【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ちょうど正午を回った頃。
俺とリゼットさんは、オレドの街中にあるこぢんまりとしたレストランへと足を踏み入れた。
ランチタイムの真っ最中ということもあり、店内は活気に溢れている。
俺たちはランチメニューの中から、それぞれ好みのパスタと小さなパンのセットを注文し、二階に設けられた屋外のテラス席へと腰を下ろした。
「美味しいですね」
「ああ、当たりだな、この店」
初夏の心地よい風が吹き抜けるテラス席で、向かい合って軽い談笑を交わしながら、ゆっくりと食事を進めていく。
ふと、彼女の手元に視線を落とす。
実は内心、義体の指先でフォークやナイフの細かい操作をこなすのは難しいのではないかと思っていたのだが、それは杞憂だった。
彼女はごく自然な、生身の人間と全く変わらない洗練された手つきで食事をしている。
見えないところでの、血の滲むような反復練習の成果なのだろう。
「そういえば、アル様」
パスタをひと巻き口に運んだ彼女が、ふと思い出したように口を開いた。
「先ほどの書店で、随分と嬉しそうにされていましたね。……ふふ、『これはこういう話で、すごく面白いんだ』と。まるで、宝物を自慢する少年のようで」
「うっ……。それ、蒸し返すのやめてくれない?」
俺が思わず呻くと、リゼットさんは口元に手を添え、くすくすと上品に笑った。その澄ました横顔に、ほんの少しの茶目っ気が覗く。
「失礼いたしました。……ですが、そういうアル様を存じ上げることができたのも、今日の収穫です。契約者様の新たな一面を知るのも、サービスコンシェルジュの大切な務めですので」
「それ、絶対に後で仕事の口実にしてるだけだろ……」
「さて。どうでしょうか」
しれっと躱すその返しに、今度は俺の方が苦笑してしまう。
通信越しの、隙のない完璧なコンシェルジュの顔からは想像もつかない。
こうして向かい合ってみると、彼女は思いのほか、こういう軽口を楽しむ気質らしかった。
「でも、まあ……本の話は、久しぶりにあんなに夢中になれた気がするよ。あの作者さんに会えたのも大きいけど」
「ええ。私も、アル様のおすすめしてくださった物語を読むのが、今から楽しみです」
そう言って、彼女は膝の上に大切そうに置いた紙袋へ、ちらりと愛おしげな視線を落とした。
食事を終え、食後のコーヒーと紅茶を味わいながら、俺たちは午後の予定について話し合った。
「さて、午後はどうしようか。何か気になる場所はあった?」
「そうですね……先ほど購入したガイドブックを拝見したのですが」
リゼットさんが広げた、真新しい観光雑誌。
そこには、数ページにわたって大きく特集が組まれているエンターテインメントがあった。
『導力映画(オーバルシネマ)』――その中でも、現在歴史的な大ヒットを記録しているという超大作『ゴールデンブラッド』の記事だ。
「導力映画、か」
「はい。アル様は、ご覧になられたことはありますか?」
「いや、俺の記憶の中だと触れたことがなくて。リゼットさんは?」
「私も、知識として知ってはいるのですが、実際に鑑賞したことはありません」
「じゃあ、お互い初めてってわけだ」
「ええ。……こういうものを二人で選んで観に行くというのも、なんだか、少しくすぐったいものですね」
そんなことをさらりと言って、彼女は上品にはにかむ。
それなら決まりだ、と俺たちは頷き合い、そのまま映画館のチケット売り場へと並んだ。
――そして、約二時間後。
クロスベルっ子としての記憶が根強い俺の感覚からすると、「劇」や「舞台」といえば、やはり真っ先にイリアさんたちの劇団『アルカンシェル』が思い浮かぶ。
あちらが生身の人間の放つ熱量と極限のパフォーマンスを味わうものだとするなら、導力映画はカメラワークや音響を駆使し、観る者を全く別の世界へと引きずり込むような、別次元のとんでもない没入感があった。
興奮冷めやらぬまま映画館を出た俺は、並んで歩きながら思わず熱弁を振るってしまっていた。
