土煙を巻き上げ、荒い鼻息を吹き鳴らす巨獣。
地響きと共に、その質量が一直線に突っ込んでくる。
殺気を読み、ギリギリまで引きつけて横へ跳ぶ。
突進は俺の残像を切り裂き、背後の太い樹木をへし折り、傍らの巨岩を粉微塵に砕いて通り抜けた。
掠めただけの風圧が、頬の皮膚を張り詰めさせる。デタラメな質量だ。
刃が通らない以上、ナイフは今や飾りに等しい。
俺は一度得物を鞘へ戻し、両拳を固く握り込んだ。
反転して再び迫る側面へ回り込み、小手調べに『負荷(ロード)3』の衝撃波を拳へ乗せて叩き込む。
ドンッ!
鈍い音。
だが魔獣は、痒いところを掻かれた程度にしか感じていない。
意に介する素振りもなく、無骨な頭突きを繰り出してきた。
「なら、これはどうだ……!」
体勢を低くして掻い潜り、今度は出力を倍に上げる。
限界まで力を込めて拳を握る。
『負荷6』を強烈なアッパーの軌道で顎下へ叩き込んだ。
ガァァァンッ!!
火花と衝撃音が弾け、さすがのベルズボアも一瞬、巨体をぐらりと揺らす。
だが、有効打には遠い。
それどころか――撃ち込んだ俺の右腕に、骨の芯まで軋むような痺れが逆流した。
「っ……、が……!」
力が抜け、腕がだらりと落ちる。
負荷6の反動を殺しきれない。しばらくはまともに拳を握れそうにない。
その隙を待っていたように、完全に逆上した魔獣が咆哮を上げて暴れ始めた。
無軌道に薙ぐ牙、大地を砕く蹄。腕の痺れた今、すべてを躱しきるのは至難だ。
俺は咄嗟に跳び上がり、迫る牙を足場代わりにパルスグリーブを起動。
出力を『負荷4』へ設定し、力任せに蹴りつける。
生まれた反動が跳躍に乗り、俺の体を後方へと大きく弾き飛ばした。
空中で身を捻って着地。その直後、俺が寸前までいた場所の石碑のような岩塊が、突進の一撃で跡形もなく吹き飛んだ。
(くっ、バケモンが……!)
胸中で悪態を吐き、深く息を整える。
外皮が硬すぎて、打撃の衝撃が内部まで抜けきらない。
このまま出力を上げ続ければ、相手より先に俺の体が壊れる。それだけだ。
思考を巡らせる中、ふと――最初にナイフで斬りつけた時の、あの一瞬の引っかかりが脳裏を掠めた。
外皮を「斬る」のではない。一点に力を集めて「刺す」なら、どうか。
覚悟を決め、痺れの残る腕に鞭を打って再びナイフを握り込む。
「ギャオォォォォ!」
突撃してくる魔獣へ、俺は逃げず、真っ向から踏み込んだ。
すれ違いざま、狙い澄ました刃を眼球の周辺へ一閃。
皮の薄い顔まわりには、刃が通る。鮮やかな血が吹き出した。
それでも足は止まらない。
だが、片目の視界を潰されたことで動きが精彩を欠き、確かな隙が生まれた。
狙うは、がら空きになった土手っ腹。
俺は両手で柄を握り込み、斬るのではなく、シミュラクラの規格外の膂力を余さず乗せて、真っ直ぐに突き刺した。
――ブチブチッ!
強靭な筋肉と脂を裂き、ナイフが深々と腹へ沈む。
その手応えを掴んだ瞬間、俺は容赦なく刃を引き抜き、空いた右手を生々しい傷口の奥へと押し込んだ。
装甲という名の外皮を越えた、無防備な体内。
「これで……終わりだッ!!」
パルスストライカーの出力を、一息に『負荷8』へ。
腕がぶっ壊れる前提の出力だ。
正直、今まで一度も使ったことがない。
博士からは9以上は使うなと言われている以上、これが現状の最高火力――!
その破滅的な衝撃波を、ゼロ距離で解き放つ。
メキッ、と。
魔獣ではなく、俺の右腕から嫌な音が鳴った。
規格外の衝撃に、痛みすら追いつかない。
感覚は完全に麻痺し、指先の存在すら消えていく。
だが、その代償に放たれた衝撃波は、ベルズボアの体内を余さず蹂躙した。
「ギャ、ア…………」
断末魔と共に、
二メートルを優に超える巨体が、内側から突き上げる衝撃で一瞬だけ宙に浮く。
そして、糸の切れた操り人形のように、ズシンと大地へ倒れ伏した。
もう、ピクリとも動かない。
絶命を確かに見届け、俺は全身の力を抜いて、その場にバタリと座り込んだ。
「アル様……!」
背後から、ひどく安堵したリゼットさんの声。
視界の端では、先ほどの少年少女と依頼主の女性が、信じられないものを見る目でこちらへ駆け寄ってくるところだった。