「いや、すごかった! 特に中盤の、あの市街地での追撃戦! あんな視点の動き、どうやって撮影してるんだってくらい迫力があってさ。それに役者さんのアクションも……」
「ふふっ。ええ、本当に。息を呑むような展開の連続でしたね」
「だろ!? あと、主人公が最後に剣を抜くシーンのあの演出がさ――」
まるでオタク特有の早口になっていた俺を見て、リゼットさんは呆れるどころか、口元に手を当ててクスクスと楽しそうに笑っていた。
彼女自身も初めての映画体験をしっかり楽しんでくれたようだが、それ以上に、目を輝かせてテンションが上がりきっている俺の様子を見るのが、たまらなく面白いといった様子だ。
「本日は、パスタの時に一度、書店で二度……そして今、三度目でしょうか」
「……何の話?」
「アル様の、素の少年のようなお顔を拝見した回数です」
「……勘弁してよ」
しれっと指を折って数えてみせる彼女に、俺は片手で顔を覆った。
午前中の本屋に引き続き、またしても「少年の熱中を見守るお姉さん」の視線を向けられている気がしたが、今日はもう、諦めることにした。
その後は、再び二人でゆったりとしたペースで街を回った。
大通りから少し外れた石畳の路地に入り、ショーウィンドウに並ぶ様々な雑貨や衣服を眺めながら談笑する。
「あ、アル様。あちらの小鳥の細工、とても可愛らしいですね」
「本当だ。よく出来てるな。……リゼットさん、ああいうのが好きなの?」
「ふふ、どうでしょう。自分でもまだ、はっきりと好みが分かっていないところもありまして」
その答えに、俺は少しだけ胸を突かれる。
好き嫌いという当たり前の感覚さえ、彼女はこれから一つずつ、外の世界で見つけていくところなのだ。
「なら、これからゆっくり探していけばいいさ。今日の小鳥は、その第一号ってことで」
「……ふふ。ええ、そうですね。しっかり、覚えておくことにします」
そんなふうに笑い合いながら歩き、少しお腹に余裕ができた頃には、通りで見つけた屋台で手軽な買い食いを楽しんだ。
甘い香りに誘われて買った、温かいクレープのようなスイーツ。二人でベンチに腰掛け、それを分け合いながら頬張る。
「……美味しい」
小さく一口かじったリゼットさんが、パァッと顔を綻ばせた。
そして彼女は、スイーツの甘みを口いっぱいに広げながら、ふと顔を上げて周囲を見渡す。
青く澄み渡ったオレドの空。
通りを行き交う人々の笑い声、石畳を叩く靴音。頬を撫でていく、初夏の少し湿った風。
その時のリゼットさんの横顔は、言葉で言い表せないほど穏やかで、そして真剣だった。
義体の瞳孔がわずかに収縮し、まるでこの世界のすべての色彩、音、匂い、風の温度を、自分という存在の奥底へ、一つ残らず噛み締めるように焼き付けようとしている。
狭く暗い、無機質な生命維持カプセル。
そこからようやく抜け出し、自分の足で立ち上がった彼女にとって、この何気ない街の喧騒こそが、どれほど眩しく、愛おしい奇跡なのだろうか。
俺はその邪魔にならないよう、彼女の横顔を静かに見守りながら。
今日、彼女を外へ連れ出して本当に良かったと、心からそう思っていた。
一日中オレドの街を歩き回り、空がゆっくりと茜色に染まり始める夕暮れ時。
俺たちは通り沿いに大きめの公園を見つけ、そこにあったベンチで少し休憩を取ることにした。
「少し待ってて」と声をかけ、近くのスタンドで冷たいジュースを二つ買う。
ベンチで待つ彼女の元へ戻り、「はい、お疲れ様」と手渡すと、俺は隣に腰を下ろした。
周囲は豊かな木々に囲まれ、街の喧騒から少し離れた、静かで落ち着いた空間だ。
何を話すでもなく、ただ二人で並んで座り、夕日に照らされていくオレドの街並みをぼんやりと眺める。
心地よい疲労感と、穏やかで満ち足りた時間が、二人の間に流れていた。
やがて。膝の上でジュースの缶を両手で大切そうに包み込んでいたリゼットさんが、ぽつりと静かに口を開いた。
「――アル様。今日は、本当にありがとうございました」
その言葉に込められた、深い感謝の念。
外の世界へ連れ出してくれたことへの思いや、これまでの様々な感情が入り交じったものだと感じ取れた。
だからこそ、俺は少し照れくさくなって、苦笑混じりに返す。
「はは……。俺はただ、リゼットさんとデートがしたかっただけだよ」
俺の言葉に、彼女は少しあっけに取られたように目を丸くした。
けれど、ほんの少しの間を置いた後、困ったような、それでも嬉しさを隠しきれないような柔らかな苦笑を浮かべて。
「……アル様は、時々、そういうことを不意におっしゃるのですね。……ずるい方です」
小さくそう呟いて、彼女は夕陽を反射してきらきらと輝く翡翠の瞳を、真っ直ぐに俺へと向けた。
「でも、本当に楽しかったです」
それは、いつもの完璧な『サービスコンシェルジュ』としての洗練された微笑みではなかった。
外の世界の空気に触れ、心を動かされ、今この瞬間を心から楽しんでいる――年相応の、いや、無邪気な少女のような、とびきり愛らしい笑顔だった。
「俺も、楽しかったよ」
俺が心からの本音を返すと、彼女は少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「ふふっ。アル様の普段とは違うお姿も、いーっぱい見せていただけましたし」
「うっ……はは……」
今日一日で露呈してしまった自分の隠しきれない少年っぽさを思い出して突っ込まれ、俺はただ力なく笑うことしかできなかった。
そんな他愛のない、和やかなやり取りの後。
ふと、隣のリゼットさんが小さく息を吸い込む気配がした。
「あの……アル様」
声には、小さく決心を込めたような、意を決した響きがあった。
横顔を見ると、夕陽のせいだけではなく、その白い頬がほんのりと朱に染まっているのがわかる。
彼女は膝の上の缶を少しだけ強く握りしめ、上目遣いにこちらを見つめてきた。
「その……もし、よければですが。今度、アル様がこの街にいらした時には――今度は私が、この街をご案内させてもらえませんか?」
それは、明日この街を発つ俺に対する、彼女からのささやかな『次』の約束の提示だった。
「本日は、アル様に色々な場所へ連れて行っていただくばかりでしたので。……次は、サービスコンシェルジュとしての腕の見せ所、ということにさせてください」
そう言って、彼女は照れ隠しのように、少しだけ茶目っ気を滲ませて付け加える。
俺は一瞬、ちょっとびっくりして目を見開いた。
だが、すぐに胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じて、自然と頬が緩む。
「――ああ。リゼットさんの案内なら、間違いなさそうだ。喜んで」
俺がはっきりとそう返すと、リゼットさんはパァッと顔を輝かせ、今日一番の、花が綻ぶような満面の笑みを浮かべて「はいっ」と頷いた。
並んで座るベンチ。夕闇が静かに降りてくるオレドの空の下。
俺たちは、次に会う時の約束を胸に刻みながら、いつまでも隣で穏やかな時間を分かち合っていた。
***
その後、アル様と別れて。
私は社内で割り当てられた自分の私室へと戻り、今日一日のこと、そして昨日の出来事も含めて、ゆっくりと思い返していた。
アル様からいただいた『少女探偵』の小説が入った紙袋を机に置き、椅子に腰を下ろした、その時。
コンコン、と。控えめに扉を叩く音が響いた。
「はい」と返事をして扉を開けると、そこにはミラベルの姿があった。
「おかえり。デート、無事に終わったんやろ?」
人のいい、からかうような笑顔でミラベルが聞いてくる。
私にとって姉代わりのような彼女は、初めての外の世界への外出……そして、彼とのデートの顛末が気になって、様子を見に来てくれたのだろう。
私は彼女を部屋へ招き入れ、向かい合って座った。
今日一日のデートについて報告しようと口を開きかけたところで、彼女はふっと笑ってひらひらと手を振る。
「ええって、ええって。ウチもそこまで野暮な出歯亀やないし。……それに、リゼットのその顔見たら、大体のことは分かったからな」
「もう……ミラベルったら」
全てを見透かしたような彼女の言葉に、私は少しだけ頬を熱くしながら、冗談めかして微笑み返した。
それから、アル様からプレゼントしてもらった本のこと。
自分の足で歩いてみた街並みの美しさ。
展望台からの景色や、初めて味わった導力映画の圧倒的な映像美。
今日この身で感じ取った、心に残る新鮮な体験の数々を彼女に語った後。
私は少しだけ姿勢を正した。
以前からずっと考えていたこと……そして、昨日と今日、アル様と過ごし、言葉を交わしたことで固めた『決意』を、彼女へ真っ直ぐに切り出す。
「――ミラベル。私に、戦闘訓練のカリキュラムを組んでいただけないでしょうか」
私の口から出た言葉に、彼女は心底驚いたように目を丸くした。
「リゼット……。ほんまに、ええんか? わざわざ危険な鉄火場に立たんでも、あんたにはオペレーターとしての才能も十分にある。裏方として必要な技術なら、ウチがいくらでも教えたるし……」
心配そうに声をかけてくれる彼女へ、私は静かに、けれど明確に首を横に振った。
「お気遣いは、ありがとうございます。ですが……これは、以前からずっと考えていたことなのです」
これまでは、まずこの義体を日常生活で違和感なく動かすことに必死だった。
けれど、この身体のポテンシャルは計り知れない。
アル様が証明してみせたように、常人を遥かに凌駕する膂力と、高度な戦闘機動を発揮することが可能な『器』なのだ。
それこそ、訓練次第では、彼のように戦うことも。
「もちろん、ミラベルのように卓越したオペレーターとして、後方からサポートに徹する道も考えてはいました。……けれど、昨日のことです」
言葉を区切り、昨夜のアル様の痛々しい右腕を思い出す。
だらりと力なく下がった、あの腕を。
「アル様が手配魔獣と相対された際。もし私に、前線で彼を直接支援するだけの力が備わっていたなら……あそこまで彼に無理をさせ、右腕を犠牲にさせるような真似は、させずに済んだのではないかと。そう、思ってしまったのです」
目の前に、助けられるだけのスペックがあるのに。自分が戦い方を知らないが故に動けず、大切な誰かが自分を犠牲にして傷ついていくのを、ただ安全な場所で見ていることしかできない。
それが、どれほど嫌で、恐ろしいことなのかを、私は昨日、痛感したのだ。
「それに、ただそれだけではありません」
私は、自分の胸元――滑らかに動くこの義体の中心へと、そっと手を当てた。
「この身体は、マルドゥックの皆さんが……ミラベルやカシム主任、ソーンダイクGMが、私の命を繋ぐために心血を注いで用意してくださったものです。ならば私は、皆さんの為にも、この身体のポテンシャルを、全て活かしきれるようになりたいのです」
私の揺るぎない決意を感じ取ってくれたのだろう。
ミラベルは大きく息を吐き出し、くしゃりと乱暴に頭を掻いた。
「……わかったわ。主任にも伝えて、一からしっかりしたカリキュラムを組んでもらうようにする」
「ありがとうございます、ミラベル」
「ただな、リゼット。……ひょっとしたら、これまでの歩行訓練なんてもんが可愛く思えるくらい、しんどい道になるかもしれへんで?」
「はい。……その覚悟は、できています」
念を押す彼女へ、私は迷いなく頷いた。
ミラベルの言う通り、今の私には戦うための意識も、経験も、技術もない。
どれだけ身体能力が高くとも、それらを制御する『ソフトウェア』は、これから血の滲むような努力で、一つずつ身に付けていかなければならないのだ。
(アル様は、ご自身のことを『データの存在』だと仰っていましたけれど)
けれど、彼は決して言わなかった。
彼がいま当たり前のように発揮している、あの研ぎ澄まされた思考や戦闘技術が――たとえ演算された歴史という虚構の中であったとしても、彼自身が泥水に塗れ、必死に苦労して、傷つきながら身につけてきた『彼だけの生きた証』であることを。
彼から真実を打ち明けられ、その一番近くで重みを知った者として。
少しでも、あのひたむきな背中の後を追ってみたい。
私は今、そう強く感じていたのだから。
一番真っ当にヒロインしてる気がするリゼットさん